21.寂しさの名前
―湊―
空を見上げながら、天の川の周りにある星の名前は何だとか、知ってる星座の種類は何があるとか、そんな他愛もない話を続けていたら、すっかり遅い時間になっていた。
スマホで時間を確かめた千晃が、そろそろ帰るか、と腰を上げる。
「もう日付変わる」
「え?もうそんな時間?」
ずっと夜空を見ていたから、時間の感覚がなくなっていた。
「行こうか」
「あ……うん」
先に立って歩き出した千晃の後を追う。
歩きながら振り返ると、宝箱の中身のような星空が少しずつ遠ざかっていく。東京に帰ったらもう、こんなに綺麗な星は見られない。
余所見をしながら歩いていたら案の定、下り坂で足を滑らせた。
「っ……!」
転ぶ、と思い、咄嗟に目を閉じた。
しかし覚悟した衝撃は来ず、気づいた千晃がすぐに振り向いて受け止めてくれる。
「……あっぶな」
「ご、ごめん」
「また怪我したらどうすんの。明日、レクリエーションなんだろ」
明日、というか今日は、とうとう教育実習最後の日だった。
授業は午前中までで、午後から全校生徒が体育館に集まり、チームを組んでバスケットボール大会をする事になっている。
俺も受け持ちにさせてもらっているクラスの子達に混ざり、参加する予定だった。
千晃が手を差し出してくる。
「ほら」
「え、何?」
「転ぶと危ないだろ」
どうやら手を繋ごうという事らしい。
「いや、大丈夫……って、あ」
躊躇っているうちに、引っ張られるようにして手を握られた。
「……っ、」
重なった手の平から、やたらと体温を熱く感じて鼓動が早まっていく。
千晃は左手で俺の手をしっかり握り、右手に持ったスマホのライトで足元を照らしながら坂道を下って行く。
「……千晃、明日は学校来るの?」
さっきより、多少ゆっくりした足取りで坂を降りて行く背中へ問いかける。
行かない、と短く返答があった。
「え……来ないの?」
「一応、学校行事だろ。そこに首突っ込むのは違うから」
「……そっか」
「大丈夫だって」
振り返り、励ます様にそっと笑ってくれる。
「いっぱい練習しただろ。シュートも結構決まるようになったじゃん。明日は、とにかく楽しんできなよ」
「うん……」
―じゃあ、千晃は?
聞き返そうとした言葉を飲み込む。
千晃はいつになったら、また楽しくバスケが出来るの。
あと二日。日付はもう変わってしまったから、実質あと一日。
あと一日で、俺は東京に帰らなければならない。
そしたら、千晃とは……もう。
坂道を下り、舗装された道路に立った。俺を支えるようにしっかり握られていた手が離れる。
手の平は汗ばんでいて、風が吹くと少しひやっとした。
俺の先を歩く、千晃の後をついて行く。
街灯の明かりが段々と増えてきて、足元の様子が見えるようになってきた。千晃が、ずっと点けていたスマホのライトを消してポケットにしまう。千晃の両手が空いた。
―手を、握りたい……。
不意に頭に浮かんだ欲求に戸惑った。
どうしてそんな事を思ったのか、自分でも分からない。でも、さっきまで握っていた感触が手から消えなかった。
細くて、でも握る力は強くて。優しくて、温かくて……。
考えている内に無意識に伸ばした右手が、偶然千晃の左手に当たった。
「あっ」
慌てて引っ込めたけれど、気づいた千晃が振り返った。
「どうした?」
「いや、何でも……」
「……?」
怪訝な表情を向けられるのに耐えられず、足早に千晃の横を抜いた。
―後ろ姿ばかり見ているからいけないんだ。
だんだん千晃が遠ざかっていく様な気がしてしまう。
俺から離れて行ってしまう気がする。
寂しくなってくる。
だから―。
「っ、!」
後ろから、急に強く腕を掴まれて立ち止まる。
「そんなに早く歩くなよ」
「……ごめん」
「ここ、夜中でも車通らないわけじゃないから。危ないから」
そう言って、再び俺の前を歩き出した千晃の手を―今度こそ、捕まえた。
何か言われると思った。どうしたと心配されるか、何してるんだよと茶化されるか。それとも、困らせるか。
千晃は何も言わなかった。黙ったまま、そっと手を握り返してくれた。
転ばないように支えてくれていたさっきと違って、今度はどれくらいの力加減で握ったら良いか分からなくなる。
強く握ったり、離れそうになったりしながら、やっと心地良い強さで握れるようになってきたところで、海の匂いがしてきた。
千晃が立ち止まる。
「どこに住んでるんだったっけ」
「ええと……」
下宿先のアパート名を言うと、ああ、あそこかと呟いて再び歩き出した。迷いもなく道を進んで行く。
「……よく道分かるな、こんな真っ暗なのに」
「生まれた時からずっと住んでたら、分かるだろ」
「そうかな」
「ていうか、東京の電車の乗り換え。あっちの方がよっぽどすごい。あれこそ、よく分かるよな」
「あー……あれは慣れだよ」
「そう?にしても本当に人多いよな、東京」
「……千晃、は」
「ん?」
「東京に戻る気、ない?」
あんな話を聞いた後で、する質問じゃないとは思った。それでも聞かずにいられなかった。
千晃が東京に来てくれたら、どんなに良いか―。
しかし予想した通り、無いよ、とあっさり否定された。
「俺、この島が好きだから。広い空も青い海も、小さい頃は当たり前過ぎて何も思わなかったんだけど。一度離れてみたら、すごく感じた。都会は性に合わない。人混みも好きじゃないし」
「そっか、そうだよな」
落胆が声に出ないよう、必死で明るく振る舞う。
千晃は何とも思ってないんだろうか。
俺がもうすぐ、島からいなくなる事。
次はいつ会えるか、分からないのに。
下宿先のアパートが見えてきた。
二階に上がる階段の下に来たところで、ずっと握っていた手が離れる。
「……送ってくれて、ありがと」
「うん」
「気をつけて帰って」
「……ん」
頷きつつ、千晃は何故か、なかなか帰ろうとしなかった。何か言いたそうに視線を彷徨わせている。
微かに吹いてきた風で乱れた前髪を触りながら、不意に、ぽつりと聞いてきた。
「明後日だっけ、帰るの」
「……うん」
頷いたら、ずっと張り詰めていた糸が切れてしまった。一気に現実が押し寄せてくる。
視界が揺れ、目頭が熱くなった。
涙が一筋、頬に零れ落ちる。そこからもう、止まらなくなった。
千晃が困惑した様子で、瞳を揺らす。
「……湊」
「っ、」
嗚咽が漏れそうになり、急いで口元を手で押さえた。
「う、わ。何か、目に、入ったかもっ……」
乱暴に両目を擦る。たちまち手の甲が涙で濡れた。それでも止まらない。
「ごめ、痛いから見てくるわ。……っおやすみ!」
「え、ちょ」
引き留めようとした千晃の手を振り切り、逃げるように階段を駆け登った。
自分の部屋に入ると後ろ手に扉を閉め、玄関にうずくまる。
「うっ……っく」
震える体を両腕で抱きしめ、必死で嗚咽を押し殺した。
あと二日。二日経ったらもう、東京に帰らなければならない。
星も見えない狭い空の下、何千何万という人とすれ違っても、その大勢の人波の中に千晃はいない。
まだ帰りたくない。千晃の側に居たい。
寂しい。離れたくない。……好き。
……ああ、そうか。
今、はっきりと自覚した。
俺は、千晃の事が好きなんだ―……。
気づいてしまったら余計に、胸が苦しくて潰れそうになる。
いくら泣いても、時間は止まってくれない。
別れの時はもう、目の前に迫っていた。
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