19.あの日の事

―千晃―

きっかけは、本当にくだらない事だった。


俺がスポーツ推薦で入学した大学は、全国大会出場経験もある、名の知れた強豪校だった。

部員数は、全学年合わせて七十人前後。年功序列の概念は無く、例え一年生だろうと、とにかく上手い奴がレギュラーに選ばれて試合に出ていた。


入部してすぐ、実力を見る為に一年生同士でミニゲームが行われた。

当然周りは経験者ばかりだったけれど、その中でも俺は監督に実力を認められ、すぐに試合に出させてもらえる事になった。

もちろん、いきなりスターティングメンバーだった訳じゃない。試合に出たのも、ほんの少しだけ。

なのに。


『―ベンチで澄ました顔して、馬鹿にした様な目で先輩達の試合を見ていた』

『マネージャーに馴れ馴れしく絡んでいた。部長の彼女なのに―』


あれこれと身に覚えのない言いがかりをつけられ、くだらない嫌がらせを受ける様になった。


父親は、俺が島を出る少し前から、持病の悪化が原因で入院生活を送っていた。

俺が東京へ出てバスケのプロを目指していることを、誰よりも喜び、誰よりも応援してくれていた。

―大学生活はどうだ、東京には慣れたか。

試合には出れそうか、皆んな応援してるからな。

頑張れよ―。

こまめに連絡をくれる父に、大学を辞めて島に帰りたいと思ってるなんて、とても言えなかった。


大学に入学して、半年が過ぎた頃だった。

突然母親から連絡があり、父親が急死した事を知らされた。

その日は他校との練習試合が予定されていたけれど、当然それどころじゃない。

一日に二本しか運行していないフェリーに急いで乗り、島へ帰ってきた時には、父親は既に棺桶の中で冷たくなっていた。


葬儀を終えて大学へ戻ってくると、俺に対する嫌がらせは、ますますエスカレートしていった。

一人だけ連絡網が回ってこない、外周を何周も走らされる、マネージャーが行うような雑務を言いつけられる。練習中わざとボールがぶつけられる。

何度も、辞めてやろうと思った。

辞めて島に帰ってしまいたかった。


だけど、出来なかった。


俺がプロのバスケットボール選手になる事を楽しみにしていた父親の事を思うと、こんなくだらない事で負ける訳にはいかなかった。

―嫌がらせをした事を後悔するくらい、すごい選手になってやる。

そう誓い、一人でがむしゃらに練習を続けた。


そして、あの日。

大会のレギュラー決めの為、部内でいくつかチームを作り、練習試合が行われた。

俺と同じポジションに、一学年上で現役レギュラーの先輩がいた。試合でも度々活躍していて、スポーツ誌のインタビューを受けた事もあり、ちょっとした有名人だった。

そしてこの先輩が一番、俺の事を敵視していた。

嫌がらせをしてくる、張本人だった。


―それに気づいたのは、本当にたまたまだった。

練習試合中盤。点数は競り合い、一瞬のミスで流れが変わってしまう局面だった。

俺のチームが点を入れ、床にバウンドして転がったボールを取りに追いかけて行った先輩の、バッシュの紐が緩んでいるのが目に入ってしまった。

完全に解けてはいない。だけど、結び目が膨らんでしまっている。

―試合を、止めるべきだったのだ。

たかが部内での練習試合、紐を結び直すなんて大した手間じゃない。万が一紐を踏んだりしたら、大怪我に繋がる。


分かっていたのに、俺は黙っていた。


怪我をしたから何だっていうんだ。

試合前に、きちんと結び直さなかった方が悪いんじゃないか。

わざわざ俺が教えてやる義理なんかない。

それに、痛い目を見たら、少しは大人しくなるんじゃないか。

心の中で、言い訳を繰り返した。

いつ紐を踏みつけて転ぶかと、そればかりに気を取られ、ちっとも試合に集中出来なかった。


試合終盤になると、僅差でこちらのチームが負けていた。

パスが回ってきてボールを手にした瞬間、その先輩が俺のディフェンスについて立ち塞がってきた。

強行突破は難しく、パスを出そうにも隙が無い。

どうしようかと考えていると、不意に先輩が、挑発するように笑った。

『抜いてみろよ、下手くそ』

―かっとなった。

フェイントもかけず、先輩の右脇をドリブルしながら、勢いよく抜き去ろうとした。

右足を前へと踏み出した、その瞬間。


何かが、バッシュの底で滑った。


咄嗟に踏み止まろうと力を入れた瞬間、足首が捻れた。バランスを崩し、目の前に立ち塞がっていた先輩に頭からぶつかった。

受け身を取り損ねた先輩の背後には、鉄製のスコアボードが立っていた。そこへもろに体を打ちつけた。

人が床に倒れる音と、激しい金属音が、体育館中に響き渡った。

駆けつけてきた部員は言葉を失い、現場を見た女子マネージャーは悲鳴をあげた。

頭を強く打って気絶した先輩のこめかみからは、夥しい量の血が流れ出ていた。


―結果的に、命に別状はなかった。

スコアボードに打ちつけた頭部を五針縫い、足首の靭帯を損傷し、倒れた際に床についた右手関節の骨を粉砕骨折した。それだけで済んだ。


しかしそれは、バスケ選手としては致命傷だった。


転んだ拍子に足首を捻った俺も、しばらく松葉杖を使用せざるを得なくなった。


手術を受けた先輩の元へ、謝罪に行った。

病室に入ると、俺に気づいた先輩の表情が一瞬で変わった。

―まるで、鬼の形相だった。

俺の顔を見た先輩はパニック状態になり、もう二度と俺の前に顔を見せるなと、金切り声で怒鳴りつけてきた。


わざとぶつかったわけじゃない。しかし、事故の様子を見ていた部員達のほとんどは、俺が先輩に真正面からぶつかりに行ったと思っていた。

違うと否定しても、誰も信じてくれなかった。

何故あんな勢いで転んだのかと聞かれても、本当の事は言えなかった。

―靴紐を踏んだのだ。緩んでいて危ないと気づいていながら指摘しなかったその紐を、結局自分で踏みつけ、あんな大惨事を引き起こしたのだ。

……誰にも、言えなかった。


もう俺に、バスケをする資格は無いと思った。

人を蹴落とし、自分自身を貶めてまで、一体俺は何を得ようとしていたんだろう。

最初はただ、楽しくてやっていただけだったのに。

上を目指せば目指すほど、足元は暗闇に呑まれ、奈落の底へと堕ちて行く―。


捻った足首の状態が良くなるとすぐ、俺は大学を辞め、島へと戻ってきた。

ネットに好き放題書き込みをされている事は知っていた。だから島に戻っても、俺は腫れ物扱いだった。

無邪気な子ども達は、俺が帰ってきた事に喜び、バスケをしようと誘ってくることもあった。

―だけど俺は、もう二度とバスケはしない。

そう心に誓っていたから、決して誘いには応じなかった。

前髪を伸ばし、髪の色を思い切り抜いて、わざと近寄り難い雰囲気を作った。

もうあの頃の俺はいないんだと、分かるように。


そうして、ほとんど外へも出なくなり、何もしない無気力な日々が続いていた。


―湊が、現れるまでは。

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