10.お前に何が分かる

―千晃―

玄関先に座り、スニーカーの紐をきつく結び直す。

ここ最近、外へ出る時はスリッパを突っ掛けてばかりだったから、靴を履くこと自体が久しぶりだった。やる気満々みたいじゃん俺、と複雑な気分になる。

ふと、下駄箱の上に伏せたまま置きっぱなしにしていたフォトスタンドが目に入った。

何となく手に取り、フレームに収まっている写真を眺める。

伏せずにきちんと立てて置き直し、外へ出た。


特に約束しているわけじゃない。気が向いたらとしか言わなかったから、行ってみていなければすぐ帰るつもりだった。

海沿いの道を歩いて行くと、微かにボールの跳ねる音が聞こえてきた。

あの日と、同じ様に。

物陰からそっと、空き地の中を覗いてみる。思った通り、一人でシュートの練習をしている天城湊の姿があった。

ドリブルの手つきは多少ましになってきたものの、相変わらず一定のリズムでボールをつくことが難しいらしい。おかしな方向へ跳ねたボールを追いかけて行っては、息を切らしてまたゴール下へ戻ってくる。狙いを定めて放ったボールは、ゴールの縁でバウンドして落ちてしまった。転がるボールを、また追いかけて行く。天城湊の顔は汗だくだったが、表情は明るかった。上手くいかなくても苛立ったりせず、むしろ楽しんでいる様に見える。

俺も―最初は、そうだったのに。


この空き地にバスケットゴールを建てたのは、俺の父親だった。

ここは高原家の土地で、父親の実家があった場所だ。祖父は早くに亡くなり、独り暮らしに不安を感じた祖母は施設に入所した為、家を取り壊して代わりにバスケットゴールを一つ設置した。

小学校のクラブ活動をきっかけにバスケに夢中になっていた俺は、放課後になると毎日のようにここへ通って夢中で練習していた。プロのバスケット選手を夢見る俺のことを、父親は誰よりも応援してくれていた。

高校を卒業して、東京へ行くことを決めた時には―父親の体は、既に病魔に冒されていた。

必ずプロの選手になって、いつかは世界で活躍すると、約束したのに。

その姿を見せる前に、父親は息を引き取った。

俺がバスケを辞めたことすら、知らないまま。


記憶を手繰り寄せながら、痛みを堪える様に目を閉じる。

―父さん。東京は夢のある場所なんかじゃなかったよ。

足の引っ張り合いは日常茶飯事、人を蹴落とすことばかり考えている醜い奴らばかりだ。

……俺も。

だけど、と思いながら目を開ける。ちょうど、空に放られたボールがゴールネットをくぐり抜ける瞬間が見えた。少し驚いたあと、嬉しそうに頬を緩める様子に、こちらもつられてしまう。

あいつのせいで、体が疼く。

バスケがしたいって、乾いた心が欲しがる。

楽しかった頃を、思い出してしまう。

もうやらないと、あんなにも強く誓ったはずなのに―。


フリースローの練習には満足したのか、ドリブルしながらゴール下に近づき、不器用な手つきでボールを投げ始めた。レイアップシュートのつもりだろうか。ステップのタイミングも、狙う位置も合っていない。

何度か首を傾げ、もう一度シュートの体勢に入る。無闇に放ったボールはゴールリングにぶつかり、投げた当人の脳天に落ちて跳ねた。あまりに見事に当たったので、思わず吹き出してしまう。

ようやく俺に気づいたのか、こちらを向いた天城湊と目が合った。

「……あんた、ほんと鈍臭いのな。運動全般苦手だろ」

頬に流れる汗を拭い、天城湊は分かりやすく唇を尖らせた。

「失礼な。走るのと泳ぐのは得意だって」

「じゃあ球技は」

「……あんまり」

拗ねたようにそっぽを向き、すぐ思い直した様に俺を見た。

「ちゃんと来てくれたんだね」

両頬に、小さくえくぼが引っ込む。嬉しそうな様子を隠そうともしない。素直に喜ばれて、さすがに悪い気はしなかった

「もう一回やってみろよ」

ゴールを指差し、促す。素直について来た天城湊に、レイアップシュートのコツを教えた。

何度か挑戦するも、フリースローの時ほど上手くいかなかった。色々アドバイスしてみたが、口で説明をするのも限界がある。

天城湊も同じ事を思ったのか、小学校名の書かれたバスケットボールを俺の眼前に差し出してきた。

「千晃が一回お手本見せてよ」

「いや、だから」

久しぶりに履いたスニーカーが、砂利に擦れて音を立てる。

「俺は出来ないって……」

「でも、ただの捻挫なんだろ?」

さらりと軽く放たれた言葉に、心の奥がさざめく。

「……何?」

俺の顔が険しくなった事に気づいたのか、ごめん、と天城湊は慌てて謝ってきた。

「こんな事したら良くないとは思ったんだけど。もしかしてと思って、ネットで検索しちゃった。大怪我をしたのは、千晃じゃないんだろ?」

「何を見たんだよ」

手のひらに、汗が滲む。

―俺があの時ぶつかって怪我させてしまった相手は、一部のメディア媒体で取り上げられた事もある、プロ入り確実と目されていた有名な選手だった。

あれはただの、校内での練習試合中の事故だった。しかしどこからか噂が流れ、ネットの掲示板には、誰が書いたか分からない、事実がどうかも分からない事が大量に書き込まれた。

曰く、俺がわざとぶつかって怪我を負わせただの、いじめられていただの、他の誰かに命じられてやっただの。

こいつが一体何を見たのか知らないが、俺の名前で検索をかければ、それらがきっと大量に出てきたはずだ。

だから、本当は名前を教えたくなかったのに。

「……人の過去探って楽しいかよ」

声が震える。天城湊は焦った様子で否定した。

「そうじゃなくて、本当はバスケやりたいんじゃないかと思って。運動出来ないほど足の調子悪そうに見えないし、その事故だって、別に千晃が悪いわけじゃな……」

「お前に何が分かんだよ!」

喉が擦り切れそうな声が出た。握りしめた拳に、爪が食い込む。

「何なんだよ、お前。急にこんな所へ現れて、下手くそなくせに、中途半端な練習して。人が忘れようとしてたこと思い出させて!一体何がしたいんだよ。教師になりたいなら黙ってお勉強だけしてろ。バスケしたけりゃ小学生に混ざってやってろ。これ以上、俺のことを巻き込むな!」

「千晃……っ!」

焦る声を振り切るように、空き地に背を向けた。


―やっぱり、ここへ来るんじゃなかった。

バスケがやりたいなんて、思うんじゃなかった。

足の怪我なんか関係ない。俺の心はもう、あの日からずたずたに傷ついたまま。

誰かと楽しく笑い合うなんて、もう出来ない。

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