11.一枚のハンカチ
―湊―
ずっと梅雨らしくない晴れの日が続いていたのに、今日は朝からずっと雨が降り続いている。
「あの、手嶋先生」
「どうした?」
明日の授業の準備をしていた手を止め、手嶋先生が振り返る。
「今日、クラブ活動は無い日だと思うんですけど」
「ああ、そうだね」
平日のクラブ活動は、火曜から木曜まで週に三回行われる。今日は月曜日、生徒達はすでに下校した後だった。
「あの……体育館、使用したらいけませんか?」
手嶋先生が怪訝そうな表情を浮かべる。
「誰か練習したがってる?」
「はい。ええと、僕が」
「あ、天城先生が自主練したいってこと?」
「……だめですかね」
だいぶ小雨になってきたとはいえ、あの空き地は舗装されていないから、今から雨が止んだとしても練習は出来そうにない。
「使うのは構わないけど」
体育館の鍵を出してくれながら、手嶋先生は苦笑を浮かべた。
「そんなに必死にならなくても良いから、程々にね」
「ありがとうございます」
お礼を言って鍵を受け取り、職員室を出た。
誰もいない体育館は、一人で使うには広過ぎた。
一個だけ倉庫から出してきたボールを使い、何度かゴールに向かって放り投げる。成功率は上がってきていたはずだったのに、何故か今日は一本も決まらない。
千晃から最初にもらったアドバイスを思い出そうとしたら、別の台詞が脳裏に蘇ってくる。
『―人の過去探って楽しいかよ』
『―お前に何が分かんだよ!』
「……っ」
がつん、と不穏な音を立てて跳ね返ったボールが、体育館の床に叩きつけられる。
換気のためと思って少し開けていた扉から出そうになり、慌ててボールを追いかけた。外へ転がり出る寸前で追いついて捕まえる。
何となく空を見上げると、厚く垂れ込めていた雨雲に、ほんの少し切れ間が出来ていた。いつの間にか雨は上がったようだ。
このまま惰性で練習しても、身になりそうにない。せっかく雨も止んだので、今のうちに急いで帰る事にした。
いつもの帰り道を通ると、空き地の近くへ行ってしまう。
まさかいるわけがないと思いつつ、足取りが重くなる。あまり考えないようにしていたけれど、学校を出て気が抜けたのもあってか、次々と昨日の事が思い出されて息が苦しくなってくる。
―余計な事を言うんじゃなかった。
千晃がどれだけ傷ついているかも知らないで、バスケに誘う事ばかりに必死になって。
ちょっとネットで調べたくらいで分かった気になって、慰めるつもりが逆に酷く怒らせてしまった。
いや―怒らせたんじゃない。
俺は千晃の心の傷を、余計に広げてしまったんじゃないのか……―。
「……あれ」
ふと顔を上げると、見覚えの無い景色が目に飛び込んできた。知らないうちに、いつもの道を逸れて歩いて来たらしい。
川が流れているのが見えたと思ったら、どこか聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「……ねえ、どうするの」
「無理だよ、あれ……」
「やだ、絶対取れるもん!」
何人かの女の子が話している。声のする方へ近づいて行くと、思った通りバスケクラブに所属している女子達だった。
「何してるの?」
声を掛けると、三人は一様に驚いた様子で俺を見た。
「湊先生!」
「え、どうして?」
「いや、その……迷子になっちゃったみたい」
冗談ぽく笑ってみせるが、女の子達の表情は固い。
「ちょうど良かった、湊先生。あのね」
「だから無理だって……」
「危ないよっ」
「なになに、どした」
再び揉め始めた女の子達の間に割って入る。
「こんなとこで何してたの?」
「あれ見て」
泣きそうな顔で、一人の女の子が川の真ん中あたりを指差した。
雨が降ったせいか少し濁っている川の真ん中に、大きめの岩が頭をのぞかせている。そのてっぺんに、空色のハンカチが広がって被さっていた。
「風に飛ばされて、あそこに引っ掛かっちゃった。雨で服が濡れたから、拭こうとしたら……」
「何でそんな大事なハンカチ、こんな天気の悪い日に持って歩いてるのよ」
「だって……」
友達に責められ、その子はとうとう泣き始めてしまった。
「大丈夫だよ水野さん、泣かないで。河西さんも、そんな言い方したらだめだって」
二人をそれぞれ宥めつつ、参ったな、と頭をかく。
そこまで深さのある川ではなさそうに見えた。しかし雨で色は濁り、流れもある。何か長い棒でも持って来たら取れるかも知れないが、そんな都合の良い物が一体どこにあるのか。
「あ!」
友達二人の諍いを不安げに見ていたもう一人の女子生徒、岩瀬さんが突然声を上げた。
風に煽られたハンカチの裾が捲れる。辛うじて留まったが、次に強い風が吹いたら今度こそ飛んでしまいそうだった。
「やっぱり取りに行ってくる!」
「ちょっ、」
靴下を脱ぎ、今にも川へ飛び込みそうな勢いの水野さんを慌てて捕まえた。
「待って、危ないって!」
「離してよ、湊先生!」
「ハンカチ一枚ぐらいしょうがないよ、何でそんなに」
「あれ、千晃くんに貰ったハンカチなの!」
「……え?」
思わぬ名前が飛び出してきて、一瞬思考が止まった。
「千晃に?なんで……」
「千晃くんが東京行っちゃうってなった時、あたしめっちゃ泣いて……っ」
「千晃くんがあのハンカチで拭いてくれたんでしょ」
河西さんが後を続ける。
「だからあれ、この子の宝物なの。千晃くんにずっと片想いしてたから」
胸をつかれた。好きな人にもらった思い出のハンカチ―それは、仕方がないと簡単に諦められるような物じゃないだろう。
「……分かった」
水野さんを捕まえていた手を離す。
「俺が取ってくるわ」
背負っていたリュックを地面に置き、靴と靴下を脱いで、ジャージの裾を膝まで折り曲げる。自主練したそのままの格好で帰ってきたのは幸いだった。カッターシャツにスラックス姿で川に入るのは、流石に躊躇われる。
「大丈夫?湊先生……」
「危ないよ、雨降ってたんだし」
「任せろ。これでも一応、泳ぐのは得意だからさ」
川に足をつける。思ったより水温が冷たい。
ごつごつした石をゆっくり踏みながら進んでいくと、膝下まで水に浸かってきた。思ったより結構深かったらしい。
「湊先生、気をつけて」
「私、やっぱり誰か呼んでくるっ」
岩瀬さんがそう言って駆けて行くのが分かった。有難いが、これで本当に島の人に厄介になるような事は避けたい。
大丈夫、あと少し、と慎重に手を伸ばし、とうとうハンカチを掴んだ。
「取れたよ!」
不安そうに見守ってくれていた二人に向けて手を上げる。水野さんは、ほっとしたように笑顔を見せてくれた。あとはこれを返してあげるだけだ。
戻ろうとして、足を踏み出した。―その瞬間。
踏みつけた石が転がり、俺はバランスを崩した。
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