9.彼の過去

―湊―

木製の看板だから和食の店だろう、という予想はついた。

しかし店名が難しい。

「ごはんどころ、きょう……ら?」

「ゆらら、って読むんだよ。可愛いでしょ」

手嶋先生は笑って、店の入り口の引き戸を開けた。

「どうぞー」

「あ、ありがとうございます」

中へ入ると、お出汁の良い香りが漂ってきた。空腹の胃が、きゅんと鳴る。

「いらっしゃいませ」

カウンターの中から、顔の小さな若い男性が微笑みかけてくれる。店主なのだろうか。随分若く見える。

店内はこぢんまりとしていて、隅のテーブル席に一人で手酌しながらおでんを摘む、年配の男性客が一人いるだけだった。

手嶋先生に促されて、店主の目の前のカウンター席に並んで座る。

「いっちゃん、久しぶりだね」

お冷を出してくれながら店主の男性が手嶋先生に話しかける。いっちゃん、というのは手嶋先生の事のようだ。そう言えば、名前は確か一樹さんだったっけ、と思い出す。

で、と店主さんが俺の方を見た。

「君が噂の教育実習生さん?」

「あ、はい!天城湊といいます」

「湊くん、ね。元気が良いなあ」

目尻を下げて優しく笑いながら、店主さんも自己紹介してくれた。

「由良響也です。いっちゃん……手嶋先生とは幼なじみなんだよ」

「そうなんですか?」

「うん、実家が近所なの。そうだ、注文しないとね」

何食べようか、と手嶋先生がお品書きを見せてくれる。迷ったので、おすすめされた親子丼を頼んだ。


「いっちゃん、ついに子ども生まれたんだってね」

カウンターの中で調理をしながら響也さんが手嶋先生に話しかける。

「おめでとう。とうとうパパになったかあ」

「ありがとう。もう本当に可愛くてさ」

相好を崩し、手嶋先生はスマホに保存されている写真を響也さんに見せた。俺はもう何度も見せてもらっている。

「ところで出産には立ち会えたの?」

「なんとかね。産気づいたって連絡貰った時は焦ったよ。クラブの時間中だったし、天城先生は全然、うさぎの捜索から帰って来ないし」

苦笑を浮かべてこちらを見てくるので、すみません、と縮こまるしかない。響也さんが首を傾げる。

「うさぎって?」

「中庭の小屋から、生徒がうさぎを逃しちゃってさ。その場に一緒にいた天城先生が焦って探しに行ったんだよね。そしたら、たまたま通りかかった千晃が見つけてくれたんだって。ちょうど良かったから、千晃にクラブの様子見てて欲しいって頼んで、俺は病院に向かったってわけ」

「千晃が?へえ……」

響也さんは、意味深に笑うと何故か俺を見た。

「もしかして、湊くんに会いに行ったのかな」

「え、いや。何でですか」

「そうそう、聞きたかったんだけどさ」

手嶋先生がこちらを向く。

「天城先生、千晃と顔見知りだったんだね?」

「ええと、まあ」

「仲良いの?」

全然ですよ、と首を横に振る。一緒にバスケしようと誘っても、冷たくあしらわれてしまった。

気が向いたら教えてくれると言ってくれたが、うざかっただろうな、と不安になってきていた。

「湊くん、千晃にフリースロー見てもらった事があるんだよね」

手際良く調理を進めながら、響也さんが俺に向かって微笑む。

「え、何で知ってるんですか」

「さあ、何ででしょう」

正解はすぐ、手嶋先生が教えてくれた。

「千晃と響也は、いとこ同士なんだよ」

「ええっ」

思わず響也さんの顔を見た。千晃の顔立ちを思い出す。

「似てない……」

「だよねえ。千晃はつり目で、俺はたれ目だからね。俺ら二人とも、母親似だから」

「てことは、お父さん同士が兄弟なんですね」

「そういうこと。まあ、伯父さんはもう亡くなってるんだけどね」

「え、」

「はい、お待たせしました」

目の前に、出汁の香りが立ち昇る親子丼が置かれた。


毎朝仕込むという出汁の味が染みた親子丼は本当に美味しくて、あっという間に平らげてしまった。

「千晃はね、本当にバスケが好きだったんだよ」

お冷のおかわりを注いでくれながら、響也さんがぽつりと言った。

手嶋先生が頷く。

「辞める必要なんか無かったのにね」

「あの……千晃は、どうしてバスケを辞めたんですか」

恐る恐る聞いてみる。ずっと気になっていた事だった。

響也さんと手嶋先生が顔を見合わせる。

「千晃から何か聞いてる?」

手嶋先生に問われ、いえ、と首を横に振る。

「足首怪我してるからバスケは出来ない、って言われましたけど。本当なんですか?」

見た感じ、そんな大怪我をしているようには思えなかった。

速い、と感じるくらいの速度で歩いていたし、怪我をしていると言った時も、どこか言い訳めいていた気がする。

「……怪我したのは」

ふと、響也さんが呟くように言った。

「心の方かもね」

「え……?」

「練習中に、チームメイトとぶつかって転んだんだ。千晃は捻挫で済んだけど、相手はスコアボードにぶつかって下敷きになって、手術までしたらしい」

「うそ、そんな……」

想像しただけで肝が冷える。

千晃はプロを目指してたんだから、ぶつかってしまったチームメイトも、同じようにプロを目指していた仲間だったはずだ。

そんな相手に、自分がぶつかったせいで、手術が必要なほどの大怪我を負わせてしまったとしたら。

「千晃はそれに責任を感じて、俺はもう二度とバスケはやらないって。せっかく入った大学も辞めて、島に帰って来たんだよ」

「そんな……そんなの、千晃だけが悪いわけじゃ」

湊くん、と響也さんがカウンターから身を乗り出した。

「千晃に、バスケやろうって誘ってあげて。本当は、やりたくてしょうがないはずなんだ」

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