第5話 ケティ
5 ケティ
余りに重いその一撃は――阿増絶阿でさえ死に追いやりかねない物だ。
現に彼女は血反吐を吐きながら、後退するしかない。
その途端、絶阿とエルマは現実世界に帰ってきた。
エルマに変化は無い。
肉強度の限界を超える攻撃を放った筈なのに、エルマは五体無事だ。
……一体、何故?
その理由が、阿増絶阿にはよく分からない。
意外だったのは、蛇処エルマが追撃してこなかった点だ。
エルマはその場に佇みながら、絶阿を睥睨する。
「……まさか、きみも、あの少女と同じ類の者か?
人でありながら、人ではない者。
人でありながら『異端者』さえ超越した存在。
常識を超えた不条理が、きみ達の正体――?」
阿増絶阿が愕然とすると、エルマは初めてその事に興味を持つ。
「あの少女、ですか。
それは一体、何者なのでしょうね?
私と相克すると言われると、一寸気になります。
何故なら私と同じくらい愛に愛されている存在など、絶無なのだから」
「………」
やはりここでも愛を引き合いに出す、エルマ。
その理由を知らない絶阿は、ただ一笑する。
「世間は広い様で、狭い。
もしかすればその内、きみもあの少女と遭遇する事になるのかも。
だったら、きみにも少しは彼女の事を話しておくべきだろう。
彼女は――〝ケティ〟と名乗っていた。
それは本名ではなく――称号の様な物だという事だ」
「……ケティ?」
その名を聴いた時、初めてエルマは大きく感情を動かす。
彼女は人目も憚らず、呵々大笑した。
「――ハハハハハ!
――ケティっ?
ケティですってっ?
ハハハハハハハハ――!」
「………」
エルマがここまで狂喜する訳が分からない例の彼は、ただ黙然とするだけだ。
「――あの始祖の小間使いだった少女と、同じ名前っ?
それは始祖ミレディーに仕えていたケティと、同じ意味合いの存在という事っ?
だとすれば、大した偶然です!
いえ、私と絶阿さんの出逢いは、偶然ではないと言い切れますね、これは!」
エルマは、よく分からない事を言い出す。
いや、思えばエルマは、他人にとっては意味不明な事しか言っていない。
その事を実感している阿増絶阿は、やはり微笑むだけだ。
「喜んでもらえて、何よりだよ。
思った以上に、好評の様だ。
どうやらきみは、あのケティと因縁浅からぬ間柄らしい。
なら本当に――何時かきみは彼女と戦う日が来るのかも」
いよいよ眩暈を起こしそうになっている絶阿は、更に一歩後退する。
「では話題も尽きたし、そろそろお暇させてもらおう。
願はくは――追ってこない事を祈る」
言うが早いか、阿増絶阿は全力でこの場から退散する。
一心不乱に逃げ出し、エルマを振り切ろうとした。
普通に考えるなら、それは不可能だろう。
蛇処エルマのスピードは、間違いなく阿増絶阿を上回っている筈だから。
そうでなければ、エルマは絶阿には勝てなかった。
だが、エルマは絶阿を追わない。
いや。
追ってもエルマでは、絶阿に追いつけない。
そう悟っているが為に――エルマは絶阿を見逃すしかなかった。
その代わりに、エルマは例の彼に視線を向ける。
あの阿増絶阿さえ敗北させたエルマを見て彼は慄くしかない。
「――待て!
話せば分かる!
まずお互い冷静になる事から、始めよう!」
今度は彼が、意味不明な事を言い出す。
確かに彼はエルマと話し合いの場を設けたが、彼がエルマを殺そうとしたのは事実だ。
彼はその事に、何の躊躇もなかった。
だが、己が劣勢になった途端、彼の態度は半ば卑屈な物に変わる。
これが己の限界なのかと、彼自身感じていた。
「いえ。
ご安心を。
私はこれ以上、あなたを害する気などありませんから」
彼が求めるまでもなく、エルマは冷静だ。
飽くまで冷静な趣のまま、エルマはこう命じた。
「では、取り敢えず全裸になって――正座してください」
「……へっ?」
首を傾けながら、エルマは平然と彼に目を向ける。
その視線に、容赦という物はない。
それが彼にとっての辱めだと知りながら、エルマは泰然としていた。
「後三秒以内で――お願いします。
でないと――私も色々な事を保証できなくなる」
「………」
〝色々な事とは何か?〟と、彼は問う余裕さえない。
エルマの常識外れの動きを見た彼は、最早己の命を惜しむしかなかった。
街中にありながら、速攻で全裸になった彼は、そのまま正座する。
エルマはそんな彼の姿をスマホで撮影するだけだ。
「結構です。
今後私の周りで不審な事が起きれば、その時点であなたの仕業だと解釈します。
その場合、この写真は裏の世界の人間全てに、送信されると思ってください。
その意味は、あなたなら分かりますね?」
「………」
裏の世界の人間は、まず面子を気にする。
他人になめられる様な真似は、決してしない。
だからこそ、エルマの写真は、有効と言えた。
自分のあんな姿を、舎弟や敵対する組織の人間に見られれば、彼は破滅する。
その事を心得ている彼は、ただ項垂れた。
「……ちく、しょう!
義孝の言う通り、だった!
こいつは――」
――だが、彼はその先の言葉を、言えない。
〝こいつは――本当に悪魔のベストフレンド〟だと言い切る事は、遂に出来なかった。
言えばどうなるか、彼は既に痛感していたから。
この事件は――それで終わった。
エルマは彼等にお帰り願って、踵を返す。
その時、今まで事の成り行きを見守っていた、深川伊織が喫茶店から顔を出した。
「……え?
これって、どういう事?
ぶっちゃけ、もう悪女とか聖女とか関係なくない?
蛇処君って――ただひたすら強いだけじゃん!」
悪女や聖女のセオリーを無視するエルマに対し、伊織は常識論を述べるだけだ。
このただ強いだけの少女は、悪女でも聖女でもないと伊織は言い切る。
蛇処エルマは、鼻で笑うだけだ。
「それは、心外な評価ですね。
私は立派な、聖女ですよ。
現に誰も死んではいないでしょう」
「………」
この理不尽な言い分を聴き、伊織はまたも眩暈を覚えた。
「――アレのどこが、聖女の解決法だっ?
ただひたすら暴力に訴えたきみのどこが、聖女と言えるっ?
あんな真似は、聖女じゃなくても出来る!
いや、ゴブリンやオークだって、もう少し行儀がいいだろう!
言っておくけどきみは聖女どころか、ただの蛮族だぞ!」
が、エルマはやはりにべもない。
「で、例の件ですが」
「――普通に、私の意見をスルーするな!
余りに、私に無関心すぎるだろうっ?
言っておくけど、愛の対義語は無関心なんだぞ――!」
伊織が正論を口にすると、エルマはまたも鼻で笑う。
「まさか。
私が他人に対して、無関心でいられる筈もありません。
私は全人類を愛しています。
私が全人類を愛するが故に、全人類も私を愛するのです。
この法則性は絶対的な物で、何者も覆せない」
「………」
ダメだ。
この少女とこれ以上議論しても、頭がおかしくなりそうなだけ。
愛にしか眼中にない蛇処エルマは、やはり他人に対して無関心なのだ。
そう見切りをつけ、深川伊織は話題を変えた。
「……私はこんな化物と、手を組もうとしていたのか。
いや、待て。
だが、そこまで悲観する様な話ではないだろう。
これだけの化物なら、あらゆる事が熟せる筈。
私が計画を立て、彼女がそれを実行するなら、私達は無敵と言っていい。
これは寧ろ、好都合なのでは――?」
独り言の様に呟く、伊織。
だが、エルマはその前提を覆そうとする。
「いえ。
だから、その話はお断りした筈です。
私は飽くまで、聖女。
聖女は自衛の為に暴力は振るっても、悪事には加担しません。
私は只のしがない、喫茶店のオーナーです。
まずその事を忘れないで」
「………」
エルマに強い口調でそう言われた伊織は、眉を顰めた。
「というか、この喫茶店って、流行っているの?」
エルマはここでも、正直だ。
「いえ。
全く。
何故かは知りませんが、全然お客様は来ないんですよね。
特に朝からお昼までは、二、三人しかお客様は来ません。
私はその暇を活かして、善なる副業に従事しようとしているのです」
「一寸待て。
だったら、きみはどうやって生計を立てている?
それで、暮らしていけると言うのか?
それとも、その〝善なる副業〟で儲けている?」
エルマは、肩を竦めるだけだ。
「後者の答えは、ノーですね。
副業は完全なボランティアなので、お金にはなりません。
前者の問題に関しては、私は幸運だったと言うしかないでしょう」
「というと?」
伊織が興味深そうに尋ねると、エルマはもう一度肩を竦めた。
「伊織さんが調べた通り、私の家系は代々悪女です。
悪に手を染める事で、大金を食んできた一族と言っていい。
平たく言えば、その財産を私は受け継いでいるのです。
多分私の総資産は――百兆円を超えている筈ですよ」
「……ひゃ、ひゃ、百兆円――っ?」
「あ、いえ。
五十兆円の間違いかも」
「………」
どちらにせよ、この少女は、とんでもない資産家という事だ。
成る程。
これなら道楽同然で喫茶店のマスターなど営める筈だと、伊織は納得した。
「……一寸待て。
それなら、私は危ない橋を渡る必要はない?
蛇処君に融資を受ければ、それで済むという事か?」
ぶつぶつと呟きながら、計画を変更しようとする、伊織。
だが、ここでもエルマは薄情だ。
「まさか。
私が今日会ったばかりの人に、融資するとお思いですか?
一体あなたのどこに、そんな信用があると言うのです?
私に雇われるというならまだ分かりますが、無条件でお金を提供する義理はありません」
「………」
これだけ金離れが悪いのに愛を謳うのだから、このエルマという少女はおかしい。
愛を語りながら現実的なエルマを前にして、伊織は露骨に顔をしかめた。
「……金は融資しないが、私を雇う用意はある?
きみは、そう言うのかね?」
「いえ。
今のところ、あなたを雇う気など、これっぽっちもありませんが?」
「………」
「………」
エルマの酷薄な宣告を聴き、伊織は黙然とする。
エルマも口を閉じて、二人は暫く無言でその場に佇んだ。
先に声を上げたのは、深川伊織だ。
「――じゃあ、どうしようもないじゃん!
私って――完全な無駄足じゃん!
きみが私を雇う気がないなら、そういう事になるよね――っ?」
伊織は、街中で普通に絶叫する。
その様を見て、エルマはキョトンとした。
「んん?
もしかして、伊織さんって本当に困っています?
それこそ、自己破産か自殺するしかない程に?」
「……そ、それは――」
伊織が口ごもると、エルマはあからさまに嘆息した。
「分かりました。
ならば、伊織さんにチャンスを提供しましよう。
私は一時的に、伊織さんを雇います。
その間に伊織さんが一度でも私の役に立ったなら、私はあなたを正式に雇用する。
そういう事で、どうですか?
ええ。
私は愛に生きる、聖女ですからね。
それ位の寛容さは、持ち合わせているのです」
「……一時的にきみに雇われ、その間に役に立てば、私は正式に雇用される?」
伊織にとって、それは悪い話ではなかった。
いや。
かの人にとっては、正に千載一遇の好機と言える。
このチャンスを見逃せば、きっと自分は後悔する。
そう直感した伊織は、だからこの話に飛びついた。
「――分かった。
その線で――話を進めよう。
で、私は何をすればいい――?」
伊織は、早速話の核心に触れる。
いや。
かの人がそうしようとした時、エルマは不思議そうに首を傾げたのだ。
「というか、伊織さんって――何で男口調なんです?
あなたは――そんなに可愛い女の子なのに」
「………」
確かに、深川伊織は今年十七歳になる、少女だ。
その事を追及された伊織は、バツが悪そうに視線を逸らした。
「五月蠅いなー。
そんなの、私の勝手でしょ」
いや。
深川伊織は――もうそう開き直るしかなかった。
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