真実

 水平線の向こうに一筋の陽射し。周囲の夜空すら破裂寸前のようにゴゴゴ……と轟いている。

 あの遠い空こそが終焉の光景だと、アロンは思う。世界の存亡に関わる問題となり、対岸に被害が及ぶ前に事態を収束しなくてはならないため、焦燥でどうにかなりそうだった。

 そのうえ実真が、この期に及んで赤信号で止まるなどするため、

「無視してください!」

 と、ついカッとなってしまい、これだけ尽くしてもらっているくせにと、すぐ悔やむ。

 このようにすぐ反省してしまうため、実真としては面白くなかった。

「慌てる必要はないと思うけどね。いくら目覚め前とはいえ、狂乱形態なら流石に勝つでしょ」

「それほどですか」

「それほどよ。ドロちゃんの魔の気が増大して止まない。肌が痒いわ。ドロちゃんはこの瞬間にもすくすくと成長を遂げているみたいね。決着は呆気ないくらい早まるはず。問題はその後だけど」

 実真が進行方向の空を見上げると、アロンも真似た。

 獣の咆哮が天と地の両方から轟いている。ドロシーはマンタビーチから先の水上にいるはずなのに、咆哮は空の裂け目から聞こえてくるように感じるのだ。

 卍田市は侵食され、世界は少し壊れた。その最も崩れている箇所を目指している。冷静になると、あまりにも酔狂極まる状況で、つい苦笑が漏れた。

 苦笑の意味が伝わったのか、実真も小さく笑ったが、予想外に厳しい指摘が飛んでくる。

「ドロちゃんを愛しているのね。罪を一緒に背負えるくらいに」

「はい」

「でも、それって本当に愛と呼べるものなのかしらね」

 アロンは実真の横顔を見つめた。

「言ったでしょ。ドロちゃんの特性は『カリスマ』。人間であれ何であれ、心ある者全てを惹き付ける魔性がある。獣なんて即メロメロにできるほど。アロン君は多くの時間をドロちゃんと共有してきたから、引き返せないレベルのドロちゃん漬けとなった恐れがある。恋の病なんて可愛いものじゃなく、洗脳を」

 アロンは眉間に皺を寄せたが、それは違うと確固たるものがあるため、力みは簡単に解けた。

「かもしれませんね」

 アロンはこの時、ドロシーとのこれまでを思い起こしていた。

「それでも、後悔はしません。これだけ幸せハッピーになれましたから。ドロシーに出逢って、悲しみを断ってもらって、沢山の楽しい時間を貰って。だから、僕はもう十分です」

「……そう」

「実真先生、ありがとうございました」

「……」

 遠雷の方へ。真っ直ぐにセダンは走る。

 意志を伝え終えると、ここまで残しておいた最後の気掛かりを解消しておきたくなった。法定速度を守ってゆっくり走ってくれたおかげだ。

 実真先生、ネケテットパオペ――彼女の真実を。

「実真先生にも話してほしいですね。どうして僕たちにここまで協力してくれるのか」

 助手席のアロンにも聞こえないくらい小さな吐息。それから……。

「長い話になるけど、聞いていく?」

 アロンは正面を向き、語り終わるまで実真の横顔を覗くのを控えた。


 私はドロちゃんより早く完成し、自我を得て、自分にできることを理解し、いくつもの人間界を渡ってきた。

 で、私がこの人間界、この都市にやってきたのは六年前。ドロちゃんにとってのあなたのように私も標を感じ取り、この人間界を選んだ。

 当時の私には目的がなかったから、とりあえず彼と対面して、彼との縁が切れるか切るまでの間、この世界を適当に逍遥するつもりでいた。

 でも、彼は私の勘を超えた聖人で、脆弱だった。

 出会ったのは四月の頭。彼は高校一年生だった。お金持ちの家に生まれた御曹司。杉下すぎした市長の息子よ。杉下さんは知ってる? 流石に知ってるわね。有名だものね。それなら彼の息子の訃報も、たとえ印象に残っていなくてもニュースで見たはず。

 彼――杉下さとる君は、十二分の暮らしと温厚な両親に恵まれておきながら、生まれつきの盲目で、先天性の脳腫瘍を抱えていた。

 悟君はね、高校を卒業すること。それが人生の目的になるくらい時間がなかったの。

 本当に良い子だった。彼自体には何の刺激も感じなかったけど、過ごした時間は逍遥より有意義に思えたから、何とかしてあげたかった。だけど、いくら私でも生まれつきは治せない。どれだけ健常より劣っていても、それがありのままの姿なのだから。

 彼は短い未来を受け入れていた。私もくどい真似はしないことにした。

 でも彼は、私も、両親も知人も友人も、自身をも裏切った。

 高校三年生の春、卒業式の前日に死んでしまったの。

 みんな覚悟はしていた。遠くないうちに彼が最期を迎えるって。でも、あまりにも最悪のタイミングだったから、覚悟していた、なんて嘘は嘲られ、誰も彼も悲嘆に暮れた。

 その時、私の中に芽生えたのは怒りの感情だった。あれほどムカついたのは生まれて初めて。彼としては、それでも幸せハッピーな人生だったのでしょうけど、彼を愛し、これからも彼の魂を愛していくみんなが全然幸せハッピーじゃないのを見せられてね。ああ、悟君って本当は悪い子だったのね……って、裏切られ、勝負に負けた気分になったわけね。

 私は目的を得た。私はこの世界に来るより以前から学習済みの医術を活かして、時に偉いおじさんたちを騙して、卍田第一高校の養護教諭になることを決意した。翌月、新たに卍田第一高校の生徒となったアロン君たち、今の三年生が全員卒業するのを見届けるまで、この世界に残らなければ気が済まなくなってしまったの。要するにヤケになっているだけです。


 話し終わるのと同時に、海岸沿いの道路からマンタビーチの駐車場へ移った。今や駐車場まで潮が伸びているものの、一帯は想像より元のままだった。

「以上です」

「えっ、あっ、いいんですか?」

「ええ。詳細は私だけの思い出だから教えない」

 実真は後部座席で眠る良子と隣のアロンを順に見つめた。

「だからね、良子ちゃんが犯人と対峙するなんて言い出した時は吐きそうになった。あなたが今、デッドエンド上等でここにいるのを快く思っていない。大人しく、別の学校でも良いからちゃん卒業してほしい。生きて、先の未来を考えてほしい。それが実真先生の真実」

「……悪魔って自由だなぁ」

 自然とこのような言葉が出たアロンだが、

「そう? あなたたちも実は自由なのよ?」

 存外、このように返された。

 アロンはもう止まれない。その上で、単に献身的な悪魔というだけでなく、積年の想いでこれまで自分たちを見守ってくれていた実真先生を裏切るのが、この期に及んでも苦しく感じられた。

 それでも、それでも、それでもアロンは行く。

 葛藤はないが、申し訳なく思う。中々車を降りられず、超巨大なタコを雷で焼き、己が牙で食い千切り、少しずつ小さくしていく水平線の魔物ドロシーを見ていた。

「実真先生、ごめんなさい。それでも僕は――」

 フロントドアを開けて、ドロシーに会いに行こう。その決心を嘲笑うように……。


 不意に、唇を奪われてしまった。


 優しく触れ、離れていった温度にアロンは暫し呆然とした。

「嘘でしょ」

 魔女への畏怖を思い出し、薄く笑うしかなかった。

「頑張ってね。応援してる」

 車を降り、雄叫びを上げて海へ走るアロンを見届けると、実真もエンジンを入れ直して海岸を離れた。最後に、このような独り言を呟いて。


 ――狂っているとは思わない。お馬鹿さんなだけ。愛しているから会いたいだけ、なんて……先生、そういうの好きだな♡


 そう呟いた実真は、この世界にやってきて以降で一番良い表情をしていた。

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