村崎と目白 Ⅲ

 水平線の魔物ビッグパスに連なる問題であるのなら、騒ぎにするわけにはいかない。救急車を呼ぶ前に現場を確かめておくべきだ。

 幸い、騒ぎにはなっていなかった。モール内や表側と比べて人の行き交いがなく、関係者ですらほとんど利用することのない、モールの裏側にある素朴な公衆トイレと辺り一帯は想像通りの静けさだった。

 一つ息を呑んで男子トイレに入り、それを目の当たりにすると、未知の不安や荒い息も忘れ、内から沸き立つ憤怒に身が焦がされた。

「おい!」

 救急車を呼ぶため、慌ててスマートフォンを耳に当てた。

 村崎は大便器の扉に、目白は奥の窓辺に、それぞれ背中を預けて倒れていた。顔は轢かれたようにボロボロで、口から赤いものがドロリと出ている。満身創痍、一歩も動けない状態でいた。

 アロンは見開いた両目が中々元に戻らなかった。目白もだが、村崎がこれほど無惨に負かされるなど信じられないことだった。

「……ん、ああ、来たのか」

 駆け付けたアロンにようやく気付いた村崎。目白も、辛いのだろう、顔を上げるだけで悲痛な声を漏らした。

「救急車は呼んでくれたか? 私も村崎もいくつか折られてしまってな。無様」

「誰にやられた?」

 単刀直入に問うアロンの声音は冷たく、村崎と目白は顔を見合わせた。

「アロンであれば分かる、と言っていたな。白いスーツにサングラスの傲慢な男だ」

 アロンは顔をしかめたが、段々と真実が色を濃くしていった。

 これだけ賑やかになった日常の中、自身を脅かし、いよいよ友人に手を上げるようになった仇敵とは、アロンの中にある心当たりは一つだけだ。

「あいつか」

「何だよ。本当に知り合いなのか? 知り合いじゃないだろうし、鬱陶しいからぶっ飛ばすことにしたのによ」

「その割にはぶっ飛ばされたようだ」

「うるせぇよ。あの野郎、とんでもない力を使いやがった」

「それは……あり得ないもの。タコ脚とか?」

 村崎と目白は口を開けて固まった。

「お前、知ってんのか?」

「……」

 簡単には答えられない。ドロシーと良子の素性を明かさない程度でなら知っていることを話しても良かったが、あのイタ電野郎と水平線の魔物ビッグパスが連なる者同士かは不明なため、この場で誤まった情報を発信すれば更なる混沌を生んでしまう気がした。

「ま、何でもいいけどな」

「村崎?」

「俺が腑に落ちないのは、真っ向勝負をせずにふざけた力を使い、そのうえトドメも刺さず退散しやがった部分だからな」

 村崎と目白は完全なる被害者だ。不運に狼狽え、未曽有の恐怖に苛まれ、この先も怯えて生きていくのが通常だ。

 通常であればそうだ。紳士淑女の都とのたうち回ろうと、あのような怪物に現実を蝕まれてしまえば、誰であれ落ち着いてなどいられない。アロンは特に理解できる。

 というのに、二人はまるで……。

「いやぁ、初めて喧嘩で負けたぜ! 生まれて初めてだ、こんな様は!」

 村崎は爽快に大笑。目白もフッと口角を上げる。自分たちを被害者と思っていないように。

 おかげか、せいか、二人がこのような調子だから、アロンの内に灯った復讐心は呆気なく鎮火されてしまった。

「つぅか、デブ。お前、全然喧嘩できねぇじゃねぇか。メイド喫茶の伝説とやらはどうしたよ?」

「あれは様々な好条件が重なった結果だ。勝算があった。しかし、今回の相手はそうもいかん。何せ全身が赤黒いゴムのように化けたうえ、殴っても手応えがなく、それでいて彼奴の掴む力、殴る力は尋常じゃなかった。おかげで腹が痩せた気がするぞ」

(全身?)

 アロンが想像していたのは、良子のように両腕を変化させたり、タコ脚を個体として侍らせるなどだった。もしくは我が物とするのではなく、水平線の魔物ビッグパスの傀儡と化すなど。イタ電野郎が犯人なら後者は考えにくいが。

 貧血か、不意に脳がとろける感覚に陥った。友人が大怪我を負ったのだから無理もないが、既に卍田市を侵食している脅威が、より明確に自身の生活圏を揺るがしている事実に動揺が収まらない。

 被害を最小限に抑えるよう、できる限りのことをするつもりでいたが、結果、このように友人を巻き込んでしまった。後悔の念は堪えず、アロン自身は独りで苦悩している気になるも……。

 彼が何か大きな問題に巻き込まれ、苦悩しているなど、付き合いが長ければ顔色一つで確信できることだ。

「で、お前は何を知ってんの? つぅか――」

 村崎はこういう時ほど馬鹿から遠くなる。

「それを話すタイミングは今だと思ってんの? まだなの?」

 アロンは目を丸めた。

「アロンも大概だが、私たちも似たようなものか。普通なら事情を問い詰めるべきなのだろうが、遠慮した方が良さそうだ」

「目白、どうして?」

「馬鹿だなぁ。話して良いことならお前はとっくにペラペラ喋ってるだろ。そういう奴だろ、お前は」

 瞑目で頷く目白。アロンはこの時、今の自分が優先すべき絆とは、決してあの少女との絆だけとは限らないのだと実感を得た。それを失う前に気付けたことにより、これ以上の苦悩は無用と、前を向く決心をした。

「そうだな。終わったら話すよ」

「どうやらドロシー殿も無関係ではないのだろうな」

「目白は鋭いな。櫛名さんと実真先生も関係してるんだけど、終わったら僕から話すから、なるべく問い詰めないでくださいよ」

「そんな気ねぇよ」

「そうか。村崎、良い奴だなぁ」

 村崎が最も嫌う言葉。村崎は眉間を渦のように歪めた。

「……ま、義理人情に厚いってことにしてやる」

「賢明な判断かもしれん。考えもなく厄介な問題に首を突っ込むのは、却って我々や、我々の知り合いに危害が及ぶやもしれぬからな」

「奴に問い詰められたの?」

「うむ。アロンと普段どのような会話をするのか、アロンの好きなもの、嫌いなもの……色々なことを矢継ぎ早に聞いてきた。圧倒的な優勢というのに激しい剣幕だったな。余裕ではいられない事情があるのか、もしくは変態のストーカーだ」

「一つも答えなかったけどな。おかげでこの様……ブッ」

 村崎こそ満身創痍ながらに不屈の闘志を見せるも、体は堪らず赤い唾を出した。アロンこそ渋い顔になったが、それでも村崎は笑っている。

「村崎、楽しそうだな」

「初黒星だが悪くねぇ。負けただけで、奴の方が先に逃げていったし、何と言っても譲らなかったからな。これはあれだ。お前に引き分けた時と同じだ。充足だな。喧嘩は勝ってナンボだが、どうやら勝つことより大事なもんがあるらしいぞ」

 救急車が来るまでの間も村崎は口を開くたび血を吐き、都度、これでもかと大笑してみせた。

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