良子、良い子 Ⅰ

「あとは任せていいんですか?」

「ええ。おやすみなさい」

 養護教諭から聞く言葉ではないが、壁掛け時計の針を見て苦笑した。

「ドロシー、帰ろう」

 ドロシーは未だに実真を睨んでいる。ドロシー自身、同族をここまで不信に思う理由がよく分かっていないのではないか。同族嫌悪とは安直だが、何か本能として実真との間に薄くも確かな亀裂があるようだ。

「ほら」

 ポンと肩を叩かれ、ドロシーはしかめっ面のまま踵を返す。アロンも、張り詰めた空気に、これ以上の長居はできないと胸が警鐘を鳴らしているため、急かすこととなってもドロシーを連れて退散したかった。

「ね、ドロちゃん」

 そのため、実真に呼び止められ、振り返ったドロシーが明らかに苛立っているのが分かり、固唾を呑んだ。

「ミマ、私とお前は同族とはいえ無関係だろう。馴れ馴れしいぞ」

「ドロシー、行儀良くしなさい」

「うるさい! 人の唐揚げを取るな!」

「話の揚げ足ね!」

 実真は含み笑いを経て言葉を紡いだ。

「そうね。多分、私たちはこの先も直接手を繋ぐことはないはずだけど、それなら尚更今のうちに聞いておきたいことがあってね」

「さっさと言え。私はお腹が空いている」

「ドロちゃん、この人間界は何個目?」

「ここが初めてだが」

 ドロシーは、何故そのようなことを聞くのかと眉を潜めたが、アロンには今の問いに含まれた真の問いまでも見えていた。

「そう。じゃあ、本当に純愛かもしれないわね」

 最後に実真が浮かべた微笑の真実も。


「アロンくーん!」

「お約束か!」

 まずはカバンを取りに教室へ戻ろうとした矢先、振り返ると、ポニーテールを揺らして保健室から顔を出す女性がいた。……予想していたため、扉は閉めないでおいた。

「今度は何を教えてくれるんですか?」

「えっとね、これは別に真に受けなくてもいい話だけど、一応伝えておくわね」

 実真の瞳はドロシーなど見えていないかのようにアロンだけを射抜いている。アロンは獣のように唸るドロシーに気が気でなく、反射的にその柔い頭を撫でた。

「悪魔はね、人間界に赴く場合、その世界に生きる住人から一人を選んで、無許可で縁を繋いでしるべとし、転移という、次元の壁をすり抜ける奇跡を起こすの。私もそう。ドロちゃんも例外じゃないはず。もしもアロン君がドロちゃんにとっての標であったのなら、最初に赴く人間界で、最初の標に選ばれたのは中々のことよね」

「ドロシーが自分の意志で僕を選んだってことですか? そういえば、そんなことを言っていた気が」

 ドロシーはアロンと実真を交互に窺い、カクンと首を傾げた。その様子に二人は共にほころぶ。

「ドロちゃんは獣だものね。偶然とか本能って線の方があり得るけど」

「そうですか」

「ね? 参考にならなかったでしょ?」

「いえ。一番良い話でした」

 ドロシーの頭をポン、ポンと叩き、白い光の射す場所から離れていった。


 暗闇へ消えていく二人を見送り、扉を閉めた実真は、代わりに見守っていたアオッピを拾って再びベッドに腰掛ける。

「何も間違っていないって。良かったわね。ドロちゃんとの絆は固いけど、付け入る隙はこの先に沢山あるかも」

 膝に乗せたアオッピの頭を撫でながら言うと……。

「……気付いていたのですか?」

「勿論。あの子たちがいた時から目を覚ましていたでしょ?」

 眠っていた良子の目蓋が開かれていた。表情から憔悴の色はまだ落ちていないが。

「……ですが、あれほど迷惑を掛けておきながら許してもらえるなどと、いくら私でもそこまで厚顔無恥ではありません」

「いや、あなたは厚顔無恥よ」

「アロン君はあのように言ってくれましたけど、あれこそ紳士らしい気遣いというものでしょう? 私の顔など二度と見たくないに決まっています」

「気遣いが嫌々で仕方なくやるものとは限らないでしょうに。アロン君が嘘を吐く理由もないはずだし。ま、これも信じるか信じないかの話になるけど」

 十分に癒されたアオッピが跳ね、凄まじい速さで洗い場の方に去っていった。

「哀れね、良子ちゃん」

 一言で良子の目が大きくなる。水平線の魔物ビッグパスが現れた数日後にはオンラインで実真との関係を築いた。彼女の語るリズムも把握しているつもりだが、このように棘のある一言を間髪入れず発することが稀にあり、そのたび良子はドキッとした。

「全ては世のため、人のため。櫛名の家名や魔を討つ者の宿命に沿って、卍田市を救うために馳せ参じたというのに、肝心の転校初日で完膚なきまでの敗北を喫するなんて」

 何も言い返せなかった。図星でもあり、鉛のような体に熱を入れるのが辛いからだ。

 実真は振り向かず背中向きのまま。どのような表情で語っているのか読めない。嘲笑したいのか、それ以外か。良子は後者の方を強く感じている。アロンが実真を信頼していたのも驚きだが、分かる部分でもあった。

 実真には掴みどころがない。悪くも、良くも。

「複製したタコ脚も全てドロちゃんに屠られちゃったのでしょ? 今のあなたは丸腰と同じね」

「辛うじて両腕に二つ残っています。それに『魔を以て魔を制す』ことは、この先も――」

「それ、もういらないわよね?」

 豪快に毛布を剥がされ、良子は驚愕した。

「実真先生⁉」

 不意に厚い衣を剥がされたことで羞恥の感情に追われるも、強引、迅速。実真は良子に跨って両の手首を掴み、眼力で良子の抵抗を制した。

「あなたは負けた。水平線の魔物ビッグパスを殺す力が僅かに残っていようと関係ない。もうあなたを贔屓する必要もないくらい、彼と彼女の絆は固いと分かったから、あなた、もういらないわ」

 信念と惑いを行き交う己と異なる、完全なる捕食者の意気。

(やられる!)

 と直感するも、実真の力は圧倒的で、良子は内側に隠す邪なもの全てを強引に引き出され、一方的に辱められた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る