良子、良い子 Ⅱ

「ふぅ、ご馳走様。素直だったわね」

 満足してベッドから降りる実真。仰向けで、全身が痙攣して止まない良子を置いて。

「あ、あ、あ、あの」

 顔の部位全てが微振動を起こしている。やっとの思いで眼球と喉を動かし、浴室を出た瞬間のようでいる実真を睨む。

「何をなさったんですか……今……」

「あら、分からなかった? やっぱり激しいようで攻め切れない乙女なのねぇ」

 実真の嘲笑には、不満よりも羞恥が上回る。一瞬の出来事に思えたが、その一瞬で色々とされたらしく、先程より体が重い。シングルベッドに仰向けの状態でいるというのに、巨大な蛇に巻き付かれているような窮屈な心地が抜けないのだ。

 実真はいつの間に脱いだ白衣を羽織り、汗ばむ前髪をすくった。

「あなたの秘術を預からせてもらったの」

 良子はハッとなった。

「『魔を以て魔を制す』ね。この世ならざるもの、時にこの世のものであれ、人の営みに対する害悪であれば複製可能なのかしら。奪っただけで扱うことはできないから分からないけど、確かにこんな力があれば乙女でも魔を討つことは可能よね」

「どうして……返してください!」

 専売特許を奪われて激しく動揺するも、指一つ動かせない状態だ。見下ろす実真の愉悦な笑みを崩すことができない。

「あなたにとって大事なものというのは知ってる。アロン君にとってのドロちゃんみたいにね」

 秘術を奪われた現実に焦燥が止まない良子。それを失ったら私は……と、薄白い額に汗が浮かぶ。

「心配しないで。あの子たちが水平線の魔物ビッグパスを倒したあとで返してあげるから。別にいいでしょ? あなたの出番はもう終わった。このまま地元に帰っても良いくらいよ。秘術も後で郵送してあげるわ」

「ご冗談を……それは私の――」

「戦いの手段であって、大切な存在ではないでしょ? 愛情が含まれていない。代わりにそれをあげるから大切にして」

 指差す実真と反対の、枕の左横から気配を感じた。痺れる首を慎重に曲げると、まるでタケノコのように素朴で、色合いもそれに近いタコ脚がゆらりと揺れてそこにいた。

「……これは?」

「この秘術があなたのものである保証ね。別にタコ脚じゃなくてもいいかもだけど、せっかくだからね。素敵な名前を付けてあげて。食事もいらない。無関係の人たちに見つからなければ大丈夫だから、安心して面倒を見てあげてね」

 ベッドの脚部を伝い、這い寄ってきた青いツチノコと、これからペットになるらしいタコ脚が見つめ合っている。……タコ脚に目などないが、いくつもの吸盤がそのように見え、互いを窺っているように思える。

 良子は二匹を眺めつつ、正鵠を、胸を射る言葉を受けたのを思い出した。上体を起こせるまで回復したが、目蓋にはまだ重みが残っている。

「せっかく自由に生きられる時代なのに、あなたは魔を討つことを強制される場所に生まれてしまった。同世代の子供たちが楽しそうに遊んでいるのを遠くから眺めて、妬むことすらできずに影の世界を歩んできたのでしょうね」

「あなたに何が分かるというのです」

「顔に、あなたの人生歴が全て書いてある」

 良子はこの時ようやく顔が強張っていることに気付いた。下目蓋が何かに怯え、震えていることにも。

「私は出自を呪ったことなど一度もありません。両親も、同志の皆さんも温かい方ばかりでした」

「そうね。宿命に執着しているわけでも、邪悪な教育でもなく、真に善人ばかりだったのかもね。あなたを見ていれば分かる。だからこそあなたはそうなった。善悪の話じゃないわ。良子ちゃん、あなた、寂しいでしょ?」

 天井を見上げ、両親や同志の顔を思い浮かべていた良子は雷に撃たれた。

「いえ、それが寂しさなのかもよく分かっていない。だから、あの子たちの間にあるものをまざまざと見せつけられても羨ましいと思えず、ただひたすら、締め付けられるような違和感に苛まれている」

「……」

「それが負の感情に移らないのは立派ね。やっぱりあなたは良い子なのね」

 両親や同志から、娘ながらに的確な判断ができ、魔を討ち果たしてきた実績を褒められた瞬間が幾度となくあった。それらは良子にとってかけがえのない思い出だが、ここまで赤裸々にされた上で褒められるというのは過去になく、いよいよ溜め込んでいたものが溢れてしまった。

 この窮屈さの正体は、孤独に他ならない。

「私は……そうです。私は寂しかったのだと思います」

 氷が解けて水溜まりを作る。何度も鼻をすする音を背に、実真は腕を組んで瞑目している。

「何よりも魔を討つことが最優先で、引っ越しも多くて、良い付き合いのお友達なんてできたことがない。流行りの物とか、若いノリなんて分からない……。

 魔を討つためというのは、憶病を誤魔化すための言い訳に過ぎないのです。だって別に、四六時中戦い続けているわけじゃない。前の学校の人々も、連絡先を交換して、気楽に再会できるくらいの仲になれたかもしれないのに……。私は世間知らずのまま、孤独でいることに慣れてしまって、居心地を覚えてしまって……。本当は誰かと繋がりたいのに、強がりでも何でもなく……」

 取り乱した相貌を毛布で隠す。それでも嘆きは覆い切れなかったが。

「辛かったわね。憎むことができれば幾分マシだったでしょうに。良子ちゃん、良い子だから、それができずに独りで苦しむばかり」

「あなたのせいです!」

「えっ」

 実真が初めて呆気に取られた。

「あなたに真実を暴かれたから! こんな!」

「出会って十日であそこまでイチャイチャできるあの子たちがきっかけじゃ――」

「トドメを刺したのはあなたでしょ!」

「それは、そうね。すみません……」

 実真は気圧され、コホンと咳払い。

「でも」

 すぐに調子を取り戻した。

「あなたを虐めて気持ち良くなるために暴いたわけではないわ。私がここの養護教諭であることを忘れているようね。3年1組、櫛名良子さん」

 良子はゆっくりと毛布から顔を出し、ジッと実真を見つめた。

「あなたから秘術を奪った本当の目的は、あなたを普通の生徒、卍田市に暮らす普通の女の子にするためなの」

 美女が繰り出したウインクに、乙女は思わずドキッとしてしまう。

「そ、それで私を無力にしたのは?」

「無力なんて言わないの。良子ちゃんね、それだけ寂しい気持ちになるのは、機会があれば是非、って思いが僅かでもあるからじゃないの?」

 良子は答えられなかったが、涙の乾いた瞳にはもう影など窺えない。

「それなら試しに、この卍田市で普通の学生生活を送ってみなさいな。ご両親の説得が困難なら私が洗の……話を通してあげるから。この機会に一般的な友情や遊びを堪能なさい」

 良子は尚も言葉に詰まった。そのような当たり前でも、良子には具体的な想像ができなかったから。

 ただし、つい目を細めてしまうほど、それを眩しい光景と思うことができた。

「隙あらばアロン君の略奪を図るのも良いと思うわ。面白そうだから、その時は私にも声を掛けてね」

「それは普通ではない気が……」

「青春なんて乱れてナンボよ! いつ乱れる⁉ 早速行っちゃう⁉」

 いきなり興奮し出した実真に肩を捕まれ、恐怖のあまり短い悲鳴を上げた。実真はハッとなって手を離すも、それはそれとして大和撫子の怯えように新たな享楽を見出していた。

「で、まあ、とりあえずあなたはちゃんとここに通うこと。良いわね?」

 返事はしなかったが、言外の意は十分伝わった。胸に手を当てる良子の期待と不安が入り混じる表情。それが回答となっている。

「あなたが思っている以上に上手くやれると思うけどね」

 良子は俯く顔を上げた。

「ここは紳士淑女の都だもの。あなたのクラスメイトなんて特に良い子たちばかりでしょ?」

 世間など、右も左も分からない良子だが、その点についてはよく知っている。歩み寄り、受け入れてくれた彼女ら、彼らの顔が思い浮かぶと、ようやく返事ができた。


 コーヒーを貰う頃には良子の調子も大分戻ってきていた。

「今晩はどうする? ここに泊まってもいいけど」

「いいえ。流石にこれ以上、ご迷惑をお掛けするわけには」

「私としては迷惑どころか歓喜だけど」

「怖いので帰らせていただきます」

「残念」

 マグカップを回収され、コーヒーの礼を言って立ち上がり、保健室から去ろうとするも……。

「アロン君を襲いに行っちゃ駄目よ?」

 首筋に息を吹かれたような不意打ちを浴び、その場で飛び跳ねそうになった。

「いいいい行きませんって!」

「本当は行っても良いのよ?」

「行きませんってば!」

 扉の前で立ち止まり、大きく深呼吸して平静を取り戻す。

(どうしてバレたのでしょう)

 アロンの住居は特定済み。彼のSNSに自分のアカウントを登録済み。抜かりはないのだが、

「私としてはドロちゃんも応援してるから、ほどほどにね」

 この養護教諭は侮れない……。

「私にその気はありませんから」

「そんなに遠慮しなくても」

「それに、私など彼に相応しくありません」

「そう? お似合いに見えるけどね」

 パッと晴れた顔で振り返ってしまい、ハッとなって朱色の頬を逸らした。

「あらあら」

「……実真先生、彼は何者なのですか? 本当に紳士性を持つだけの常人なのでしょうか?」

「私はそう思っているけど」

「それで『七匹ノ悪魔』と良好な関係になれますか? 私のようなものを許容できるでしょうか?」

「できるんじゃない?」

 扉の引き手に触れるも、再び振り返る。

「ドロちゃんのように優しい悪魔がいる。私のように親切な悪魔がいる。あなたのように魔を討つ女の子がいる。それなら彼のように、持たざる者ながらに誰とでも打ち解けられる男の子もいるでしょう。私としてはそこまで稀有な存在とも思っていないわ」

「そうですね。良くない偏見でした。ですが、彼はやっぱり特別な気がします」

「恋」

「そうではなくて!」

 愉快に笑う実真に対し、良子は小動物のような威嚇を見せた。

「ある意味では特別かもね。良子ちゃん、これから覚悟なさいね。彼はあなたの孤独を、ドロちゃんの成長を、私の真実を適切にフォローしてくるから。それも無自覚に。……私もアロン君から昔の彼を思い出して放っておけないわけね」

 さり気なく吐露する実真は、これまでとは一線を画す遠い眼差しでいた。その先へ踏み込むことなど許されないほどの神聖さが感じられた。


「ご迷惑をお掛けしました。失礼いたします」

 深々と頭を下げて退散するつもりの良子だが、ここまで来ても意外な言葉が返ってくる。

「転校初日にここまで上履きを汚した生徒は初めてね」

 真っ白だったスニーカーが泥に塗れており、良子は口元を押さえて大笑を堪えた。

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