七匹ノ悪魔 Ⅱ
チンアナゴを飼う水槽のろ過器。それがブクブクと泡立てる音以外何も聞こえない。
喉はカラカラ。コーヒーのおかわりを所望したいところ、そんなことを言い出せる空気ではない。アロンは、まるで荊棘に両脚を呑まれた心地で、その棘から痺れる毒を受けたように硬直していた。
カラカラの喉では何も発せず、額から大粒の汗を一筋、ツーッと垂らす。実真が気付いておかわりを淹れてくれても、それを受け取る力が働かず、微笑を受け、湯気立つマグカップはデスクにそっと置かれた。
その時ようやく思い知ったのだ。実真が、ドロシーやタコ脚たちと同じ類のものだった場合、ドロシーだけが味方で、タコ脚たちと同様に脅威であるのなら、今の自分には捕食される側の席しか空いていないということを。
六限を終えたばかり。夕暮れには早いはずなのに、向かう一面の窓から射す日光に赤色が混ざり始めており、それを背景に立つ実真のブルーブラックの瞳も何故か輝きを増している。
『保健室の魔女』とは、実に正鵠を射ていたのだ。
魔女の眼光から目を背け、ざわめく胸を押さえて言葉を絞り出す。
「実真先生が悪魔?」
「ええ。『七匹ノ悪魔』の第三匹目。本当の名前は、ネケテットパオペ。長いから実真先生のままで良いわ」
自分や魔女の声が違うところから聞こえる錯覚に陥るほど、アロンは不安定となっていた。
実真は心配も嘲笑もせず続ける。
「ドロちゃんとは親戚ではないと言ったけど、親戚よりもっと近いようで遠い関係性なの。ドロちゃんから聞いてない?」
アロンは揺れる視界の中でハッとなった。
「ドロシーが言っていたのは……確か、魔界から来たって……。魔王が死んで、その後で自分が生まれたとか……」
大切な少女の言葉さえ上手く思い返せない。……元からデタラメな話だが。
「それね、事実よ」
「まさか」
「本当よ。
「そういう設定だと思って雑にあしらってきたんですけど……」
「ドロちゃんの力の一端を見たんじゃないの?」
「見ました。悪魔というのも信じ始めていますけど、魔界は想像が……って、どうして僕がドロシーの力を見たと知ってるんですか?」
「見たからよ。シーサイドモールに潜むタコ脚を退治したでしょ?」
「いたんですか⁉」
「いいえ。私も
「ここから? わっ」
いつからそこにいたのか、アロンの足元に小さくて丸い、徳利のような体型の、青い鱗を纏う蛇が這っていた。噛み付くことも、よじ登ってくることもなく、円らな瞳でこちらを見上げている。母と同じ瞳の色だ。
「蛇……ツチノコ? ツチノコの亜種?」
「この世ならざる生物だから、いくら酷似していても蛇ではないのだけど、別に蛇でもツチノコでも構わないわ。アオッピと呼んであげてね」
襲ってこないなら……と、アロンはアオッピをどうともせず、ジッと見つめた。
「卍田市のあちこちにアオッピを放っていてね。視覚情報を私に送ってくれるの。そういえば、ドロちゃんの特性は『カリスマ』だったわね。獣を引き寄せるだけでなく、人間の心にも期待を抱かせる、思考停止の呪い」
「ちょっ――」
言い返す前に畳み掛けられる。
「私の特性は『擬態』なの。タコ脚を特定できるドロちゃんでも、私のアオッピは見つけられないはず。人間とツチノコのように。
つまりね、私はアオッピの目が届く範囲であれば、瞬時に現場の状況を把握することができるのよ」
「そんなことが……悪魔ならできるんですね。プライバシー……」
「だから、アロン君の妹さんの惨事は、目撃はしなかったけど知ってはいたの。あなたの住むマンションの屋上にも一匹置いているからね」
改めてアオッピを見下ろすも、凄まじい速さでアオッピがベッドの下へ逃げていった。
アロンは次に天井を見上げ、ゆっくりと息を吸って吐いた。ドロシーが語っていたこと。実真がいま話したこと。それら全てを事実として受け入れても、靄が晴れることはない。
しかし、この新たに沸いた靄こそが、以前までの靄を薄れさせてくれているのだ。ドロシーに陰気を吹き飛ばしてもらったのとよく似た展開で、つい笑いが込み上げてきた。
この不気味な含み笑いを、相変わらず微笑のまま歓迎してくれる
「どうして悪魔が養護教諭をやっているんでしょうね?」
聞けば答えてもらえる確信があったため躊躇しなかったが、今回ばかりは異なり、実真は目を丸くし、一瞬、微笑を解いた。
「長い話になるけど、聞きたい?」
実真の女の勘には能わないが、こちらにも洞察力くらいある。微細な変化を見逃さなかったため、
「事情があるなら別にいいですけど」
と、さり気なく汲んだ。
すると、実真はまたも目を丸め、顎に手をやってから、
「なるほど、流石ね」
と、これも異なる、照れくさそうな笑みを浮かべた。
「私の経緯については今でなくても良いと思うけど」
「分かりました。それじゃあ、話を戻しますけど……って、どこまで聞いたんだっけか……」
非常識の連続に混乱し出すアロンを横目に、実真は自分の二杯目を注ぐ。空になったコーヒーポットを洗い場に置いた。
「私たち悪魔が、何の目的でここに来たのか。そして、現状一番の問題は良子ちゃん。良子ちゃんが何者か、何が目的で引っ越してきたのか。他にも気にした方が良い問題は沢山あるけど、一先ずこの辺りじゃない?」
アロンはハッとなり、二杯目も一気飲み。実真はその間、鋭い目付きで時計と窓の外を睨んだ。
「今の最優先は櫛名さん。そういえば、櫛名さんから好意を伝えてもらったんですけど……」
「良かったじゃない。お似合いと言えばお似合いよ」
「けど、猛烈に嫌な予感がして、迷ったらやられると即断して、ここへ逃げ込んだのです」
「私に縋る思いだったのね」
「何か大事なものを強引に奪われるような気がしたのです。猛烈に……取り返しがつかないような……学生生活が一発で滅ぶような……」
「とても気になるから具体的に話してみて」
「いえ、やめときます」
アロンは額の汗を手の甲で拭った。
「もっとよく分からないのが実真先生です」
実真はカクンと首を傾げた。
「実真先生の話こそ衝撃的過ぎて、却って気が楽になりました。どうにでもなれって感じですけど」
「それは良かった」
「いくら説明を受けて、目の前で証明されても、現実として受け入れるには時間が掛かると思います。僕は何も特別じゃないですから。
それでも知りたいです。実真先生、ドロシー、
「それ、答えにくいのよね」
「え?」
虚を突かれたアロン。そのような返答こそ予想外だったから。
「私たちそれぞれで目的が違うのよ。あなたも知ってる通り、ドロちゃんと
「はい。
そして、二週間前に現れたドロシーこそがタコ脚を退治してくれた」
「で、私はここで若者たちの身も心も癒してあげている。それこそ人間のように、同族でも異なる方角を向いて暮らしているわね」
「僕は、
「ありがとう。私も嬉しい」
「悪魔たちが協力して卍田市を侵略するとか、そういうわけじゃないなら別に」
「ええ。私たちは誕生した場所と時期が同じなだけで、別に協力関係ではないわ。協力なんてしなくても、人間界を一つ滅ぼすくらい単騎でイケるのだし」
途方もなさ過ぎて畏怖さえ感じられなかった。
「人間界が無数にあるって言ってましたけど」
「信じ難いと思うけど、これも本当よ。世界は七つ存在する。魔界などは一つ限りだけどね、人間界だけは『増殖』が特徴だから無数にあるの。今、この瞬間にも増えたり滅んだりしているわ」
「本当に途方もない……」
「あなたはこの人間界の住人で、別の世界に飛び立つ機会なんて決して訪れないから気にしない、気にしなーい」
指を振る実真。緊張感のなさ。おかげで怯えずに済んでいるのかもしれない。
「話は分かりました。いえ、分かってはいませんけど。実真先生たちはどうしてこの人間界を選んだんですか?」
「さあ」
「さあ?」
「悪魔は人間に惹かれるものなの。人間の生気や感情の変化が大好物だから……」
ペロッと舌を垂らす実真に思わず胸が熱くなる。
「近いところから選んでいくだけ。この人間界の、この卍田市に転移したのに理由なんてないわ。……留まる理由ならあるから、六年目を迎えているわけだけど」
実真は神妙な空気を嫌い、咳払いをして続けた。
「とにかくね、『七匹ノ悪魔』のうち三匹が一つの人間界に集中しているなんて、私からしても異常事態だわ。私はまだしも、人間界を滅ぼすことに躊躇いを持たない悪魔もいるからこそ、お互いを避けて行動しているのに」
「ドロシーはそんな迷惑なことしませんよ」
「そうだと良いわね」
失笑され、ムッとするアロン。
熱くなる頭に冷や水をかけられるように……。
コン、コン、コン。
扉が三度ノックされた。
音に反応したのは同時だが、意味を理解しているのは実真だけだった。アロンは、お客さんか、なんて呑気に思っていた。
「残念。もうこんな時間」
「先生? 時間なんて……まだ……」
おもむろに壁掛け時計を見つめるアロン。
我が目を疑った。時刻は二十時を過ぎ、夕暮れどころか、窓の外は外灯に頼る暗さまで沈んでいた。
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