魔章 実真先生

急行、保健室

 ドドドドッ!

 廊下を駆ける者くらいたまにいるが、それにしても切羽詰まった様子を感じさせる太鼓のような響きで、その音が段々と大きくなるたび、こちらの床も揺れを起こした。

 ドガッ!

 扉を外しかねない乱暴さだが、中で待ち受ける者は一切狼狽えず、血相を変えてやってきた男子を薄く笑い、平然とマグカップに口を付けた。

「……実真先生」

「いらっしゃい、アロン君」

 市販の一般的なコーヒーとはいえ、淹れ立てであれば至高の味わいを堪能できる。普段、率先してコーヒーに手を付けることがないアロンでもその特別性は理解できる。一口、二口と熱いマグカップを傾け、都度、小さな吐息を漏らす実真の優越感を訝しむこともない。その代わり、自分と違って残酷なほど優雅な様子を睨んだが、相手にされず空振った。

 アロンは三階の教室から一階のこの場所までスピードを緩めず駆け抜けたせいで、壊れたように息が乱れ、言葉を紡ぐことすらできずにいた。

 そんなアロンに溜め息を吐き、実真が立ち上がった。

「アロン君ね、普通はノックをしてから入るものじゃないの?」

 鬼のような形相のアロンに微笑みを続ける。

「私に劣情をぶつける目的でやってくる子たちでさえ最低限の礼儀は守るわ。あなたの方がよっぽど野蛮ね」

「……劣情」

 その単語にのみ敏感で、アロンは胸を押さえながら叫んだ。

「劣情! 実真先生! 噛まれる、の意味が分かりました!」

 ようやく扉を閉めたアロンだが、激しく咳き込んだ。

「はいはい。落ち着きなさいな」

 実真がコーヒーを注いでデスクに置き、手前の回転椅子に座るよう促した。

「すみません……」

 入れ替わり、鍵を閉める実真に疑問を呈す余裕もない。繕ってなどいられず、一気飲みしたかったが、熱過ぎて小さい口になった。

(来ると分かっていたから淹れたばかりなのか)

 弄ばれているだけではないのだ。実真の善意に気付き、段々と落ち着きを取り戻していく。

「すみませんでした」

「いいえ。そうそう、これ、良かったら食べて。貰ったの」

 横長の白い箪笥の上に見覚えのある容器があり、実真がその蓋を開けた。中身は見るからに辛そうなキムチの山で、神聖とも取れる保健室の中で異彩を放っている。

「いえ、今はいいです」

「そう」

 慣れた感じで一つ摘まむ実真だが、想像以上に辛かったらしく、舌を出して目を瞑った。

「……凄い子でしょ、良子ちゃん」

 魔女らしからぬ反応に背徳を覚えるも、不意にその存在を呼び起こされてハッとなった。

「そうです! 櫛名さん!」

 ここまで疾走するきっかけとなった出来事を思い出すと、悠長に座ってなどいられなくなり、熱々のコーヒーを強引に流し込んだ。

「もう、忙しない」

 顔を真っ赤にし、呆れられるも気が気でない。ホームルームでの出来事が、顔どころか全身に熱を注ぐ。滾るようなものではなく、恐れにより汗が噴き出るのだ。

 脳裏に焼き付いて離れない、今朝初めて会ったばかりの女子から向けられた情熱の眼差し、朱色の頬。

 本来なら美少女からの好意に歓喜し、幸せハッピーを感じるべきところ、あまりに唐突で、理不尽とすら思ってしまった。普段、自分が浅尾たちと気さくに会話する際、恨みを込めた眼差しを向けてくる男たちが、あの時ばかりは硬直か、状況の異常さに当惑していたことも踏まえ、居ても立ってもいられず、ロケットスタートでここまで走り抜けてきたのだ。

 伺う約束があったからか、それとも実真に対して妙な信頼があるからか。何もはっきりしないまま、劣情を抱かれていることを、だけ、とは思えず、身の危険を感じて逃走したのだった。

「アロン君? もしもーし」

「あっ」

 オアシスと信じて保健室に飛び込んだが、呼吸が整い、沈黙に吐息が乗ると、却って不安が押し寄せてきた。礼節を軽んじ、彼女から椅子を奪った現状が非礼極まりないことも、今になって気付いたこと。

「色々すみません」

「謝ってばかりねぇ。そんなに弱った態度を見せられると、私まで情動を掻き立てられちゃうじゃないの」

 舐めるような眼差しで見下ろす魅惑のブルーブラック。しかし、アロンはそれに身の危険を感じることはなかった。

(実真先生は)

 良子のような危うさがない。良子も清い(清かった)女性だが、あくまで高校三年生の女子で、随所で勢い任せな若気を覗かせていた。

 比べてしまえば、実真には常に確信的なまでの自信があるように見える。凪と取れるほど、対面する相手の心境に配慮した振る舞いをしてくれているように思えるのだ。

「実真先生、櫛名さんと面識があるんですね」

「ええ。初めて会ったのは三日前だけど、それより前から連絡を取り合う仲だった」

「え? 親戚か何かですか?」

「いいえ。ちょっと事情がね」

「事情? あっ、いえ、踏み込むべきじゃないですよね」

「アロン君」

 黒いフォーマルドレスに白衣を重ねる、自らの容姿に絶対の自信を持つ美女から微笑を添えて名前を呼ばれただけ。

 それでも、多くの意味が含まれているような気がして、初めて訪れた際は最悪だったが、今や大分美味しい関係性を得ているように思うアロンは、暫しの沈黙を経て思い至る。積極的で良い、という意味があったのではないかと。

「僕としては、実真先生について教えてもらいたくて来たつもりです。実真先生は何かを秘めているようですので」

 実真の瞳を真っ直ぐ見つめるアロン。

「けど、その前に礼を言わないと。二週間前、先生に呼んでもらって、そこから僕のうらぶれた部分が錆を落としていったので」

「捻った表現ね、アロン君」

「すみません。そういう風に感じたので」

「良いんじゃない? 私は好きよ」

(今のも)

 実真に対していくつもの疑念がある。含みのある物言い、何にも囚われていないような立ち振る舞い。それらはただ珍しいだけで、常軌を逸した存在だから、ではないのかもしれない。

 しかしまだ、聞かれなかったから答えなかっただけ、という可能性が残っている。そう思えてならないほどの蠱惑的な優位性が、悔しいが、自分にとっての特別はドロシーだけだが、あり得るような気がしてならないのだ。

 アロンは閃く。こういった疑念や牽制こそが時間の無駄だと。

 実真にとって、それは不利なことではない。正体を疑い、何者か、と問う者が現れようとも、快く答える姿勢でいたのだ。

「直球で良いんですね?」

 口角をつり上げるアロンに、実真は依然として毅然、微笑を浮かべている。

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