魔の家 Ⅱ
ドロシーは当世の生活に疎かったが、自分の目で見て、手で触れれば、それがどういう用途なのかを大体把握できるため、アロンが教えればすぐに使いこなすようになっていった。
一番風呂を譲り、シャンプーとボディソープの違いを教えれば、脱衣所の外に控えるアロンも一安心。新鮮な湯の快感に浸る溜め息が壁を二枚隔てた先から数度聞こえて固唾を呑んだが、それは忍耐の問題。最難関はドロシーの着替えの用意だ。同じサイズと思い、そのままにしてある妹の部屋の引き出しからパジャマと下着を取り出した時は流石に背徳感を覚えた。
「本当に僕の部屋に?」
「検討の結果、最善と判断した。いわくつきの部屋に寝かせるわけにもいかないだろ。それとも俺と?」
「リビングは?」
「目に映るもの全てに興味津々な様子だからな。リビングだと気になるものが多くて寝にくいんじゃないか?」
「でも素直だよ」
「お前相手だからだろ。鈍いなこいつ」
ドロシーは、アロンに拭いてもらった髪をドライヤーで乾かしている。蝋木親子はテレビの前に座る彼女を見つめ、一夜を凌ぐ案を考えていた。
「在砂の布団を移して、お前のは床に敷けばいい。ギリ健全だ」
「別にいいけど……そうだ! せっかくだし押し入れで寝てみようかな、じゃなくて」
ふんふん、ふーん。ドロシーは鼻歌を歌う。
蝋木親子は普段ドライヤーを使わないため、先に埃を取って動作確認したのだが、温風が弱くなっており、冷風と同等になっていた。そのせいで髪を乾かすのに時間が掛かっているのだが、当のドロシーは心地良さそうにしている。
在砂も、自分の部屋ではなくここでドライヤーを使っていた。
在砂も銀髪だった。どうやら母の遺伝らしい。
在砂はロングのシルバー。ドロシーはショートのゴールド。というのに、アロンには酷似した存在に思えてならなかった。
ただ、ここで健やかに息をしている。今日会ったばかりの少女に対し、庇護に近い感情があるのは、脱衣所の外で感じたものよりよっぽど不健全だと自覚もしている。この庇護欲が、果てにどこへ辿り着くかなど分かるはずもないのに、まるで死んだように前へ進むことを躊躇っている自分にとってのカンフル剤になり得そうで、より惑う。
ドロシーが自分の部屋で眠ることも、今後長い付き合いになるかもしれないことも既に受け入れ始めている。
マンタビーチから
そんな気休めの作業と真逆のことをしているような気がしてならないのだ。
独り考え込むアロンを一瞥し、
「分かるな?」
と残し、幸智は踵を返した。
「責任ね」
仕方ないように、もう乾き切ったマリーゴールドへ歩む。
「大切なことだろ。今のお前にとっても」
幸智は呟いてリビングを去った。
在砂の布団を自分の部屋へ運び、自分の布団は床ではなく押し入れに敷いた。
準備に取り掛かる段階からちょこちょこと後ろをついてきていたドロシーが不思議そうにしているため、「夢を一つ叶えておこうと思って」と言い、自分自身に何だこいつと思った。
常夜灯にして、ドロシーはアロンのベッドに、アロンは押し入れで横になった。
段々と重くなる目蓋で、ぼんやりとしたオレンジ色の光を見つめるアロン。押し入れの中は息苦しく、既に懲りていたため、少しだけ襖を開けてある。
彼女の寝息が聞こえてくるか、寝落ちる寸前に気合で閉めようと思っていたところ……。
「ヘイ、冒涜者!」
「わっ!」
少しの隙間から、ここからでは覗けない顔が迫って驚愕した。
「ごめん。本当にやばかった」
「先に聞いておきたいことがあるのだ」
隙間から見える少女の眼差しは、無邪気な頃とはかけ離れた大人のものとなっていた。押し入れに収まっている自分が情けなくなるほどに。
「何だい?」
「いがみ合っているようだが、冒涜者と父冒涜者の関係は悪くないと見た。絆があると分かる」
「こそばゆさもないね」
「故に、どうにも不可解な部分がある。私は初めて人間界に降り立ったが、大衆の集うモールを練り歩き、どのような縁や絆が為されているのかを盗み見た。結果、マンタ市の民は互いを貶すような真似を避ける傾向があると分かった。平和を、平和のまま置いておくのが上手いのだ」
(まただ)
唐突なシリアスモード。ファミレスで感じた人形のように完璧な顔立ちで真剣に来られると、急激に緊張が押し寄せてくる。
「しかし、お前たちはこれほど魔の気が溜まる場所に暮らし続けている。これは繋がっているな? お前の妹は普通じゃない死に方をしたはずだ」
胸が苦しくなり、手足がびっしょりと汗ばむ。こんな状態で押し入れに収まっているなんて、一番の呑気は自分だ。
「マンタ市民の傾向からして、普通は離れるはずだ。こんな危険な場所は」
「……ああ」
アロンは安堵した。お前が殺したのか、と追及されたら、きっと耐えられなかったから。
「……そうだね。普通、妹が死んだ場所にはいられない」
アロンは襖を開き、あぐらをかいた。
「でも、これは僕の責任で、僕もあの男も在砂が大切だから、のっぴきならない事情が向こうからやってくるまではここに留まると決めているんだ。多分、これはおかしいことかもしれない。冒涜かもしれない。……実際はそこまでおかしくないのかも。
とにかく僕は逃げない。逃げないと決めて、こうなっている」
震え出す下目蓋でも、ドロシーの揺るぎない瞳から逃げなかった。
「大切な存在だったのだな? 妹だからではなく、お前の人生の欠片として」
「そう。君に似ている」
シスコンの未練と、気持ち悪がられても構わない。これが本心だからで、この少女が心なく卑下するような小物ではないと、とうに分かっているから。
「いつも生意気で、僕がこんなだから、しっかりしなくちゃいけなかったんだろうなぁ。本当はあざといくらいなのに。でも時折、淑女になるんだよ。ドロシー、さっき『もし騙されたとしたら、それはこっちの器の底に穴が空いているのを自分が見落としていただけ』って言ったよね?」
「言ったっけ?」
「ああいう、いきなり深いことを言い出すところ、よく似てる。もしかして在砂の友達?」
「知らん!」
「思えば在砂は深いことを言い出す時、フッといなくなりそうな雰囲気を纏っていた。現実は生々しいものだったけどね」
真っ直ぐにドロシーを見つめる。無垢な少女の顔面が内側から裂かれる様を想像し、口元に手をやった。
「大丈夫かぁ?」
「……どうも」
ドロシーの反応を無情とは感じず、むしろ冷風に思えて爽快だった。
「うむ! それでこそ我が同罪の冒涜者!」
やがて、過剰な温風が訪れる。
「愛したからには死ぬまで愛さなければ死! 己の心を優先し、責任から目を背けるようでは、我が共犯者に相応しくないからな!」
ドロシーは意を決した様子で扉の方へ歩き出した。
「あっ、トイレの場所は――」
「うむ……ここから貫通させるのも良い。我が武勇を示し、畏敬の念に染め上げるところだが」
「ドロシー? なに企んでる?」
「モールの有象無象はまだ間に合うが、ここのはもうじき動き出すはず。放っておけばお前の父も妹のようになるぞ。それが嫌なら今のうちに排除しなくてはな。案ずるな、我が同罪の冒涜者。このドロシー様であれば同じ結果にはならん」
扉を開き、闇へ駆り出すドロシー。彼女を追わない理由こそ皆無だが、胸に冷たいものを感じ、突如として両脚が震え出した。壁に手を置かなければ前進できないほどだったが、遠のく彼女の名前を連呼し、どうにか後を追った。
「ドロシー! トイレはそっちじゃない!」
ドロシーは、在砂がどのような惨事に見舞われたのか分かっている。知った上で臆さず立ち向かうつもりだ。
アロンが欲しくて堪らないヒーローの素質をドロシーは当然のように携えている。携えてきてくれたのだ。
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