深淵の探求者 Ⅰ

 向かったのはトイレではなく在砂の部屋。すぐ隣だ。

 扉の先には常夜灯もない夜の闇が待ち受けており、一層こちらの胸を追い詰める。灯りを点けていないのは同じなのに、廊下側の方が明るく感じられ、さっきまでいた自分の部屋が天国に思えるほど光がない。

 恐れず扉を開いたドロシーは数歩進んだところで立ち止まり、その小さな背中にアロンは思いを託す。

「ドロシー」

 返事を貰えず、このまま闇に呑まれてしまいそうな不安に駆られる。暴れる胸で扉の横にある電源スイッチを押した。

 深淵の暗さから、白く眩い空間へと切り替わる。在砂の部屋は当然、アロンの知る部屋のままだった。何かが増えているわけもなく、アロンは安堵の溜め息を吐いた。

「ドロシー、どうしてここ――」

「冒涜者、そこを動くな」

 ドロシーは振り返らず、手を挙げて制した。その意味は、すぐに己が目で理解へ至る。


 空間が揺れている。視界が震えている。この部屋が震源地で、廊下も、505号室全て、おそらくマンション全体が、酔っぱらったように右へ左へグラグラ振られている。そのような異変が突如として襲ってきた。


 ようやく安らぎを得た胸がもう不安定。これほどの地震というのに父が起きてこないことから、この異変は自分たちだけが感じているものなのかと思うも、ベロベロになっていた父を思い返し、余計な苛立ちを積もらせた。

「ドロシー……」

 立っていられないほど揺さぶられ、壁に手をやって膝を突く。瞑目で、縋るように彼女の名前を何度も発した。

 予感がある。これほどの不安定に陥る理由、原因。それがすぐ近くに、つまりはドロシーの目の前にいる。

 この不安を知っている。

 マンタビーチから四百メートル先に聳える超巨大未確認生物・水平線の魔物ビッグパス

 アレと向き合い続ければ、この身にへばり付く悲しみをいつかは払拭できるはずと、根拠もなく信じ、案の定、何も前進しないまま三か月を無為に過ごしてきた。

 全く以て時間の無駄だったのだと、殴るような説得力がそこにいる。

 在砂を、尊き命を無惨に奪った忌まわしきタコ脚がそこにいる。

 目蓋を裂くほどの力で目を開く。自分こそ在砂の最期みたく悍ましい相貌をしているに違いない。

 しかし、これほどの確信がありながらもタコ脚は姿を現していなかった。

「冒涜者よ、私の後を追ってきてその体たらくか」

 息を乱し、大粒の汗を垂れ流すアロンに失望、それでいて少し心配の色を窺わせるように眉を上げる少女だけが鮮明だった。

「……ドロシー」

「何度も呼ぶんじゃない。一度目からずっと聞こえている」

「ドロシー、多分、信じられないだろうけど、ここに……」

「うむ」

 反してドロシーは不敵な笑みを浮かべた。

「そこにいるぞ」


 在砂は中三の女子にしては素朴で、あまり物を増やさなかった。趣味嗜好が見て取れないほど、この部屋も最低限で彩られていた。

 修学旅行に行ってもお土産を買ってこず、渡された小遣いを外食か募金に回してしまうような、自身に物的得を与えない少女、それが蝋木在砂だった。思い出を持って帰れよと、アロンは何度も言い聞かせたが、独特の哲学で押し切られ、父など、流石はあかりの娘と、亡き妻の幻影を追い、つまらなさを面白さと評した。

 在砂がまだここに居た頃の記憶が蘇る。思わず常夜灯のもとで堪えたものが零れ出そうになるも、気を強く持ち、立ち上がることにした。

「大丈夫」

 今にも倒れそうな顔色で言うと、ドロシーはニッと笑みを浮かべた。

「では、始めるぞ!」

 アロンは額の汗を拭って頷く。

「我が同罪の冒涜者よ、妹は海にいるあのデカブツと同じ類の輩に殺されたのだな?」

「そうだ。あんな超巨大ではないけど、同じ赤黒いタコ脚だった。何か繋がりがあるのか?」

「む? あると断定して怒りの念を放っていたのではないのか?」

「怒り? いや、正直そこまで考えてなくて」

 細い首が曲がると、いかに中身のない真似をしてきたかと自信を失くす。

「ここに住み着いているのは、あのデカブツの使い魔かしもべだろう。数ある触手のうちの一本とも言えるか」

 一旦緩んだ空気が再び重たくなるのを感じる。

「ここだけじゃないぞ。ここまで強烈ではないが、モールでも同じ色の魔の気を感じた。それら全て、マンタ市の影に潜むタコ脚は、どれも奴が元凶と見ていいだろうな」

 アロンは大きな唾を呑んだ。

 誰もが一度は想像する、超巨大未確認生物による都市の侵略。

 今日初めて卍田市に現れた、現在の異変にも一切臆することなく毅然とした態度でいられる少女が言う通りであるのなら……。

「手遅れなのか」

 想像し得ない曖昧な恐怖にさえ血の気が引き、手で口元を覆う。すると、ドロシーが頬を膨らませて接近してきた。

「こら! まだ話は終わってない!」

「ああ、ごめん」

「ま、私が来たからには心配無用だがな! マンタ市の人類を慄かせる為政者は私だけで良い! 私以外が世界を支配するなど見過ごせるはずがなぁい!」

 つい苦笑してしまった。愛らしい暴君のおかげで、愛らしくない侵略者への恐怖が薄れていく。

「この話は後にした方が良いかな」

「うむ! まずは目の前のこれを誅罰してくれる!」

「目の前?」

 脚を広げ、右手を空へかざすドロシー。すると、海岸でも一瞬見た赤黒い光が右手からカッと輝いた。

(同じ色だ)

 杞憂のアロンに構わず、

「わはははははは!」

 爽快に大笑、部屋の照明を上回る光度の魔力を集める。

「出でよ我が愛剣、コドロ! 『七匹ノ悪魔』が第七匹目、ドロシーの名にいざなわれ、我がかいなにて凶刃とならん!」

 豪快に名乗る少女に呼応し、右手が更に瞬いた。

 海岸の大型犬たちと比べて寂しいくらい小型の、黒い体毛の犬が掌に現れた。こちらへ見せつけてくるので分かったが、ドロシーが獣と化したら……と思うほど、宝石のように艶めく真紅の瞳をしている。

「フッ、あいけんって……愛犬?」

「フッ、我がコドロは並みのワンコではない! 侮るなよ冒涜者!」

 小犬が凄まじい速さで尻尾を振り、先程と同じように闇たる光と化した。すると、小型犬が主人と同じ丈で、主人よりも太い、ギザギザな刃を誇る大斧へと化けた。

 下の住人に配慮せず、ゴンッと斧を下ろすドロシー。それにいつの間にかパジャマから黒衣へと着替えを済ませている。

 一部始終を見ていたが、どれも常軌を逸したマジックで、アロンは開いた口が塞がらなかった。

「フフフ……感動のあまり硬直したか。これが私の得物だ。勿論これだけでは力の一端とも言えないほどだが、とりあえずここの雑魚を狩る分には事足りるだろう」

「……ドロシー」

「んー?」

 絶賛を待ち、耳を向けるドロシー。

「もしかして、本当に悪魔か何かなの?」

 だが、思っていた感想は得られなかった。

「なっ⁉ 信じてなかったのか⁉」

「いや、特別な子だとは思ったけど、ここまで規格外な子とは」

「酷いぞ冒涜者! この……冒涜者!」

 こちらが堪えたものを目頭に浮かべるドロシー。思いのほか傷付いた様子のため、一先ず謝ろうとしたが……。

「ドロシー!」

「む? おっ」

 不意に、正に一瞬で姿を現し、躊躇なくドロシーの首を掴んで己が領域へ押し込むタコ脚に仰天を免れなかった。

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