第19話
「夏帆ちゃーん、起きてー」
……え? はるかさん? あっ、そっか。今日は――そうだった。
八月十九日。こていちゃんの故郷を目指す、大移動の日。
時計を見ると、まだ朝の四時。早すぎる。 こんな時間に起きるのは、お兄ちゃんの車は手動運転車で、高速が使えないせいだ。 まあ、乗せてもらう立場なので文句は言えないけど、「文明の力に頼ってよ」って感じ。
寝ぼけたまま上半身だけ起こすと、はるかさんは、もうぱっつん前髪もぴしっと整っていて、メイクもばっちり。旅仕様、完璧に仕上がってる。
「まっ、陽太もさっき起きたから、そんな焦んなくて平気だよ」
「あっ、はいっ」
バタバタと洗面所を済ませて、薄手のパーカーに着替えてダイニングへ。 テーブルには、はるかさんの手作りごはん(昨日の残りものだけど)が並んでいて、すでに感動レベルだ。
ただし、お兄ちゃんはその横で、眠たげな顔でエナドリをちゅーちゅー吸ってる。
「いや、ちょっとは食べようよ」
「んー、入んね……」
早くも不安。
一方こていちゃんは、コンセントを外して「充電完了です、100パーセントです」となぜかドヤ顔。 今日もお出かけ用の白ワンピ。まあ、かわいいから、いいんだけど。
今日は八月にしては涼しいらしい。うん、旅日和。きっといい日になる。
五時ちょっと前、「ぶるるっ」と軽い音を立てて、車が動き出す。 運転はもちろんお兄ちゃん、助手席にははるかさん。後部座席に、あたしとこていちゃんが並ぶ。
ナビは……年季入りすぎてて、何世代前かわからない。 でも下道は何十年も道が変わらないらしく、それでも案外ちゃんと案内してくれるらしい。
音楽もBluetoothすらつながらなくて、はるかさんが、どこから出てきたのかわからない古いケーブルで自分のスマホをつないで、なんとか音楽を流してくれている。さすがにエアコンは動く。
車は、ぐんぐん進んでいく。 時間が経ち、あたしはスマホで現在地を確認しながら、外を眺める。
……八王子?
いや、え、待って。 あの浜辺のある熊野市って、確か和歌山寄りの三重県で、太平洋側だったよね? それなのに、いま明らかに山の方へ向かってる。北西? まちがってない?
そう思って、思わず前の席に声をかけたくなったけど、ふと、はるかさんがつぶやく。
「なんか今日も、太陽フレアの話題がちょっとバズってるね」
「それ、やばいやつじゃないですか?」
あたしは思わず前のめりになる。 前にお兄ちゃんともその話したし、ほんとにクラウド止まったら、ふつうにパニックなんですけど。
「んー……まあ、大丈夫だと思うよ、今回のも」
はるかさんは画面をスクロールしながら、あくび混じりに言う。
「観測データ見ると、ピークは日本の昼前くらい。その時間帯って、地磁気にはあんまり強く出にくいし、フレアの種類も、いわゆる『Xクラスのヤバいやつ』ってわけじゃないしね」
えっと……わかったような、わかんないような……。
あたしが黙っているのを見てか、はるかさんは少し口調をゆるめて言い直した。
「んじゃまあ、ざっくり言うと、ちょっとノイズ入るかもだけど、地上の生活にはまず影響ないって感じ。飛行機とか衛星は、たぶんルート調整済んでるしね」
「ほんとに、そうなんですか?」
「ほんとほんと。もし停電レベルの危険あるなら、NASAとか公式が騒いでるって」
はるかさんはスマホを伏せて、あたしのほうを振り返って笑う。
「……そっか。安心しました」
「ま、陽太の手動車には関係ないけどね〜」
「おい、おまえ降ろすぞ」
前からぼそっとお兄ちゃんが言う。
「あははっ、冗談だってば〜」
それから、車は順調に走っていくけど……。
コンビニの看板は見かけなくなって、家の屋根もどことなく昔っぽい。 アスファルトの色も、ちょっとくすんできた気がするし、「街」ってより「峠」って感じの道がずっと続いていた。
「お兄ちゃん、道ちがくない? 海の方じゃなかったっけ?」
「あってる」
返事はそれだけ。目線は前のまま。 集中してるっていうか、単に会話がだるいだけって感じでもある。読めない。
はるかさんが特につっこまないあたり、たぶんまちがってはいないんだろうけど、あたしは少し不安になっていた。
すると、はるかさんがふいに、「ね、見て」と窓の外を指さした。 声が少しだけ弾んでいた。
そのタイミングで、カーブを抜けた先、右手の空がひらけて――
「うわ、富士山……!」
白い頭が、青空の下にすっと立っていた。 てっぺんに少しだけ雲がかかってて、色も形も、完璧。
写真で見るより、ずっとちゃんと「そこにいる」って感じがした。
「すごっ」
「すごいね。カレンダーにあるやつじゃん」
はるかさんがスマホを構えてシャッターを切る。 あたしも負けじと連写モードを起動させる。
お兄ちゃんは無言のまま、スピードを少しだけゆるめていた。 その運転の仕方を見て、なんとなくピンときた。
「お兄ちゃん、もしかしてさ、富士山見せようとして遠回りした?」
「ちげえよ。こっちのが混まねえんだよ」
こっちを見ずにそう言うけど、声にちょっとだけ語尾のにごりがあった。
「ふーん、ほんとにぃ?」
あたしがにやけると、はるかさんも同じようににやっと笑う。
「夏帆ちゃん、お兄ちゃん照れ屋さんだから、ほどほどにね〜」
「はーい」
「うっせーなおまえらは」
ぼそっと文句言いながら、でも、お兄ちゃんは少しだけ笑ってた。
「ありがと」
あたしは、ちゃんと素直にお礼を言ってみた。
「なんもしてねーよ」
そう返したけど、ルームミラーに映ったお兄ちゃんの顔は、いつもより優しかった。
そうだ、こていちゃん。ちゃんと見えてるかな。
「こていちゃん、見えた?」
隣を見ると、こていちゃんはまっすぐ窓を見ていた。 ぱちぱちと目を動かして、髪がぴこぴこ光っている。
「はい。富士山……素敵なかたちです」
その言い方は、ナビの読み上げじゃない。こていちゃん自身の感想だった。
「素敵だね」
「はいっ」
あたしたちは顔を見合わせて、笑った。車はまた「ぶるる」と音をあげて走り出す。
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