第16話 秋の気配、体育祭

朝の空気が少しずつ変わってきた。夏の終わりを告げるように、風が運んでくる匂いが違う。窓を開けると、ひんやりとした空気が部屋に流れ込み、カーテンをそっと揺らす。


二学期が始まって三週間。校内のあちこちに「体育祭」の二文字が踊り始めた。


「悠真、朝ごはんできてるわよ」


詩織の声が階段を上ってくる。俺は制服のボタンを留めながら、鏡に映る自分の顔を見る。なんとなく顔つきが引き締まったような気がする。夏の部活で少し日焼けした肌も、徐々に元に戻りつつある。


「今行く」


階段を降りると、食卓には既に四人の姿があった。詩織は最後の一枚のトーストをお皿に乗せ、美咲はスマホを見ながら牛乳を飲んでいる。玲奈は新聞を広げ、小春は眠そうに目をこすりながらヨーグルトをすくっていた。


「おはよう」


「あ、おはよー。ねえ、体育祭って今週末だっけ?」


美咲がスマホから顔を上げて聞いてくる。


「ああ、土曜日」


席に着きながら答えると、詩織がコーヒーを注ぎながら微笑んだ。


「見に行けそう?」詩織が聞く。「大学の講義、午後からなの」


「私も行く!」小春が急に目を輝かせる。「お兄ちゃんの勇姿、見たいな〜」


「勇姿って…」思わず顔が熱くなる。「別に大したことしないよ」


「リレーの選手だって言ってたじゃない」美咲が指摘する。「クラスで足速いんでしょ?」


「いや、そんなことないって」


言葉を濁しながらトーストに手を伸ばす。確かに選ばれはしたが、正直なところ自信はない。ただでさえ緊張しやすいのに、今年は人数の関係で二年生が主力になるらしい。


「私も行けるわ」


玲奈が静かに新聞をたたみながら言った。その横顔を見て、少し驚く。玲奈は大学受験を控えているはずなのに。


「勉強は…大丈夫なの?」


「たまには息抜きも必要よ」彼女は微笑んで、「それに…」と言いかけて一瞬言葉を切った。「家族の応援も大事だと思うから」


その言葉に胸の奥が妙に熱くなる。


「そ、そう…」


言葉に詰まりながら、コーヒーに口をつける。熱さで舌をやけどしそうになり、慌てて口から離す。


「気をつけてよ、熱いわよ」詩織が心配そうに言う。


「大丈夫」


朝食を終え、玄関で靴を履きながら、ふと思う。姉妹たちが見に来るなら、少しはかっこいいところを見せないと。そんな考えが頭をよぎり、自分でも意外に思う。


---


「よーい、ドン!」


ピストルの音が校庭に響き渡り、クラス対抗リレーの第一走者が一斉に飛び出した。応援席からは歓声が上がる。俺は最終走者として、バトンゾーンで膝を曲げて待機している。


「篠原! しっかり走れよ!」


クラスメイトの声が背中を押す。ここまで三位でバトンが回ってくる予定だ。なんとか逆転したい。汗ばんだ手のひらをこすりながら、前の走者に視線を固定する。


「頑張れ、悠真!」


遠くから聞こえる声に、思わず観客席に目を向けた。人の波の中に、詩織と玲奈、美咲、小春の姿を見つける。四人とも手を振っている。あまりの恥ずかしさに顔が熱くなる。でも、どこか嬉しさも混じっている。


「篠原、集中しろ!」


クラスの体育委員の声で我に返る。前走者が近づいてきた。息を整え、タイミングを計る。


「いくぞ!」


バトンが手に渡る瞬間、体が自然と前に弾けた。風を切る感覚。足が地面を蹴る。周りの声が遠のいていく。


「追いつけ!」

「篠原、頑張れ!」


クラスメイトの声が風と一緒に耳を通り過ぎる。前を行く二人の背中が見える。距離は少しずつ縮まっている気がする。肺が熱く、足の筋肉が悲鳴を上げている。でも、止まれない。


コーナーを曲がり、直線に入る。残り百メートルを切った。


「お兄ちゃーん!」


小春の声が聞こえた気がした。もう少し。あと少し。


ゴールテープが見える。二位との差は、あと一歩。


最後の力を振り絞り、テープを切った瞬間、体から力が抜けた。二位だ。クラスの皆が駆け寄ってくる。


「すげえ! 最後追い上げたな!」

「あと少しで一位だったのに!」


肩を叩かれ、背中を押される。息が整わないまま、笑顔を返す。それから、観客席に目を向けると、四人がこちらへ向かって降りてくるところだった。


「悠真、すごかったわよ!」詩織が近づいてきて言う。


「お兄ちゃん、超速かった!」小春が飛びつくように腕にしがみつく。


「あと少しだったね」美咲も珍しく素直に言う。


玲奈はただ微笑み、「お疲れ様」と静かに言った。


「ありがとう…」


息を切らしながら答える。汗が目に入り、視界がぼやける。手で拭おうとした瞬間、詩織がハンカチを差し出した。


「汗、拭きなさい」


受け取ろうとすると、詩織は自分で俺の顔に近づけてきた。柔らかい布地が額から頬へと優しく滑る。


「…自分でできるよ」


恥ずかしさに声が小さくなる。周りのクラスメイトの視線が痛い。


「いいから」


詩織は構わず、首筋までタオルで拭ってくれる。タオル越しに伝わる彼女の指の温度が、妙に鮮明だった。


「お、篠原、姉ちゃんに甘えてるなー」


クラスの誰かが冗談めかして言う。それを聞いた詩織は少し赤くなりながらも、笑顔で答えた。


「妹たちもいるのよ。ほら、美咲も小春も玲奈も」


その言葉に、クラスメイトたちの視線が四人に集まる。


「へえ、篠原の妹たち? みんな可愛いじゃん」

「お前、羨ましいな」


冷やかしの声が飛ぶ。美咲は少し不機嫌そうに顔をそらし、小春は嬉しそうに笑う。玲奈はただ静かに立っていた。


「そろそろ次の競技始まるから、応援席に戻ってくれる?」


なんとか話題を変えようと言うと、詩織は「そうね」と頷いた。


「頑張ってね。あとでまた見に来るから」


そう言って四人は応援席へと戻っていく背中を見送りながら、なぜか胸の奥がざわついた。


---


体育祭も終盤に差し掛かり、最後の種目「クラス対抗綱引き」が始まった。俺たちのクラスは予選を勝ち上がり、決勝戦を前にしていた。


「みんな、最後だぞ!」クラス委員長が声を張り上げる。「ここで優勝すれば、総合二位になれる!」


綱を握る位置について、深く息を吸う。手のひらには既に豆ができている。向かいのクラスと睨み合い、笛の音を待つ。


「篠原、しっかり踏ん張れよ」隣のクラスメイトが言う。


「ああ」


短く答え、綱を強く握り直す。その時、観客席から姉妹たちの姿が目に入った。四人とも真剣な表情で、こちらを見ている。


笛の音が鋭く響き、一斉に綱を引く。両クラスの掛け声が校庭に響き渡る。


「せーのっ!」

「引けーっ!」


最初は均衡していたが、徐々に向こうが優勢になってきた。足が少しずつ前に引きずられる。


「踏ん張れ!」

「負けるな!」


クラスメイトの声が必死だ。歯を食いしばり、全身の力を込める。手のひらが熱く、汗で滑りそうになる。


「お兄ちゃん、頑張れー!」


小春の声が聞こえた気がした。目を上げると、四人が立ち上がって応援している。詩織と玲奈は手を口元に当て、美咲は拳を握りしめ、小春は両手を振り回していた。


その姿を見た瞬間、何かが込み上げてきた。


「行くぞ!」


クラスメイトに声をかけ、思い切り綱を引く。周りも呼応するように力を入れる。少しずつ、少しずつ、中央のマーカーが動き始めた。


「いけるぞ!」

「もう少し!」


声が重なり、力が一つになる。汗の匂いと熱気が混ざり合う中、マーカーが完全にこちら側に引き寄せられた。


笛の音が鳴り、勝利が確定した瞬間、クラス全体から歓声が上がった。


「やったー!」

「優勝だ!」


互いの肩を叩き合い、喜びを分かち合う。俺も思わず笑みがこぼれる。手のひらは赤く腫れ、筋肉は悲鳴を上げているが、達成感がそれを上回っていた。


閉会式を終え、解散の時間。クラスメイトと別れ、校門に向かって歩いていると、四人が待っていた。


「お疲れ様」詩織が微笑む。「最後の綱引き、すごかったわ」


「見てたの?」


「もちろん」玲奈が答える。「最後まで応援してたわ」


「お兄ちゃん、かっこよかった!」小春が両手を上げる。「特に最後! 勝った瞬間の顔!」


美咲はじっと俺の手を見ていた。「…手、大丈夫?」


見ると、手のひらには赤い跡がくっきりと残っている。


「ああ、これくらい…」


言いかけたとき、詩織がバッグから何か取り出した。救急用の軟膏だ。


「ほら、塗りなさい」


「ここで?」


「いいから」


詩織は俺の手を取り、軟膏を塗り始める。優しい指の感触に、なぜか言葉が出なくなる。


「痛くない?」詩織が俺の顔を見上げる。


「…ううん」


視線を合わせられず、横を向く。風が吹き、詩織の髪が揺れた。秋の匂いがする。


「私も手伝う」


玲奈が近づき、もう片方の手に軟膏を塗ってくれる。二人の姉に手を取られている状況に、心臓の鼓動が速くなる。


「お兄ちゃんの手、ゴツゴツしてる」小春が覗き込む。


「バカ、運動部だし」美咲が小春の頭を軽く叩く。


手当てが終わり、詩織が軟膏を片付けながら言った。


「今日はみんなでラーメン行かない? 悠真の活躍を祝って」


「いいね!」小春が飛び跳ねる。


「いいけど…」美咲は少し考え込んでから、「悠真、疲れてないなら」と俺の顔を見る。


「全然」思わず答える。「行こう」


玲奈も静かに頷いた。「私も久しぶりに」


五人で歩き出す。夕暮れの光が校舎を赤く染める。体育祭の余韻と、これから始まる夕食の時間。両方の期待が胸の中で混ざり合う。


詩織が隣に並んで歩きながら、「今日は本当にかっこよかったわよ」と小さく言った。その言葉に、顔が熱くなる。


「そんなことない」


言い返しながらも、心の中では少し誇らしい気持ちが広がっていた。秋風が五人の間を通り抜けていく。季節は確実に変わりつつあるけれど、この瞬間だけは止まっていてほしいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る