第15話 夏休み最後の日
窓から差し込む陽の光が、テーブルに置かれた宿題プリントを眩しく照らしている。夏の終わりを告げる風が、薄手のカーテンを揺らす。明日からは二学期が始まる。
「ふぅ、やっと終わった」
プリントの最後の問題に答えを書き込み、鉛筆を置く。夏休みの宿題を全て終わらせた達成感と、自由な時間が終わる寂しさが入り混じった感覚が胸に広がる。隣では小春がまだ数学のプリントと格闘している。
「もう、なんでこんなに難しいのぉ」
小春は頬を膨らませながら、消しゴムで何度も同じ場所を消している。彼女の夏休みの宿題は、俺が手伝いながらここ数日で一気に進めてきた。それでも数学だけは最後まで残ってしまったようだ。
「どれどれ」
俺は身を乗り出して、小春のプリントを覗き込む。因数分解の問題で、途中式がぐちゃぐちゃになっている。
「ここ、こうじゃないか?」
指先でプリントを指しながら説明しようとした瞬間、小春の髪から柔らかな香りが漂ってきた。シャンプーの甘い匂いに、一瞬だけ言葉に詰まる。
「どこどこ?」
小春は首を傾げ、さらに俺の方に身を寄せてくる。肩と肩がほんの少し触れ合い、思わず背筋が伸びる。
「あ、ここだよ。まず、この式を見るときは…」
なるべく自然に振る舞おうとしながら説明を続ける。小春は真剣な表情で俺の言葉を聞いている。彼女の横顔を見ていると、いつの間にか幼さが抜けて、少し大人びた雰囲気が出てきていることに気づく。
「なるほど!そういうことだったんだ!」
小春の顔が明るく輝く。俺の説明が理解できたのだろう。彼女の笑顔は、いつも見ているはずなのに、こうして肩越しの距離で見ると、何故か胸の奥がざわつく。
「じゃあ、次はこの問題も同じように…」
俺が次の問題を指さそうとした時、小春が急に立ち上がった。
「ちょっと休憩しよ?ずっと座ってると疲れちゃう」
小春は大きく伸びをしながら、窓際へと歩いていく。八月最後の日差しが、彼女の輪郭を柔らかく縁取っている。
「そうだな。少し休もうか」
俺も立ち上がり、キッチンへ向かう。冷蔵庫からウォーターサーバーで作っておいた麦茶のポットを取り出し、グラスに注ぐ。氷を入れると、涼しげな音が響く。
「はい、冷たいの持ってきたぞ」
リビングに戻ると、小春は窓辺から離れて、ソファに腰掛けていた。グラスを差し出すと、彼女は両手で受け取る。
「ありがとぉ、お兄ちゃん」
小春の指先が、一瞬だけ俺の手に触れる。その感触があまりにも自然で、かえって意識してしまう。
「夏休みも終わりか…」
何気なく呟いた言葉に、小春は麦茶を飲みながら頷いた。
「うん。あっという間だったね」
窓の外では、蝉の声が少し弱々しくなってきている。それでも、まだ夏の名残を懸命に鳴き続けている。
「でも、楽しかったよ。お兄ちゃんと色々行けたし」
小春の言葉に、この夏の記憶が次々と蘇ってくる。海へのドライブ、花火大会、カフェでの勉強。どれも些細な出来事のはずなのに、鮮明に覚えている。
「そうだな。色々あったな」
俺はソファに腰掛け、天井を見上げる。エアコンの冷たい風が、汗ばんだ額を優しく撫でていく。
「お兄ちゃん、今日は何して過ごす?」
小春の問いかけに、俺は考え込む。夏休み最後の日を、どう過ごすべきだろうか。
「そうだな…まずは宿題終わらせないとな」
現実的な答えを口にすると、小春は少し拗ねたような表情を浮かべた。
「もう、つまんない」
彼女はグラスを置き、膝を抱えてソファに座り直す。
「じゃあ、小春はどうしたいんだ?」
問いかけると、彼女はしばらく考え込んでから、ふと思いついたように顔を上げた。
「お菓子作りしない?夏休み最後のおやつ!」
その提案に、迷わず頷く。
「いいな。何作る?」
「レモンケーキ!この前のレシピ本に載ってたやつ」
小春は嬉しそうに立ち上がり、本棚から料理本を取り出す。ページをめくる音が部屋に響く。
「これ!」
彼女が指さしたのは、爽やかなレモンケーキのページ。確かに夏の終わりに相応しい一品だ。
「じゃあ、材料確認してみよう」
俺たちは冷蔵庫を開け、必要な材料をチェックしていく。レモンはあるが、生クリームが足りない。
「近くのコンビニで買ってこようか」
「うん!一緒に行こ!」
小春は嬉しそうに頷き、サンダルを履く。俺も財布とスマホを手に取り、玄関へ向かう。
外に出ると、予想以上の暑さに息が詰まる。八月最後とはいえ、まだ夏の威力は健在だ。道路からは照り返しの熱が立ち上り、アスファルトが揺らめいて見える。
「あっつ〜い」
小春は額の汗を拭いながら、歩道の日陰を選んで歩いていく。俺も彼女の後に続く。
コンビニまでの道すがら、夏の終わりを告げる風景が広がっている。庭先では朝顔の花が少し疲れたように咲き、電線には燕が数羽止まり、何かを囀っている。
「あ、セミ」
小春が指差した先には、アスファルトの上でひっくり返ったセミがいた。もう動く気力もないのか、か細く羽をばたつかせている。
「可哀想に…」
小春は屈み込み、そっと指先でセミを起こしてやる。セミは弱々しく羽音を立てたかと思うと、近くの電柱へ向かって飛んでいった。
「助かったね」
小春の呟きに、何も言わず頷く。セミの命も、夏休みも、全てに終わりがある。そんな当たり前のことを、急に実感した瞬間だった。
コンビニに着くと、冷気が心地よく肌を撫でる。小春は迷わず冷蔵コーナーへ向かい、生クリームを手に取った。
「あと何か欲しいものある?」
「うーん…」
小春はアイスクリームの棚の前で立ち止まる。目が迷子になっている。
「夏休み最後だし、これも買っちゃお!」
彼女が手に取ったのは、期間限定の塩レモンアイス。確かに今日の暑さなら、ケーキ作りの前に冷たいものが欲しくなる。
「じゃあ俺も」
隣に並ぶミント味を選び、レジへ向かう。会計を済ませ、再び暑い外気の中へ。
「早く食べないと溶けちゃう」
小春は袋から自分のアイスを取り出し、パッケージを開ける。一口舐めると、満足げな表情を浮かべた。
「美味しい!お兄ちゃんも早く食べなよ」
促されるまま、俺もアイスを開封する。ミントの清涼感が、喉の奥まで心地よく広がっていく。
「夏休みが終わるのは寂しいけど、楽しかったな」
小春の言葉に、俺も同意する。
「ああ。色々あったけど、良い夏だった」
帰り道、二人で並んでアイスを食べながら歩く姿が、木々の間から漏れる日差しで地面に映る。少し長く伸びた影が、夏の終わりを静かに告げている。
家に戻ると、小春は早速エプロンを身につけ、レシピ本を開いた。俺も手を洗い、キッチンに立つ。
「じゃあ、俺がボウルと計量カップ出すから、小春は卵を割っておいてくれ」
「了解!」
キッチンに二人で立つと、自然と息が合う。何度か一緒にお菓子を作ってきたからだろう。バターを湯煎にかけている間に、小春は卵を丁寧に割っていく。
「あ、殻が入っちゃった」
小春が困った顔をしている。俺は彼女の横に立ち、スプーンで器用に殻を取り除く。
「ほら、こうやるといいぞ」
「さすがお兄ちゃん!」
小春の素直な称賛に、少しだけ胸が温かくなる。
バターと砂糖をハンドミキサーで混ぜ、卵を加えて、さらに小麦粉を振るい入れる。レモンの皮をすりおろし、果汁を絞る。酸っぱい香りが台所いっぱいに広がる。
「いい匂い」
小春は目を細めて、レモンの香りを楽しんでいる。その表情があまりにも満足げで、思わず見入ってしまう。
「何?なんか変なとこある?」
俺の視線に気づいた小春が、頬に手をやる。
「ん?いや、なんでもない」
慌てて視線をそらし、生地を型に流し込む作業に集中する。
オーブンに入れて、タイマーをセット。あとは焼き上がるのを待つだけだ。
「片付けしよっか」
小春は使った器具を洗い始める。俺も横に立ち、拭き取り係を務める。狭いキッチンで二人で立っていると、時折肘や肩がぶつかる。それでも、不思議と居心地が悪くない。
「あ、お兄ちゃん、ほっぺに粉がついてる」
小春が指摘し、俺が手で払おうとした瞬間、彼女の指先が頬に触れた。
「取れた?」
「うん、もう大丈夫」
彼女はくすくすと笑い、また洗い物に戻る。その仕草に、胸の奥がくすぐったくなる。
オーブンから甘い香りが漂い始める頃、俺たちは片付けを終えていた。小春はソファに腰掛け、宿題のプリントを再び手に取る。
「さっきの続き、やっておかなきゃ」
その真面目な姿勢に、少し驚く。いつの間にか、彼女も責任感を持つようになっていた。
「手伝おうか?」
「大丈夫!お兄ちゃんが教えてくれたやり方でやってみる」
小春は鉛筆を握り、真剣な表情で問題に取り組み始める。俺はそっと彼女の横に座り、自分の参考書を開く。二人で黙々と勉強する時間が流れていく。
時折、小春が考え込む姿が視界に入る。眉間にしわを寄せ、鉛筆を転がす仕草は、どこか愛おしい。
「あっ!」
突然の小春の声に、顔を上げる。
「どうした?」
「わかった!この問題、さっきお兄ちゃんが教えてくれた方法でとけた!」
彼女の顔には、達成感に満ちた笑顔が広がっている。その表情があまりにも嬉しそうで、俺も自然と笑みがこぼれる。
「そうか、よかったな」
「うん!あと少しで終わりそう」
小春は再び問題に集中する。俺も自分の勉強に戻ろうとした時、オーブンのタイマーが鳴った。
「ケーキだ」
二人で立ち上がり、キッチンへ向かう。オーブンを開けると、レモンの香りと甘い匂いが一気に広がる。焼き色の綺麗なケーキが出来上がっていた。
「わぁ、上手くできた!」
小春は目を輝かせながら、熱々のケーキを見つめている。鼻先が少し赤くなるほど、近づいて香りを楽しんでいる。
「冷ましてからクリームをのせよう」
「うん!」
ケーキを冷ます間、俺たちは再び勉強に戻る。小春は集中力を高め、次々と問題を解いていく。その姿に、少し成長を感じる。
「終わった!」
小春が最後の問題を解き終えた瞬間、彼女は両手を上げて伸びをした。白いTシャツが少しだけめくれ上がり、俺は慌てて視線をそらす。
「お疲れ。これで明日から安心して学校行けるな」
「うん!お兄ちゃんのおかげ」
小春はにっこり笑って、プリントをファイルにしまい込む。
「ケーキ、もう冷めたかな?」
俺たちはキッチンへ戻り、ケーキに触れてみる。ちょうど良い温度になっていた。小春は生クリームを泡立て、俺はレモンの薄切りを作る。
「はい、どうぞ」
小春が泡立てたクリームをケーキの上に広げていく。その手つきは意外と器用だ。俺はレモンの薄切りをトッピングして、完成させる。
「写真撮っていい?」
小春はスマホを取り出し、完成したケーキを様々な角度から撮影する。その後、自撮りモードに切り替え、ケーキと一緒に俺も映るように位置を調整した。
「お兄ちゃんも一緒に!」
断る間もなく、小春は俺の隣に体を寄せる。シャッターを押す直前、彼女は「夏休み最後の思い出!」と言って笑った。その笑顔があまりにもくすぐるような、心地よいものだった。
ケーキを切り分け、リビングのテーブルに運ぶ。窓の外では、夕暮れが始まっていた。
「いただきます!」
小春が一口食べると、満足げな表情を浮かべる。
「美味しい!レモンの酸っぱさがちょうどいい!」
俺も一口食べてみる。確かに、甘さと酸味のバランスが絶妙だ。生クリームの滑らかさと、ケーキの軽い食感が口の中で溶けていく。
「うん、上手くできたな」
「お兄ちゃんと作ると、いつも上手くいくね」
何気ない小春の言葉に、少し照れくさくなる。窓から差し込む夕日の光が、彼女の横顔を優しく照らしている。
「明日から学校か…」
俺の呟きに、小春も少し物思いにふける表情になる。
「うん。でも、また放課後一緒に帰れるね」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなる。夏の終わりと秋の始まりを、同時に感じる瞬間だった。
外では、蝉の声が遠くなり、代わりに風の音が聞こえ始めている。季節は確実に変わりつつあるけれど、この瞬間だけは永遠に続いているような錯覚に陥る。
夏休み最後の夕暮れは、いつもより少しだけ長く、そして優しい色をしていた。
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