第17話 秋の遠足、手を伸ばして

朝の空気が肌を刺す。いつもより早く家を出て、駅のホームで電車を待つ。秋の遠足だ。学校からバスで移動する選択肢もあったが、美咲の学年は電車での移動になったらしい。俺が高一の時もそうだった。


「兄さん、おはよう」


後ろから呼ばれて振り返る。美咲が小走りで近づいてくる。いつもの制服姿ではなく、動きやすい私服に身を包んでいる。ネイビーのパーカーに白のTシャツ、デニムのショートパンツにレギンス。足元はスニーカーだ。


「おはよう。ちゃんと来たな」


「当たり前でしょ。約束したんだから」


美咲は少し息を切らしながら言う。昨日、同じ行先だと分かって待ち合わせの約束をした。美咲の学年は奥多摩方面の山歩きコース。俺たち高二は湖畔散策がメインだが、同じエリアだ。


「でも兄さん、早すぎない? まだ電車来るまで二十分もあるよ」


「お前こそ早いじゃないか」


「私は…兄さんに迷惑かけないように早めに来ただけ」


言いながら視線を逸らす。まだ少し暗い駅のホームで、美咲の横顔が朝日に照らされている。


「そうか」


それ以上は何も言わず、並んで電車を待つ。朝の駅は意外と静かで、時々通過する電車の音だけが響く。


「兄さん、お弁当持ってる?」


「ああ。コンビニで買ったけど」


「え? 作ってないの?」


美咲が目を丸くする。


「今日は早かったから、時間なくて」


「…私のでよかったら、分けてあげるよ」


小さな声で言う美咲に、少し驚く。


「お前が作ったのか?」


「うん。昨日の夜に。別に兄さんのために作ったわけじゃないけど…」


言いながら、カバンを抱え直す仕草が妙に気になる。


「…ありがとな」


電車が到着する音が、それ以上の言葉を遮った。


---


山道を歩く。紅葉が始まった木々の間から朝の光が差し込み、道を金色に染めている。美咲の学年と俺たちの学年は、最初こそバラバラに行動していたが、同じコースの一部を共有することになった。


「ねえ兄さん、あの赤い葉っぱ、きれいじゃない?」


美咲が指さす方向に顔を向ける。確かに鮮やかな赤い葉が、他の葉より一足早く色づいている。


「ああ、なかなか」


「なかなかって、もっと感動しなよ」


美咲が頬を膨らませる。その横顔から視線を外せず、足元の石ころに躓きそうになる。


「気をつけてよ。転んだら私まで恥ずかしいんだから」


「わかってるって」


足元の悪い道を、少し距離を置いて並んで歩く。時々すれ違うハイカーたちも、秋の山の空気を楽しんでいるようだ。


「美咲、大丈夫か? 疲れてないか?」


「平気よ。兄さんこそ、足引きずってない?」


「おいおい、俺は運動部だぞ」


「昔はね」


からかうような笑みを浮かべる美咲に、言い返せない。確かに今は同好会で、本格的な運動はしていない。


山道が少し開けた場所に出る。展望スペースだ。クラスメイトたちが三々五々、写真を撮ったり景色を眺めたりしている。美咲のクラスメイトも同じように景色を楽しんでいる。


「わあ、きれい…」


美咲の声に、つられて景色を見る。山々が連なり、その間に雲が流れていく。遠くの山はうっすらと霞んで、近くの木々は色づき始めている。


「兄さん、あっち行こう」


人が少ない展望スペースの端を指さす美咲に従って歩く。風が吹き、木々の葉が擦れ合う音と共に、どこか懐かしい香りが漂ってくる。


「この匂い、なんだろう」


「紅葉の匂いじゃない?」


美咲が言う。


「紅葉に匂いなんてあるか?」


「あるよ。落ち葉の匂いっていうか…ほら、子どもの頃、公園で落ち葉集めたでしょ? あの匂い」


言われて思い出す。確かに子どもの頃、美咲と一緒に近所の公園で落ち葉を集めて遊んだ。あの頃は、今のように気恥ずかしさもなかった。


「…覚えてるよ」


言葉に詰まりながら答える。美咲は柵に手をかけて、遠くを見ている。風に髪が揺れ、その輪郭が眩しい。


「兄さん、写真撮って」


「え?」


「ほら、背景きれいだから。記念に」


スマホを差し出す美咲に、思わず手を伸ばす。指が触れた瞬間、小さな震えが走る。気のせいだろうか、美咲の指先も少し震えていた気がする。


「じゃあ、そこに立って」


柵の前に立つ美咲を、スマホのカメラに収める。笑顔を作ろうとしている表情が、どこか緊張しているように見える。


「はい、チーズ」


シャッター音が鳴る。画面を確認すると、美咲の笑顔と背景の山々がきれいに収まっていた。


「見せて」


美咲が近づいてくる。肩が触れるほどの距離で、一緒に画面を覗き込む。シャンプーの香りと、かすかな汗の匂いが混ざり合う。


「うん、いい感じ。ありがと」


スマホを受け取る時、また指が触れる。今度は俺の方が、指先が震えるのを感じた。


---


昼食の時間になり、クラスごとに分かれることになった。美咲とは別行動だ。


「じゃあ、また後でね」


そう言って手を振る美咲に、なぜか言葉が出てこない。ただ頷くだけで精一杯だった。


クラスメイトたちと広場に集まり、思い思いの場所で弁当を広げる。俺はコンビニで買ったおにぎりとサンドイッチを取り出す。


「篠原、それだけかよ」


友人の一人が言う。


「ああ、朝早かったからな」


「かわいそうに。俺のおかず分けてやるよ」


「いや、大丈夫だ」


そう言いながら、美咲が分けてくれると言っていたことを思い出す。でも、どうやって合流すればいいのだろう。


弁当を食べ終え、水筒のお茶を飲んでいると、スマホが震える。メッセージだ。


『兄さん、どこ?』


美咲からだ。返信しようとしたその時。


「あ、篠原の妹じゃん」


クラスメイトの一人が指さす方向に、美咲が立っている。周りを見回しているようだ。


「おーい、美咲」


別のクラスメイトが手を振る。美咲はこちらに気づくと、少し躊躇うような素振りを見せてから、ゆっくりと近づいてくる。


「あの…兄さん」


「どうした?」


立ち上がって尋ねる。美咲は小さな風呂敷包みを持っている。


「これ、お弁当。さっき言ったじゃん…分けるって」


周りのクラスメイトたちの視線が痛い。からかうような笑い声も聞こえる。


「ありがとう。でも、もう食べたんだ」


「え…」


落胆した表情を見せる美咲に、胸が締め付けられる。


「でも、まだ少し腹減ってるかな」


言い訳のような言葉を口にする。美咲の表情が少し明るくなる。


「じゃあ…」


「ちょっと離れたところで食べようか」


クラスメイトたちの視線から逃れるように、少し離れた木陰へと歩き出す。美咲もそれに従う。


木漏れ日の下、二人で腰を下ろす。美咲が風呂敷を広げると、二段のお弁当箱が現れる。


「上の段だけでいいから」


そう言って差し出す美咲の手が、少し震えている。


「ありがとう」


お弁当箱を受け取り、蓋を開ける。きれいに詰められたおかずが並んでいる。卵焼き、唐揚げ、ミニトマト、ブロッコリー。


「すごいな、上手に作ったじゃないか」


「べ、別に…料理研究部だし、当たり前でしょ」


誇らしげな表情と恥ずかしそうな表情が入り混じる。


一口食べると、ちょうど良い味付けだ。


「うまい」


「ほんと?」


不安そうに尋ねる美咲に、頷いて応える。


「ああ、マジでうまい」


「そう…よかった」


安心したように息をつく美咲を見ながら、もう一口。


「でも、なんでわざわざ持ってきたんだ?」


「だって…」


言葉を選ぶように、少し間を置く。


「兄さん、朝ごはんもろくに食べずに出てきたでしょ。コンビニのおにぎりだけじゃ足りないと思って…」


「心配してくれたのか?」


「べ、別に!ただ…」


言葉に詰まる美咲の横顔を見つめる。頬が少し赤い。紅葉のような色だ。


「ただ?」


「…せっかく作ったから、食べてほしかっただけ」


小さな声で言う美咲に、胸の奥が熱くなる。


「そうか…ありがとう」


二人で黙って食べる時間が流れる。時々、木の葉が風に揺れて、二人の影が重なる。その度に、なぜか息が詰まるような感覚がある。


「兄さん、口元…」


美咲が指さす。口の端に何かついているらしい。


「どこ?」


「もう、じっとして」


美咲がハンカチを取り出し、俺の口元に近づける。その手が震えているのが分かる。俺も何故か息を止めている。


ハンカチが口元に触れる瞬間、二人の影がまた重なる。時間が止まったような感覚。


「…取れた」


美咲が小さく言う。その顔が、やけに近い。


「あ、ありがとう」


慌てて身を引く。心臓の鼓動が早い。美咲も顔を赤くして、視線を外している。


「そろそろ、戻らないと」


「そうだね…」


お弁当箱を片付け、立ち上がる。並んで歩き出す二人の間に、言葉にならない何かが流れている。


---


帰りの電車の中、疲れて眠る美咲の姿を横目に見る。肩が触れるほどの距離で座っている。車窓から見える景色は、行きと同じなのに何か違って見える。


美咲の頭が俺の肩に触れる。寝ぼけているのか、意識的なのか分からないが、そのまま動かない。


窓に映る二人の姿を見つめる。影が重なっている。今日一日、何度も感じた胸の高鳴り。手を伸ばせば届く距離にいるのに、何か見えない壁があるような。


揺れる電車の中、美咲の寝息を聞きながら、俺は窓の外を流れる景色に目を向ける。紅葉し始めた木々が、夕日に照らされて赤く輝いている。


もう少しだけ、このままでいたい。そう思いながら、俺は美咲の方へ、ほんの少しだけ身を寄せた。指先が震える。でも、今は動かさない。


この距離を、この感覚を、もう少しだけ味わっていたい。

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