第10話 文化祭準備と秘密
秋の陽が西に傾き始める頃、教室の窓から差し込む光は少しずつ色を変える。放課後の高校は、文化祭準備で熱気に包まれていた。
「悠真くん、こっちの板を持っていてくれる?」
玲奈さんの声に顔を上げると、彼女は大きな木の板を両手で支えていた。髪を一つに結い上げ、いつもの制服ではなく、動きやすい体操着に着替えている。
「あ、ごめん。そっちだったか」
急いで駆け寄り、板の反対側を持つ。クラスの出し物は「不思議の国のお茶会」。アリスをモチーフにした喫茶店だ。俺たちは大道具担当で、入口のアーチを作っていた。
「これで最後の部品だね。組み立てたら今日は終わりにしましょう」
玲奈さんの言葉に頷きながら、板を床に下ろす。教室の隅に設けられた作業スペースには、すでに半分ほど組み上がったアーチが置かれている。クラスメイトたちは別の作業に取り掛かっているため、この場所には俺たち二人だけだった。
「じゃあ、ここを支えていてくれる?」
悠真くん
玲奈さんが指さした場所に回り込み、アーチの骨組みを支える。彼女はドライバーを手に持ち、手際よくネジを締めていく。
「玲奈さん、こういうの慣れてるんだな」
「うん、中学の時も文化祭の準備はよく手伝ったから」
彼女の指先は細いのに、力強く道具を扱う。ドライバーを回す手首の動きに見とれていると、ふいに視線が合った。
「あ、ごめん。じっと見て」
「いいよ。むしろ見ていてくれると、頑張れるから」
そう言って微笑む玲奈さんの額には、小さな汗の粒が光っていた。窓際から差し込む夕日に照らされて、その汗が琥珀色に輝いている。
「暑いよね。窓、開けようか?」
「ありがとう」
窓を開けると、運動場から部活動の声が聞こえてきた。秋の風が教室に入り込んでくる。
作業を再開して十分ほど経った頃だろうか。玲奈さんがドライバーを置き、額の汗を拭った。
「少し休憩しようか。水、持ってきたんだけど」
彼女がバッグから取り出した水筒を二つ、俺に一つ差し出す。
「ありがとう。準備いいな」
「当番だから、準備くらいはしないと」
水を飲みながら、完成しかけのアーチを眺める。思ったより形になってきた。
「でも、まさか玲奈さんと二人きりで作業することになるとは思わなかった」
言葉にした瞬間、少し言い方が違ったかもと気づく。まるで二人きりを望んでいたみたいに聞こえる。
「あ、いや、その…みんなが他の作業に行っちゃって、って意味で」
「わかってるよ」
玲奈さんは小さく笑った。その笑顔に、何だか胸が締め付けられる。
「実は私も、悠真くんと一緒に作業できて良かったと思ってたの」
「え?」
「他の人だと、こういう細かい作業、なかなか合わせづらいから」
「あ、そういうことか」
少しだけ期待していた自分が恥ずかしくなる。当然、作業の相性の話だ。
「それに…」
玲奈さんは言葉を途中で切った。何か言いかけて、やめたような表情。
「それに?」
「ううん、なんでもない」
彼女は立ち上がり、再びドライバーを手に取る。
「さ、続きをしよう。あと少しで終わりそう」
---
作業を再開して十分ほど経った頃、アーチの形が見えてきた。
「ここのネジ、締めづらいな…」
「待って、私がやるよ」
玲奈さんが近づいてきて、俺の隣に並ぶ。狭い場所で二人で作業するため、肩と肩がほんの少し触れ合う。
「すみません、少し…」
彼女がドライバーを差し入れようとして、体を傾ける。その瞬間、彼女の髪から微かな香りが漂ってきた。シャンプーの香りだろうか。甘すぎず、清潔感のある香り。
「あ、ごめん」
無意識に深呼吸をしていたことに気づき、慌てて身を引く。玲奈さんは特に気にした様子もなく、集中して作業を続けている。
「悠真くん、ここを押さえていてくれる?」
「ああ」
指示された場所に手を伸ばす。ほぼ同時に、玲奈さんも同じ場所に手を伸ばした。指先がふと触れ合う。
「あ…」
二人同時に小さく声を上げた。触れた場所から、不思議な温かさが広がる。
「ごめん」
「ごめんなさい」
同時に謝り、またお互いを見つめ合う。玲奈さんの頬が、わずかに赤くなっていた。教室に流れる空気が、ほんの少しだけ変わった気がする。
「…悠真くんの手、大きいんだね」
彼女が小さな声でそう言った。普段の玲奈さんなら決して言わないような言葉。
「そ、そう?普通だと思うけど」
「ううん、大きい。安心する」
彼女は自分の言葉に驚いたように、少し目を見開いた。そして急いで視線を逸らし、再び作業に戻る。
その後しばらく、妙な沈黙が続いた。ただネジを締め、木を組み合わせるだけの単純な作業なのに、なぜか緊張感が漂う。玲奈さんの呼吸が、いつもより少し速いような気がした。
「そろそろ、完成かな」
最後のネジを締め終えると、玲奈さんがそう呟いた。二人で完成したアーチを見上げる。
「うん、いい感じだ」
「そうだね。これで明日は塗装に入れるね」
作業を終えた達成感と、何とも言えない気まずさが混ざり合う。玲奈さんは道具を片付け始めた。俺も黙って手伝う。
「あの、悠真くん」
道具箱を閉じながら、玲奈さんが声をかけてきた。
「なに?」
「今日は…ありがとう」
「いや、俺こそ。玲奈さんがほとんどやってくれたようなもんだし」
「そんなことないよ。二人でやったから、こんなに上手くいったんだと思う」
彼女の言葉に、何だか胸が熱くなる。
「それと…さっきのこと」
「さっき?」
「指が触れ合った時…」
玲奈さんは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「なんでもない。忘れて」
そう言って、彼女は小さく首を振った。
「帰ろうか。もう暗くなってきたし」
窓の外を見ると、確かに日が落ち始めていた。部活動の声も遠のき、校舎が静かになりつつある。
---
下駄箱の前で靴を履き替えながら、今日一日を振り返る。普段は他のクラスメイトも一緒なのに、今日は偶然二人きりになった。
「悠真くん、明日も準備あるけど、来れる?」
玲奈さんが聞いてくる。
「ああ、もちろん。明日は何時から?」
「昼から。午前中は三年生は進路相談があるから」
「そっか、玲奈さんはもう進路相談か」
なんとなく現実味を帯びてきた。玲奈さんはもうすぐ卒業する。当たり前のことなのに、今日はなぜか特別に意識してしまう。
「うん…まだ決めきれてないんだけどね」
珍しく弱気な言葉。いつも何事にも自信満々な玲奈さんらしくない。
「玲奈さんなら、どこでも行けるんじゃないか?成績いいし」
「そうかな…」
彼女は少し俯いた。夕暮れに染まる校舎の影が、二人の間に落ちている。
「実は…家からあまり遠くに行きたくないって思ってるの」
「え?」
予想外の言葉に、靴を履く手が止まる。
「なんで?」
「理由は…言えないけど」
玲奈さんは視線を逸らし、自分の靴紐を結び直す素振りをした。何か隠している。それは明らかだった。
「家のこと?それとも…」
「ごめん、今は話せないの」
彼女の声には、珍しく強い拒絶の色が混じっていた。
「わかった。無理に聞かないよ」
少し気まずい空気が流れる。帰り道、いつものように一緒に歩くのも気が引けた。
「じゃあ、俺先に帰るわ。明日の準備もあるし」
「え?」
玲奈さんが少し驚いたように顔を上げる。
「一緒に帰らないの?」
「いや、その…なんか迷惑かなって」
「迷惑なわけないじゃない。むしろ…」
彼女は言葉を途中で切った。
「むしろ?」
「…一緒に帰りたい」
小さな声だった。でも、確かにそう聞こえた。
「そっか…じゃあ、一緒に帰ろう」
学校の門を出て、いつもの道を歩き始める。夕暮れの街並みは、オレンジ色に染まっていた。二人の間には、いつもより少し近い距離感がある。それでいて、何か言いづらい雰囲気も漂っていた。
「あの、さっきは変なこと聞いてごめん」
「ううん、私こそごめんね。急に言い出して」
「玲奈さんの進路のこと、応援するよ。どんな選択でも」
彼女は少し顔を上げ、微笑んだ。その表情には、少し安堵の色が見えた。
「ありがとう」
しばらく黙って歩く。街灯が一つ、また一つと灯り始める頃、玲奈さんが立ち止まった。
「実は…」
「うん?」
「文化祭が終わったら、話したいことがあるの」
真剣な眼差しで、まっすぐ俺を見つめる。
「俺に?」
「うん、悠真くんにだけ」
その言葉に、胸の鼓動が速くなる。
「わかった。いつでも聞くよ」
「約束だよ」
玲奈さんは小指を立てた。子供っぽいジェスチャーに、思わず笑みがこぼれる。
「約束」
小指と小指を絡ませる。指先から伝わる彼女の体温。さっきのように、不思議な温かさが広がった。
「じゃあ、また明日」
分かれ道で彼女が手を振る。その背中を見送りながら、頭の中は疑問でいっぱいになる。玲奈さんが話したいこと。家から離れたくない理由。そして、今日感じた不思議な空気の変化。
全てが繋がっているような、そんな予感がした。
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