第11話 浴衣と手のひら

「ねぇ、悠真くん。どう?」


玲奈さんの声に顔を上げると、そこには見慣れない姿の彼女が立っていた。淡い水色の浴衣に身を包み、普段下ろしている髪を緩く結い上げている。藍色の帯が白い肌に映えて、まるで夏の夜空に浮かぶ星のようだ。


「あ、その…」


言葉が詰まる。いつもの制服姿とは違う玲奈さんに、どう反応すればいいのか分からない。目が合うと、思わず視線を逸らしてしまう。


「変…かな?」


少し俯いた玲奈さんの声には、珍しく迷いが混じっていた。


「ち、違います!すごく、その…似合ってます」


慌てて否定する。胸の内側がざわつき、自分の声が上ずっているのが分かる。玲奈さんは小さく息を吐くと、ほんの少し肩の力を抜いた。


「ありがとう。実は、これ、かなり久しぶりで…」


そう言いながら、浴衣の裾を少し持ち上げる仕草が、どこか初々しい。いつもの凛とした姿からは想像できない、どこか幼さの残る表情に、胸の奥が熱くなる。


「でも、本当に似合ってますよ」


今度は真っ直ぐに見つめて言った。玲奈さんの頬が、ほんのりと桜色に染まる。


「そう言ってもらえると、着てよかった」


微笑む彼女の横顔を見ながら、俺たちは夏祭りの会場へと歩き始めた。


祭りの入口には、赤い提灯が連なっている。夕暮れの空に浮かぶそれらは、まるで道標のように俺たちを誘っていた。人の波に揉まれながら、祭りの熱気が肌に纏わりついてくる。


「わぁ…」


玲奈さんの声に、思わず横を見る。彼女の瞳に祭りの灯りが映り込み、きらきらと揺れていた。普段は冷静な彼女が、子どもみたいに目を輝かせている。


「玲奈さん、祭り好きなんですか?」


「うん。小さい頃から好きだった。でも、高校に入ってからはなかなか行けなくて…」


そう言いながら彼女は、祭りの喧騒を見渡している。浴衣姿の彼女は、いつもの学校での姿とは違う柔らかさを纏っていた。


「じゃあ、今日は思いっきり楽しみましょう」


自分でも意外なほど自然に言葉が出てきた。玲奈さんは少し驚いたような顔をしたあと、小さく頷いた。


「うん、そうしよう」


祭りの通りを歩きながら、俺たちは様々な屋台を覗いていく。金魚すくいの前では、子供たちが歓声を上げている。たこ焼きの屋台からは、生地が焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。


「あ、りんご飴…」


玲奈さんが小さく呟いた。視線の先には、真っ赤なりんご飴を並べた屋台がある。


「食べたいですか?」


「え?いや、別に…」


言葉とは裏腹に、彼女の目はりんご飴から離れない。


「買ってきます」


そう言って、俺は屋台に向かった。戻ってくると、玲奈さんは少し恥ずかしそうに俺が持つりんご飴を見つめている。


「どうぞ」


「ありがとう…」


りんご飴を受け取る彼女の指先が、一瞬だけ俺の手に触れた。その一瞬の接触に、心臓が大きく跳ねる。


玲奈さんがりんご飴に小さく噛みつく姿は、どこか幼く見えた。真っ赤な飴の表面に歯形がつき、その隙間から甘い香りが漂う。


「美味しい…」


彼女の笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。いつもの学校での姿からは想像できないような、素直な表情。それを見られるのは、今この瞬間だけかもしれない。


「悠真くんも、食べる?」


突然差し出されたりんご飴に、一瞬戸惑う。


「え、あ、いや…」


「ほら」


断りきれずに、彼女が持つりんご飴に口をつける。甘さが口いっぱいに広がる。


「どう?」


「甘い…です」


他に言葉が見つからない。玲奈さんが小さく笑う。その笑顔を見ていると、りんご飴よりも甘いものが胸の中に広がっていくような気がした。


祭りの通りをさらに進むと、人の波はより密になっていく。肩と肩がぶつかるほどの人混みの中、ふと玲奈さんの姿が見えなくなった。


「玲奈さん?」


振り返ると、少し離れたところで立ち止まっている彼女の姿が見えた。人の流れに押されて、どんどん距離が開いていく。


「待ってください!」


人混みをかき分けて戻ろうとするが、祭りの人波は想像以上に強い。このままでは完全にはぐれてしまう。


「玲奈さん!」


彼女も俺を見つけ、手を伸ばしている。その指先に向かって、俺は必死に腕を伸ばした。


指先が触れ合い、そして—


「危ないところだった…」


やっと手を繋ぎ合えた安堵から、思わず言葉が漏れる。玲奈さんの手のひらは、少し汗ばんでいて温かい。


「ごめんなさい、人が多くて…」


彼女の声には、少し動揺が混じっていた。手を繋いだまま、俺たちは人混みの中に佇んでいる。


「このままにしておきましょうか」


「え?」


「手…はぐれないように」


自分でも驚くほど自然に言葉が出た。玲奈さんは一瞬目を丸くしたあと、小さく頷いた。


「うん…そうしよう」


彼女の指が、俺の手の中で少し力を入れる。その感触に、心臓が早鐘を打ち始めた。


手を繋いだまま歩き始める。玲奈さんの浴衣からは、かすかに桜の香りがする。それは彼女の普段の香りとも少し違って、どこか特別な夜の匂いだった。


「あ、射的…」


玲奈さんが立ち止まった先には、射的の屋台がある。


「やってみますか?」


「いいの?」


「もちろん」


射的の店主から銃を受け取り、的を狙う。最初の数発は外れてしまったが、最後の一発が見事に当たった。


「おめでとう!何にする?」


店主が景品棚を指さす。そこには様々なぬいぐるみや小物が並んでいる。


「玲奈さん、選んでください」


「え?でも、悠真くんが当てたんだから…」


「いいんです。どうぞ」


少し躊躇った後、玲奈さんは小さな風鈴を指さした。透明なガラスに描かれた朝顔の模様が、灯りに照らされてきらきらと輝いている。


「これ、いいな…」


「はい、どうぞ」


店主から風鈴を受け取る玲奈さん。その手に風鈴を握りしめる姿が、なぜか胸に刺さる。


「ありがとう、大切にするね」


彼女の言葉に、頬が熱くなる。そんな俺の様子に気づいたのか、玲奈さんも少し赤くなって視線を逸らした。


「もうすぐ花火が始まるみたいですよ」


周囲の人々が、少しずつ川の方向へ移動し始めている。


「見に行きましょう」


再び手を繋ぎ、俺たちは人の流れに従って川辺へと向かった。手のひらと手のひらの間には、じんわりと汗が滲んでいる。それが恥ずかしくて手を離そうとすると、玲奈さんの指がきゅっと力を込めた。


「迷子になったら困るから…」


そう言いながら、彼女は真っ直ぐ前を見つめている。その横顔を見ていると、胸の中で何かが静かに震えるような感覚がある。


川辺に着くと、既に多くの人が場所を取っていた。


「あそこ、空いてますね」


少し離れた場所に、小さな空きスペースを見つける。そこに辿り着くと、ちょうど花火が始まるアナウンスが聞こえてきた。


「間に合ったね」


玲奈さんの声には、どこか安堵が混じっている。手を繋いだまま、俺たちは夜空を見上げた。


最初の花火が打ち上がる。大きな音と共に、夜空に光の花が咲く。青や赤、緑や紫。様々な色が闇を切り裂いていく。


「きれい…」


玲奈さんの呟きが、花火の音に紛れて聞こえてくる。彼女の顔は花火の光に照らされ、その瞳には夜空の彩りが映り込んでいる。


花火の光が照らす彼女の横顔を、俺はずっと見ていた。普段の冷静さとは違う、純粋な感動に満ちた表情。それは、学校では決して見ることのできない玲奈さんの一面だった。


「悠真くん?」


ふと気づいたように、彼女が俺を見る。花火の明かりに照らされた彼女の目が、まっすぐに俺を捉えていた。


「あ、すみません…」


「何を謝るの?」


「いや、その…」


言葉に詰まる。花火の音が、俺の心臓の鼓動のように響いている。


「悠真くん、ありがとう」


突然の言葉に、息が止まりそうになる。


「今日、連れてきてくれて。すごく…楽しい」


花火の光に照らされた玲奈さんの顔が、どこか儚く見える。その表情に、言葉を失う。


「俺こそ…」


何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。ただ、この瞬間を永遠に残しておきたいという気持ちだけが、胸の中で大きくなっていく。


「また、来よう」


花火の音に紛れるように、彼女がそう言った。


「来年も、その次も…」


その言葉に、胸の奥が熱くなる。まるで約束のような、その言葉。


「はい」


それ以上の言葉は見つからなかった。ただ、繋いだ手に少し力を込める。玲奈さんも同じように、俺の手を握り返してくれた。


花火は次々と夜空を彩り、その光は俺たちの間に落ちる影を作ったり消したりしていた。浴衣の袖から覗く彼女の腕に、花火の色が映る。赤、青、緑、紫。様々な色が、彼女の白い肌の上で踊っている。


「悠真くん…」


花火の音に紛れて、彼女の声が聞こえた気がした。振り向くと、玲奈さんは夜空ではなく、俺の方を見ていた。


「なんですか?」


「いや…なんでもない」


そう言って、彼女は再び夜空を見上げた。その横顔には、どこか切なげな表情が浮かんでいる。言いかけて止めた言葉が、俺たちの間に漂っているような気がした。


最後の大きな花火が夜空を埋め尽くす。その光が消えると、周囲から大きな拍手が沸き起こった。花火大会は終わり、人々は帰路につき始める。


「帰りましょうか」


玲奈さんの声に、現実に引き戻される感覚。この特別な時間が終わってしまうことへの名残惜しさが、胸の奥に広がる。


「はい…」


手を繋いだまま、俺たちは人の流れに逆らうように、ゆっくりと歩き始めた。祭りの灯りは徐々に消えていき、道はだんだん暗くなっていく。


「今日は、本当に楽しかった」


人通りの少なくなった道で、玲奈さんが静かに言った。


「俺も、です」


その言葉だけでは足りないのに、それ以上の言葉が見つからない。


「来年も…」


「はい、絶対」


約束をするように、俺たちは再び手に力を込めた。浴衣の袖から伸びる彼女の手は、俺の手の中で温かい。その温もりが、夏の終わりを告げるように、どこか切なく感じられた。


街灯の光が、俺たちの長い影を道に落としている。二つの影は繋がって、一つの大きな影のように見えた。玲奈さんの浴衣からは、まだかすかに桜の香りがする。その香りを胸いっぱいに吸い込みながら、俺は彼女の横顔をそっと見つめた。


この夜の記憶は、きっといつまでも色あせることはないだろう。花火の光、浴衣の香り、そして何より—繋いだ手のひらの温もりを、俺は永遠に忘れないだろう。

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