第9話 すれ違いとすれ違い

「聞いてるの?」


美咲の声が耳に届いた瞬間、我に返る。教科書に目を落としたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。日曜日の午後、リビングのテーブルで勉強を教えるはずが、いつの間にか思考が別の場所へ飛んでいた。


「ああ、悪い。ちょっと考え事してた」


「もう、全然聞いてないじゃん」


美咲は鉛筆を机に置き、肩をすくめる。髪を耳にかける仕草に、少しだけ苛立ちが混じっている。


「数学の問題、どうやって解くか説明してたのに」


「すまん。もう一回言ってみてくれ」


美咲は一瞬、唇を噛む。その表情に、単なる勉強の話以上の何かがあることを感じ取る。


「いいよ、自分でやる」


教科書とノートを勢いよく閉じ、美咲は立ち上がった。足音を荒げて自分の部屋へ向かう後ろ姿に、言いようのない違和感を覚える。


「おい、美咲」


振り返らない。廊下の向こうで、ドアが閉まる音が響いた。


窓の外では、春の陽射しが庭の草木を照らしている。昨日まで降り続いていた雨が上がり、久しぶりの晴れ間だというのに。テーブルに残された美咲のノートを見ると、きれいな字で数式が並んでいる。途中まで解いた問題の続きが、中断されたように途切れていた。


「なんだよ…」


思わず呟く声が、空っぽのリビングに吸い込まれていく。


---


夕食の準備をしながら、美咲のことを考える。昼過ぎからずっと部屋に閉じこもったまま。いつもなら台所に顔を出して「何作ってるの?」と覗き込んでくるはずなのに、今日は物音一つしない。


玉ねぎを刻みながら、午後の出来事を反芻する。確かに勉強を教えている最中、少し気が散っていた。今週の模試の結果が思わしくなくて、それを考えていたんだ。でも、それを美咲に言い訳するほどのことでもない。


「ただいま〜」


玄関から母の声がする。買い物から帰ってきたようだ。


「おかえり」


「悠真、助かるわ。もう準備してくれてたのね」


母は買い物袋を置きながら、台所を見渡す。


「美咲は?」


「部屋にいる」


「珍しいね、いつもあなたが料理してると飛んでくるのに」


母の言葉に、胸が少し締め付けられる。


「ちょっと、勉強教えてる時にボーッとしてて」


「あら、喧嘩?」


「喧嘩っていうほどじゃないけど…」


玉ねぎを鍋に入れながら、言葉を濁す。母はクスリと笑い、肩をポンと叩いた。


「美咲を呼んできてくれる? 夕食の準備手伝ってもらいたいわ」


断る理由もなく、包丁を置いて廊下へ向かう。美咲の部屋の前で立ち止まり、ノックする。


「美咲、夕飯の準備するぞ」


返事がない。もう一度ノックするが、やはり応答はない。


「聞こえてるだろ。母さんが呼んでるぞ」


ドアの向こうで、わずかに布地が擦れる音がした。それでも返事はない。


「…入るぞ」


ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。


部屋の中、美咲はベッドの上で横になっていた。こちらを向いていない後ろ姿が、何かを主張しているようだ。窓から差し込む夕日の光が、彼女の輪郭を淡いオレンジ色に縁取っている。


「母さんが呼んでる。夕飯の準備」


「行かない」


短い言葉が返ってきた。その声に含まれる感情が、単なる怒りではないことを感じ取る。


「まだ怒ってるのか?」


「怒ってない」


明らかに矛盾した言葉と態度。美咲の背中だけが見えて、表情が読めない。窓の外では、鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。


「さっきは悪かった。集中力切れてた」


「別にいいよ。気にしてないから」


その言葉とは裏腹に、美咲の肩には力が入っている。ベッドの端に腰掛け、どうしようかと考える。強引に連れ出すのも、そのまま放っておくのも違うような気がして。


「なあ、本当はどうしたんだ?」


しばらくの沈黙。美咲はゆっくりと体を起こし、それでも顔は窓の方へ向けたまま。


「別に…何もない」


横顔だけが見える。まつげが夕日に照らされて、透き通るような茶色に見える。


「ほんとに?」


「ほんとに」


短い応答。でも、その声には何か隠されたものがある。美咲の頬が、わずかに赤みを帯びているように見えた。


「なんか、最近…」


美咲が言いかけて、言葉を切る。


「最近?」


「…何でもない」


再び沈黙が流れる。窓の外では、日が傾きかけている。時計の針だけが、静かに時を刻んでいく音。


「美咲、夕飯の準備するわよ〜」


廊下から母の声が響く。


「行かなきゃ」


立ち上がろうとする俺の袖を、美咲が掴んだ。振り向くと、まだこちらを見ていない。拗ねたような、何かを堪えているような横顔。


「…なに?」


「私ね」


言葉が続かない。美咲の指先が、袖をギュッと握りしめている。


「私、兄ちゃんに無視されてるみたいで…」


「無視なんてしてないぞ」


「してる」


きっぱりとした口調。初めて俺の方を向いた顔には、複雑な感情が浮かんでいた。


「最近、全然私の話聞いてないし。いつも考え事してるみたいだし」


そう言われて、はっとする。確かに最近、大学受験のことや将来のことで頭がいっぱいだった。美咲に話しかけられても上の空だったかもしれない。


「そうだったか…気づかなかった」


「だから…」


美咲は言葉を切り、視線を落とす。


「だからなに?」


「…なんでもない。もういいよ」


立ち上がろうとする美咲の手を、今度は俺が掴んだ。


「ちゃんと言えよ」


「別に…」


「美咲」


名前を呼ぶと、彼女はわずかに肩を震わせた。


「私のこと、邪魔だと思ってる?」


予想外の言葉に、言葉が出てこない。


「なんでそんなこと…」


「だって、いつも私が話しかけても上の空だし。勉強教えてって言っても、全然集中してないし」


美咲の声が少し震えている。


「邪魔なんて思ってないぞ」


「ほんと?」


「ああ」


そう答えながら、自分の態度を振り返る。確かに最近、自分のことで頭がいっぱいだった。美咲の気持ちを考える余裕がなかった。


「ごめん」


素直に謝ると、美咲の表情がわずかに和らいだ。


「兄ちゃん、何考えてるの?いつも」


「受験のこととか…将来のこととか」


「私には話してくれないの?」


その問いに、胸が締め付けられる。確かに、自分の悩みを美咲に話したことはなかった。妹に心配かけたくないという気持ちもあったけど、それが逆に彼女を遠ざけていたのかもしれない。


「話すよ…今度ちゃんと」


「約束?」


「ああ」


美咲の指先が、俺の手の中でわずかに動く。気づけば、お互いの手が重なっていた。彼女の手のひらは柔らかく、少し冷たい。


「二人とも、何してるの?夕飯の準備よ〜」


母の声が近づいてきて、ドアが開く。


「あら、仲直りできた?」


美咲は慌てて手を引っ込めようとするが、俺はそのまま握り続けた。


「まあね」


母は二人の様子を見て、微笑む。


「じゃあ、二人で準備手伝ってね」


ドアが閉まり、母の足音が遠ざかる。


「行こうか」


美咲はうなずき、ゆっくりと立ち上がった。それでも、手は離さない。


「兄ちゃん…」


「ん?」


「手、離してよ…」


美咲の頬が赤くなっている。でも、本当に離してほしいわけではないことが、その目を見れば分かる。


「嫌だ」


「もう…」


美咲は軽くため息をつきながらも、指先に力を入れて握り返してきた。手のひらから伝わる温もりが、言葉以上のものを語っている。


廊下を歩きながら、二人の間に流れる沈黙は、さっきまでとは違う質のものだった。緊張も怒りも消え、代わりに穏やかな空気が満ちている。


「兄ちゃん」


台所に向かう途中、美咲が小さな声で呼んだ。


「なに?」


「また勉強教えてね」


「ああ、今度はちゃんと集中して」


美咲はくすりと笑い、ようやく手を離した。でも、その温もりはまだ手のひらに残っている。


台所では、母が野菜を切っていた。美咲は手を洗い、エプロンを取る。いつもの日常が戻ってきた感覚。それでも、何かが少しだけ変わったような気がする。


夕食の準備をしながら、時々美咲と目が合う。そのたびに、彼女は小さく微笑む。すれ違いから生まれた、新しい何か。それが何なのか、まだ言葉にできないけれど、確かに二人の間に芽生えていた。


窓の外では、すっかり日が沈み、夜の気配が忍び寄っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る