第二十話 終点から終点へ 中編

「あれは事故、なんですよね」


 斎は手に持った刃物をちらつかせながら、ゆっくりと、わざとらしい足取りで横に移動する。


「その事故に巻き込まれた、先輩のお母さんも。お気の毒でしたね?」


 数歩進んで足を止める。

 かかとを軸にして半回転し、また同じ位置に戻っていく。

 くるくると回る切っ先は、常に俺の喉を狙っているように向けられていた。


「なんなんだよ! 俺か? 俺ならそう言え! 恋仲や凪、琴音は関係ない!」


 ほとんど理性なんて残っていなかった。恋仲が俺のシャツを強く握ってくれているから、それでギリギリ保っていられた。

 警察に連絡しようとする。想像以上に腕が震えていて、指の狙いが定まらない。


「だめですよ。誰かが来る前にもっと酷いことになっちゃいます」


 斎は自分のポケットからスマホを取り出し操作すると、画面を前に突き出した。


『お兄ちゃんは琴音を守ってくれるんだ! 琴音のお兄ちゃんを奪わないで! お前がお兄ちゃんを変にさせてる! 停学したのもお前のせいだ、琴音を見なくなったのもお前のせいだ、全部ぜんぶ、お前のせいだ!!』


 何かが動く様子と、大音量がここで起こった惨劇を克明に記録していた。

 良く見えなかったが、声を聞くだけで何が起こったか想像ができてしまう。

 生々しい――琴音の絶叫だった。


「あ……あぁ……!」


 乾いた悲鳴を上げ、琴音はその場に崩れ落ちる。

 動画はまだ止まらない。琴音の更なる絶叫の後、凪が恋仲の名前を呼び、何かがぶつかる音でようやく動画は止まった。


「変な気を起こしたらこの動画を晒します。そして、誰かが来る前に、このナイフで誰かを傷つけます。どうなるか分かりますよね? 先輩」


 不気味な笑みを浮かべる。

 ここからは私の番だと言わんばかりに、斎の銀玉のような目が光る。


 柊斎ひいらぎいつき

 記憶に封をして、存在を消し、絶対に思い出さないようにしていた名前。柊誠の娘。母の不倫相手の子供。

 小さい頃、狭い部屋の中、三人でゲームをして遊んでいた記憶が頭の中で勝手に流れる。俺が勝って琴音が笑って、斎が悔しそうに泣いていた。なんでこうなったのかは、当時の俺にはわからなかった。

 今だってわかりたくもない。きっと気持ちが悪い理由に決まっている。


 痛みがあったのか凪が声を上げた。目が合うと苦笑いを浮かべて、見なくていいと首を振る。


「うちのことはいいよ……それよりさ。ぜんきちなら、なんとかできるんでしょ……? うちはへーき。終わるまでは生きてるよ、あはは」


 明らかに辛そうな声を隠し、いつもの感じで強がって見せる凪。上書きするような斎の大きなため息が、会話することを遮断する。


「はあ……! まったくこの女は。いい場面だったのに、いきなり登場してきて庇ったんです。せっかく琴音が、お兄ちゃんを奪った女に恨みを晴らせるところだったのに」


 何度目かの往復の後、斎は泥のような髪を顔から剥がし、垂れ下がっていた腕のまま手首だけ動かし、切っ先を今度は凪に向けた。

 琴音はしゃがんだまま両耳を抑え、体を丸めながら震えている。


「でもまあ、いいです。私の目的はこの兄妹を裁くこと。それは変わりません。せっかくですから、そこの野次馬女も、口無し女も、ぜひ聞いていって下さい。この兄妹の罪。世界の代わりに、この私が真実を教えてあげます」


 シャツを握る恋仲の力が強くなった気がした。


「この男はヒトゴロシです。私の父は、この男の悪意でこの世を去りました。世間ではあろうことか事故として処理され、この兄妹はそれをいいことに、のうのうと逃げ、罪を負うことも償うこともなく、今の今まで過ごしてきました」


 ただ淡々と、何か音を発している。


「私は、父の喪失感が消えないまま、ただ生きようとして、日々を積み重ねてきました。でも、忘れられるわけがないんです。この苦しみを抱えたまま、私は中学時代を……辛い過去に苛まれながらも、叫ばず、静かに過ごしてきました」


 言葉を飲み込むように、斎は立ち止まり息を整えている。

 斎の独白を、俺はただ聞いていることしかできなかった。言葉を発するたび、俺にはモノクロの映像になって、昔の風景が目の前に流れている。


「この高校に入学した時、なんの巡り合わせか琴音と再会したのです。……琴音は私のことなんて、すっかり忘れていました。でもそれは当然かもしれません。だって、あの時からもう壊れていましたからね。でも、信じられますか? この男は、人の親を殺しておいて、笑顔で! 過ごしていたんです!」


 屋上の床一面は、黄色い点字ブロックで埋め尽くされていた。

 小学生の琴音が、俺の隣で涙を流している。


 三人で遊んでいるときは笑っていたのに、家に帰ると琴音は俺に泣きついてきた。 必死で訴えてきた――もう会いたくないと。

 でも、そんな子供の言葉は、「大丈夫だから」っていう大人の理不尽な都合で揉み消される。


 男と琴音は、二人だけで買い物とか出かけることが多くなった。何をしているかは知らないけど、家に帰ると、また琴音は俺に抱きついて泣くんだ。

 決まってこう言う。もう会いたくないと。

 でも、子供の俺には、「大丈夫だよ」って、言い続けてあげることくらいしかできなかった。


「私は一日だって忘れることはなかった! 笑えた日なんて一日もなかった。蔦森善吉と琴音! 赦されるはずがない! どうして私だけがこんなに苦しんでるの!? どうして私だけが不幸なの!? 前に進もうと努力しているのに! それを馬鹿にするような態度で過ごしているこの男はどうして裁かれていないの! 返してよ、お父さんを返して!」


 突然激高し、空気を切り裂く甲高い声を上げる斎。銀玉の中に渦が巻いているような瞳……意識ごと、その中に吸い込まれそうだった。


 「会いたくない」から、「助けてお兄ちゃん」って琴音の言葉が変わったとき、本気で反抗した。でも、それ以上の強い力と怒鳴り声で跳ね返された。

 力じゃとてもこいつに勝てない。弱い自分ごと全てを恨んだ。


 ――場面が切り替わる。


 目の前には男の背中があった。

 男は点字ブロックの上に立っていた。遠くで電車が来る合図が聞こえる。前には誰もいない。どこを見ているかわからない琴音の顔。そっと、握った手を離した。


「お兄ちゃんが助ける」


 出した俺の声は高かった。まだ声変わり途中のそんな声。

 体も細くなっていて目線も低い。きっと弱い力しか出ないだろうけど、力を込めて振り絞った力は、男を外の世界へと追い出した。


 けど男は、お母さんの腕を引っ張っていって、音と光と斎の悲鳴の中、一緒に消えてしまったんだ――


「世間が裁かないなら、代わりに私が裁く。……ここで会えたのは、父が許すなと、導いてくれたお陰なのかもしれません。幸いにも、琴音は不安定な性格でしたから、操るのは簡単でした。私に言われるがまま、口無し女を階段から突き落としました」

「いや! 言わないで! 内緒にしてくれるって言ったよ!」


 琴音の悲痛の叫びを聞いても、斎の表情は微動だにしない。


「もう来ないと思っていたのに、次の日に学校に来るなんてびっくりしました。だったらもう、本当に消えてもらうしかない。そう琴音に言ったんです。そうしないと、お兄ちゃんはもう、琴音のことなんか見なくなっちゃうよって」

「あああああ!!」


 琴音の断末魔はただ空を切るだけで、斎の耳には届いていない。何事もないように、斎は表情を変えずに喋り続ける。

 聞いてもらえる。そう思っているのだろうか。

 饒舌になっていく口調は、まるで自分の趣味を人に押し付けるような息継ぎがないものだった。


「うううう……!」

「ほら。こんなんですから琴音は。後はそのお兄ちゃんを呼び出して、この現場を見せるだけ。私は鍵を閉める。ただそれだけで舞台は完成しました。まあ、異物はありますけどね。さあ、どうしよっか琴音? 琴音がしちゃったこと全部バレちゃったね?」


 斎の言葉にぴくりと反応を示す琴音。


「こ、琴音が、琴音が今度は守りたかった、お兄ちゃんを苦しめる女。今度は琴音がお兄ちゃんをまっ、守るんだ、まもっ、守らないと」

「琴音……聞くな! こっちに来い!」


 振り子のように揺れながら立ち上がる琴音。泳ぐ目は、俺と斎を行ったり来たりしていて方向が定まらない。


「ねえ琴音? もうあなたは取り返しのつかないことをしちゃったよ? 口無し女を階段から落として、関係ない女を刺しちゃって、こうやって動画まで撮られちゃって。言い逃れなんてできないよ。警察に捕まって、一生施設か檻の中。琴音は壊れているから、もっと狭い場所に閉じ込められて二度とお兄ちゃんと会えなくなる」

「ああ……あうああ……」

「琴音! こっちを見ろ!」


 俺の体は相変わらず、小さくなったり元に戻ったりを繰り返している。小学生の琴音が隣に居たり消えたり。

 地面が赤く染まる。点字ブロックの壁で閉じ込められ、酸素が無くなり呼吸ができなくなる。

 肺に残った残りの空気を声に換え、二つの声を重ねながら琴音の名を呼ぶ。


「お兄ちゃん……琴音……守りたくて……」

「ああ。ああ! 分かってる、分かってるよ!」

「琴音! お前はもう終わりなんだよ! 二度とお兄ちゃんと喋ることはできない! そんなのって生きてるって言える? 琴音はもう愛されない、ずっと独り。きっとお兄ちゃんはそんな琴音を忘れて、楽しくこの口無し女と過ごすんだよ!」

「うるせえな! 黙れよ!」


 色々な感情が空から降ってきて空は赤くなる一方だった。どんな顔をしているかわからないから、恋仲を見る勇気もない。


「ほら、琴音。ここは高い場所だよ。飛んで逃げちゃえばいい。そうしたら捕まることもないし、琴音は自由になって、いつでもお兄ちゃんに会いに行ける」

「……ほんと?」


 斎の歪んだ笑みは、水音を立てたように聞こえた。


「うん。バカって言ってごめんね? 本当だよ。琴音は空に羽ばたいて、今は逃げるの。そしてみんな眠った後、ベランダに静かに戻って、お兄ちゃんにただいまって言えばいい。そうしたらぎゅってしてもらえる。でも、今のままじゃ駄目なの、分かるよね、ここにいたら終わっちゃう」


 琴音はふらふらと、おぼつかない足取りで斎が指差す方へ歩き出す。


 ――そこにはフェンスしかない。

 その先の道はない。あっても人では歩けない。

 

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