第二十話 終点から終点へ 前編

『誰にも言わず一人で来い。来ないと口無し女を地獄に落とす。誰かに言ったと分かったら、その瞬間にも落とす。屋上だ。急げ』


 口無し女……恋仲のことを言っているのか?

 一体、恋仲が何をしたっていうんだ!?

 そもそも恋仲は――自分を変えたくて、頑張って生きているだけだ!


『ハヤク、オニイチャン。オクジョウダヨ』


 あざ笑うかのように、ころころと変わるメッセージ。

 こんなふざけた芝居は見苦しいだけだが、その一言がどれも胸に突き刺さる。


 校門は閉まっていた。迷わず裏門に回って駆け抜ける。

 ちらほらと部活終わりの生徒とすれ違う。

 シャツとズボンは着てきた。不審に思われることはたぶんないだろう。


 グラウンドを経由して渡り廊下へ――

 人気の少ない裏口から土足のまま校内に入った。


 琴音なのか、クラスの誰かなのか。

 三国なのか、凪なのか、兄なのか、父なのか、俺なのか。

 ありえない問いと、ぐちゃぐちゃになった思考が、迷路のように入り組んで出口が見えない。

 勝手に暴走して行き止まりにぶつかるたび、目から火花がでるくらい熱くなる。


 ――屋上へ。


 廊下を滑るように走り、階段も飛び越えるように駆け上がる。


 屋上へ――!



 ガチャン!


 屋上へ繋がる扉のノブは無慈悲に俺を拒絶した。


「くそ! なんだよ!!」


 捻っても引いても押しても開かない。


「恋仲! いるのか!」


 さっきから恋仲にメッセージも電話も飛ばしているが反応がない。

 ここまで来て俺は騙されたのか? こいつの適当な嘘に振り回されただけ?

 それこそ意味がわからない。俺を無意味に呼び出してどうする。誰かに見つかって、学校に戻れなくさせることが目的なのか?


 もう一度ドアノブを捻ろうとした時、鍵が開く音がした。

 くたびれ錆び付いた金属音。きいと、四角い朱色の光が床を切り取っていく。



 空が赤い。

 充血しているように真っ赤だった。眼球みたいに太陽が俺を凝視している。焼けるような赤い空の中、三つの影はぐにゃりと歪んで伸びていた。


 恋仲と叫んだが、異様な空気に吸い込まれて声が出なかった。人影は揺らめいて、屋上に現れた俺にいくつかの空洞の瞳が向いている。


 温い風に乗って鉄の臭いがした。

 銀色の光沢を放つ何か。息が荒い。

 自分の呼吸だけが、やけに鮮明に耳に届いている。

 世界の終わり。引き返すことが出来ない現実に足がすくむ。


「お兄ちゃん……なんで……? なんで!?」


 琴音が目を大きく見開いたまま怯えきっていた。

 聞いたこともない低い声を響かせると、異質だった世界が現実の色に戻っていく。自分で体を抱きしめており、片方の手には鋭利な刃が握られていた。

 カランと滑り落ちたその刃物は、屋上のコンクリートを削り取りながら乾いた音を立てる。


 赤い液体のようなものが、絵の具のように飛び散った。


「――え、ぜん、きち……?」


 琴音の前、屋上の中央には寝転ぶように倒れている凪がいた。

 屋上以外の雑音は一切遮断されており、凪の小さな声もはっきりと耳に届く。

 お腹を押さえている手は赤く濡れ、制服も染みのようにじんわりと広がっていた。


 はあ……、はあ……。


 俺の息も別人の声のように聞こえる。頭の裏からうなじあたりに、拡声器を押し当てられたように体の中に声が浸透していく。

 そして、倒れている凪の隣にもう一人の影、恋仲が立っていた。


「……」


 沈む夕日に背景に、恋仲の黒い髪がさらさらと流れていた。

 凛とした表情は、俺がそう見えるよう歪ませているだけなのか、凪を庇うような位置だった。


 ――三人。

 ナイフを持っていた琴音、倒れている凪。その隣に立つ恋仲。

 どこか遠くで笑い声が聞こえる。それは風なのか、透明な観衆のざわめきなのか。


「どうしてどうして!? なんでなんでなんで!?」


 琴音の声が屋上の沈黙を引き裂いていく。

 手に持っていた赤く濡れていた刃物、倒れている凪。疑いたくない状況だった。

 目まぐるしく状況が変わる毎日。もう脳が焼き切れそうだ。現実に目を背けたい。こんな状況耐えられない。


「……琴音。落ち着け、落ち着いて……」


 ひび割れていた境界線が幾重にも分岐し、無数の亀裂になって広がっていく。ここから先は、どんな言葉を選んでも地獄しかない。


 落ち着け、なんて言葉で冷静になるわけがない。

 琴音に対する俺の言葉は無意味だ。そう分かっていても、それ以上の言葉が出てこない。


 琴音が呼んだんだろ? 違うのか……?


「なんでえ!? なんでお兄ちゃんがここにいるの!? 来ないって、来ないって、言ったよねえええ!?」


 琴音の口が引き裂かれるくらい真横に広がって、たどたどしい声が響く。両手で髪をかき上げ、別の場所を見ている。

 琴音の精神状態は深刻だ。あの時の比じゃない。今すぐ駆け寄って抱きしめてあげたいが、それは危険だと体が動くのを拒否している。


 はあ……、はあ……。


 顔がひしゃげるくらい表情を歪ませている琴音と、小学生だったあの日の泣き顔が重なる。

 感情に吞み込まれないように、俺は自分のふとももを強くつねった。痛みが過去の記憶と衝突し、なんとか踏み留まれる。


 琴音は、さっきから明後日の方向を向き叫んでいる。

 俺は足音を立てないように、少しずつ恋仲の方へ近づいていく。恋仲の顔は緊張で強張っていた。けれど、俺への視線は外さなかった。

 凪は額に脂汗を浮かばせ、両手で脇腹を押さえつけている。


「恋仲、平気か? 凪も……どうして」


 こくん、と大きく頷く恋仲。


「ついでみたいに言わないでよ。……なんだか、おもしろいことおきそーじゃん」


 依然として状況が把握できない。

 それよりも先ず、警察と救急車を……。


「ねええええ!? 聞いてるのっ!? なんでお兄ちゃんがここにいるの!」


 両手で髪をくしゃくしゃにした琴音が俺の気配に気づき振り向く。俺の動きを制するかのように、同じことを繰り返している。


「違うの、チガウ! 恋仲さんがやったの、そこの倒れてる人! 刺したの! 琴音は止めようとしたんだよ? そう、そう! 琴音は止めようとした!」


 恋仲が静かに首を振り、凪は面白そうに笑っている。

 琴音はまた別の方向を見ており、屋上の出入り口に向かって何度も「どうして」と、繰り返している。

 俺のシャツの裾が、恋仲にそっと触れられる。ぐっと強く引き止められる。何も言わず、恋仲もじっと出入り口を見つめていた。


「……」

「ねえ!? 斎(いつき)ちゃん! 答えてよ!!」


 いつき、ちゃん――?

 誰かいるのか……?


 出入り口の扉の後ろから黒い輪郭が現れた。

 夕日の逆光で、誰かは分からない。影だけが陽炎のように揺れている。

 鋭く光る鉛色の物体が、手元で瞬いた気がする。

 扉が閉まり鍵が掛かった音がした。


「……琴音ちゃん」


 闇の中に溶け込むような声で、一歩ずつ、ゆっくりとした歩幅で現れるもう一つの影。琴音と呼んだ声には、人の温かみなんて一切感じられなかった。


 斎、と呼ばれたその影は、すらりとした背丈でろうそくのように細かった。

 だが違うのは、風でゆらゆら揺れる火ではないこと。

 彼女の髪はロウのように垂れ下がって、体にべっとりと貼り付いていた。泥のように艶のない髪は、湿気を吸ったように顔にへばりつき、不気味にそのシルエットを歪めている。


「斎ちゃん! 話がちがう……斎ちゃんっ!」


 琴音の呼びかけに微笑む女。


「黙れよ。バカ琴音」


 谷底から突き落とすような、冷たく蔑むような声。

 その笑顔は一瞬にして、鬼気迫った悪意のある顔に変化していた。


「――ひっ!? えっ……えっ……」


 琴音が短い悲鳴を上げる。


「お久しぶりです。蔦森先輩」


 泥の顔は、口元に不気味な半円の笑みを浮かべながら俺を見た。


「忘れましたか? たこ焼きパーティの時、お邪魔していましたよ。あの時は面白かったですね。そこの女が急に現れるんですから。面白くって、笑い堪えるのに必死でした」


 ……言われて思い出す。

 あの時、琴音の隣に座っていたかもしれない。

 ハッキリとは覚えていないが、琴音がいつも友達だって俺に話す時、よくその名前を出していた気がする。そう、たしか斎って名前だった気がする。


「まあ、そんなことはどうでもいいんです。蔦森先輩がこうして来てくれたんですから」


 女はスカートの右脇に手を差し入れて、スマホを取り出した。無造作に俺めがけて投げつける。

 からからと、軽い音で足元に転がってきたのは破壊されていたスマホだった。デコグマのカバー。恋仲のスマホだ。


「……お前か」


 この女が恋仲にすり替わっていたのか? 

 俺を恋仲の病院に誘導させたのもこいつ。屋上に呼び出したのもこいつ。

 なんの為に?


 疑問は残るが、間違いないのは、こいつは紛れもなく悪意に満ちていて、琴音がさっき落とした物と同じような刃物を手にしている。

 そして、屋上の出入り口の鍵は掛けられた。それだけで味方ではないことは明白だ。


 こいつは壊す気だ。

 想像もつかないような、残酷で卑劣なやり方で。


「ああやっぱり。斎だけじゃ思い出しませんよね? 先輩の家にお邪魔した時だって、思い出してくれませんでしたからね。――では、改めて、自己紹介させてもらいますね」


 くっくっと、抑えた声で笑う女。

 仰々しくスカートの片端をつまみ、膝を曲げる。


「柊斎(ひいらぎいつき)、です。思い出しましたか、ぜんきちお兄ちゃん……?」


 大地と空が反転したようだった。


 柊、ひいらぎ、ヒイラギ……。


 胃液が逆流し、喉元までせりあがってくる。

 蘇ってくる。点字ブロックと赤い世界。琴音の泣き顔とあの背中。掴んだと思った母の腕。


「……思い出しませんか、ぜんきちお兄ちゃん。柊誠(ひいらぎまこと)。あなたのお母さんが不倫していた相手の娘ですよ。昔、一緒に遊んだでしょう?」


 知らないうちに俺の体は小さくなっていて、中学生の体になっていた。

 隣には一つ下の琴音。無感情な瞳で、じっと俺に身を寄せたまま動かない。


「まだ反応できませんか? あなたが、突き落としたじゃないですか」


 ……。


 全身の力が抜け、あらゆる関節が折れ曲がって崩れていきそうだった。

 原型を無くし、重ね合わせることができなくなった積み木のようだ。


 角も、端面も、歪に、変形していく――

 大地がひっくり返って、どこに立っているのかもわからない。

 

 なんでもいい、声を出せ!

 背中を蹴る俺が、必死で耳元で叫んでいた。

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