第十九話 臨界点

「お兄ちゃん、おはよ!」


 今朝の琴音も、元気なフリをしている。

 以前の俺なら、それに笑顔で返して信じているフリをしてた。

 でも、ずっと前から嘘だってことに気づいていた。


 流行りの曲を鼻で歌う姿も、登校の支度をしている姿も、どれもが琴音が自分自身を守るための盾であり仮面だった。

 友達が多い。クラスで人気。琴音の言ったことを鵜呑みにしていた俺。

 考えると頭が痛くなるから。そんな理由で琴音から逃げてきた。


「えっと、昨日はごめんね。恋仲さん大丈夫だった?」

「俺の方こそごめん。恋仲は……大した怪我はしてなかった。兄貴が言うには、今日退院予定だって」

「……そうなんだ」


 半年前、琴音が教室で突然取り乱したことがあった。

 直接の原因は別の女子だったらしいが、「その兄が二年にいる」という噂が騒ぎになり、俺の耳にまで届いてたちまち広がった。

 幸いすぐに落ち着いて大事にはならなかったが、その代償は大きかった。


 琴音に、誰も近づかなくなったんだ。


 担任でさえ、腫れ物に触れるような距離を取り始めた。

 何度か様子を見に行ったが、琴音はそのたび笑顔を作って過ごしていた。

 独りきりの昼休みも、明るい表情を絶やさなかった。

 その笑顔は、家でも見るあの型にはまった笑顔。


「私は大丈夫なんだよ」と言い聞かせるような、助けを求める笑顔。

 そう視線で訴える琴音を見ながら、俺は――顔を背けてしまった。


「今日も遊びに行こうって誘われたんだけど、断ってきちゃった。家事とか洗濯とか! 琴音、忙しいからね!」


 俺はただその言葉だけを受け取って消化していた。

 本当は誰にも声を掛けられず、一人で家に帰っていることも知っている。

 朝も「忙しいんだよ~」と笑いながら、早めに学校に向かう琴音の気持ちも知っている。


 琴音は、仲良くなりたいと素振りを見せながらも、実際は他人が怖くて、誰にも会わないよう自分から避けるようになっている。

 その矛盾に揺れながらも、琴音は誰にも頼らない姿を作って毎日を過ごしていた。


 それでも見なかったのは、俺も逃げたかったからだ。

 兄妹という枠に当てはまっていると勝手に納得し、自身の居心地の悪さを何とかしたかった。


 三国たちとつるんでいると、くだらないことで気が紛れて楽だった。

 何も考えないで済む空気は居心地がよかった。そこから飛び出してまで、琴音を見ようとしなかった。

 琴音もそうすべきなんじゃないのって、どこか上から見ていたんだ俺は。


 そんな中、友達ができたって報告は信じられなかった。

 けど琴音の顔は取り繕った笑顔じゃなかった。

 子供のようにはしゃぎ、瞳も潤ませながら喜んでいたので、心底安心したんだ。

 たこ焼きパーティなんかまでやるようになって、あの時は気まずかったけど、心の中では嬉しかった。


「琴音、昨日は……」

「あっ、そろそろ行かなきゃ! お兄ちゃん、お昼カップ麺でいい? 台所にある袋の中に入ってるから!」


 作り笑いと、嘘の元気を振りまいている。

 琴音は、俺の言葉を聞かないようにしてリビングを出る。


「……お兄ちゃん」

「ん?」


 そのまま出て行ってしまうと思ったが、扉を開ける寸前で琴音は振り返った。

 前髪を撫でながら、何か別なことを言いたげな顔つきだった。


「……ううん。なんでもない」

「あのさ! 琴音、今日の夜、話したいことがあるんだ」


 きっと琴音も、同じことを言いたかったんだと思う。

 今更なんて思っていたら、一生それに縛られてしまう。

 今、なんだ。


「うん、わかった……。それじゃ、いってくるね」

「ああ、いってらっしゃい」


 琴音がずっと助けを求めていたことに気づいていながら、それを無視し続けた俺にお兄ちゃんを名乗る資格なんてきっとない。

 昨日は琴音と話すことはできなかったけど、今日こそちゃんと琴音と話そう。

 これからのこと。家族のことを。


 ぐっと拳に力を入れて、琴音が立ち去ったドアを長い間見つめていた。



 ――ぴこん。



『オニイチャン、ゴメンネ』


 と、メッセージが届いた瞬間、画面上部のアカウント名が目に飛び込んできた。


 蔦森琴音。


 その四文字が俺の心臓を鷲掴みにした。

 急いでドアを開け、手すりから琴音の姿を探すが見える範囲にはもう見当たらなかった。

 電話を掛けても通じない。

 メッセージも入れても、既読にもならなかった。


 ――そんなことあるはずない。


『琴音なのか?』


 聞くだけででも身の毛がよだつ。

 ありえない問いだ。

 こいつは、俺に妹がいることを知っているだけ、そうに違いない。


『ハハハハアハハハハ』

『ゴメンネオニイチャン。赦して赦して、赦して赦して赦して』


 立ち眩みがする。頭がおかしくなりそうだ。

 ブロックして消去したいが、犯人も分からない、目的もわからない以上、遮断することなんてできなかった。


『琴音なのか!? 電話くれ、チャットでもいい!』


 ……返事はなかった。

 今すぐ学校に行きたい。

 そうすることは簡単だが、その後のことを考えると行動できない。

 もし、事態が悪化して停学期間が延長されたり、それ以上のことがあったら目も当てられない。


 でもこれは事件だ。事情を話せば融通は利くかもしれない。

 藁にも縋る思いで学校に電話する。

 低く掠れた、聞き覚えのない声が電話に出た。


「蔦森です。二年の蔦森善吉です。昨日、恋仲さんが学校の階段から落ちたんですけど、そのときスマホを盗まれてて、そいつが学校にいるかもしれないんです。俺のクラスの誰かだと思います。グループチャットで恋仲を追い出したんです。とにかく、誰か見ててくれませんか。変なやつが――」

「つたもり……? ええと、はいはい、岡崎先生、2番です~」


 名前しか聞いてなかったみたいに、俺の焦りは無感情な保留音と一緒に消える。

 担任が電話口に出ると、何も伝わっておらずまた一から説明しなければならなかった。

 説明し終えると、真っ先に聞こえてきたのは担任の大きなため息だった。


「はあ、蔦森。いいか。クラスのプライベートなグループのことには、先生たちは原則関与しない。学校の連絡グループには恋仲はちゃんと居るぞ。あの時といい、三国達とのことといい、大人しくして今は反省するんだ。先生は、お前の為のことを思って言ってるんだぞ。……わかるな?」


 なあ、何をわかればいいんだ?

 何も聞いちゃくれない。俺は返答せずそのまま電話を切った。


 今度は兄に電話を掛けて、怪しい動きがあれば教えてと伝える。「ああ」と返事はあったが、なんとも心もとないものだった。


「――くそ!!」


 過剰に反応しているだけかもしれない。そう思えたらどんなに楽か。

 こんなに自分が無力だなんて知らなかった。


 * * *


 昼の十二時過ぎ。

 食欲は無かったがカップ麺を流し込んだ。

 自室にこもり、反省文の清書に取り掛かっていたが一向に進まない。

 恋仲のことが気になって仕方がなかった。

 また兄に電話を掛けようと思ったら、


『恋仲です。新しいスマホに変えました』


 ぽろんと、デコグマのスタンプと一緒にメッセージが届いた。

 ペンを投げ、食い入るように画面を見る。


『恋仲!? 今どこ? 平気?』


『はい。ちょっと腕が痛いですが、歩けますし大丈夫です。今ちょうどお店を出たところです。これから学校に向かいます』

『行かなくていいよ! 今日は……ゆっくり休んだ方がいい』

『ありがとうございます。でも、行ける時には行きたいんです。本当は少しだけ休みたい気持ちもありました。でも昨日、えっと……元気をもらえましたから。私、頑張りたいんです』


 赤面したデコグマが画面を占領する。

 恋仲と触れ合った昨日を思い出す。

 感触――体温、唇の弾力、匂い。

 それは確かにあった。けれど今は恐怖にかき消されている。

 あの悪意が、この思い出を引き裂くように現れる。


 心は色んな感情がごちゃ混ぜになっていた。

 それとは別に身もだえそうにもなっている自分も確かにいた。

 何人もの感情を抱えた別人格の俺が、体内に潜んでそれぞれの存在を主張している。


 登校しようとする恋仲。

 昨日の今日だし、せめて今日くらいは自分のために休んでほしい、そう伝えたかった。


『心配かけてごめんなさい。きっとみんなビックリしますよね。でも私は言ったんです。逃げないって。それを証明したいんです。強がりだって、バレちゃいましたけど』


 俺が返事をためらっていると、続けてメッセージが流れる。

 語尾に笑いを付けた恋仲の言葉で、どんな顔をしているか想像できた。 


 ――それでも学校に行く。逃げない。

 これが、恋仲なんだ。


 なら、俺が言うべき言葉は――


『頑張れ、恋仲』

『はい。頑張ります!』


 この二言とスタンプ二つ。それで恋仲との会話は終わった。

 やっぱり、恋仲は凄いよ。

 俺とは違って絶対にブレない。

 悩んでも泣いても叫んでも、決めた道から曲がろうとしない。


 ――だからこそ世界は、たった一つの拒絶という感情で、道を塞いでくるんだ。


 * * *


 課題も思うように進まずただ時間だけが流れた。

 窓に映る景色は、昨日の病室と同じように、青から橙へと色を変えていった。

 スマホを握りしめながら空の変化を見つめ、紫色に差し掛かる頃、唐突にメッセージが届いた。


『屋上。イマスグ』


 その文字の下には、割れて歪んだスマホ画面上に鈍く輝く、ナイフの画像が添付されていた。

 これは恋仲の、盗まれたスマホから送られている――そう直感した。

 理解した瞬間、鼓動が激しく乱れ始めた。


 待ち侘びていたかのように世界の口が開いた。

 粘着質な糸を引いて、その牙を剥き出しにしてきている。


 ためらう時間すら惜しかった。


 気づけば俺の足はもう――校門を抜けていた。

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