第二十話 終点から終点へ 後編

「琴音……!」


 俺が呼び止めると琴音は走り出した。


「あとでお家かえるからっ……!」


 両手を不規則に泳がせながらフェンスに向かっていく。

 まさか……!


「琴音! 行くな、戻ってこい!」


 閉じ込められた赤い世界を突き破ろうと足を上げる。べりべりと、靴底が引きちぎられるような音がした。


「動くな! 動いた瞬間、これでそこの口無し女を刺す! 黙って見てろ! そうしたら嫌でもわかる。私がどんな気持ちだったか! どんな思いでこれまで生きてきたか!」


 斎の理不尽に満ちた喚き声が、琴音の背中を突き動かしているようだった。

 すっと、シャツを握っていた恋仲の指が解かれる。そのまま恋仲の指は、俺の腕を強く滑り落ちながら震えていた俺の手で止まる。

 恋仲の暖かい手のひらの中に包まれた。ぐっと拳を作るように力が込められると、赤と黄色い世界が切り裂かれて、真っ白な恋仲と目が合った。

 大きな瞳。どこまでも真っすぐでひたむきな視線が、定まらない俺の思考をゆっくりと落ち着かせてくれる。


 言葉を発する前に、恋仲は手を離し俺の前に立つ。

 恋仲の体温と、こんな状況でも小さく微笑む顔は、こう伝えてるように感じた。


 ――大丈夫ですよ。だから、行ってください。


 琴音はフェンスにしがみついていて、金属の網に指を掛けていた。普段の琴音とは思えないうめき声をあげながら、腕を伸ばしている。


「そうだ! 分かりました先輩。選ばせてあげます。さっき言った通り、琴音を追いかけたら私はこの口無し女を刺します。でも、追いかけずここにいたら、私は何もしません。ただ琴音が飛ぶだけ。どうしますか?」


 今度もまた――選ばなくちゃいけない。


 見てなかっただけで、ずっと琴音は泣いていたんだ。

 俺の前では平気を装って、頑張って作った笑顔と声で、荒れていた俺を安心させるために自分を騙し続けながら演技をし続けていた。

 そうすることで、琴音はずっと俺を守ってくれていたんだ。あの時から、ずっと。その居心地の良さに甘えて忘れて、勝手に救った気になって逃げていた。


 俺の目的はなんだった?

 琴音を守ることだっただろ?

 今は守れているのか?

 助けてって、俺を求めた琴音を本当に助けてやれたのか?


「ほおら、はやく登って飛んじゃないよ琴音! そんなガシャガシャやってちゃ、ただの虫だよ、虫けら! あはははは!!」

「うるせえな! ドブ女が!」


 腹の底から声を出した。

 恋仲からもらった白い光が漏れて、どんどん赤い世界を白で奪い返していく。


「……あぁ?」

「もう喋んなよ。こっからでも臭うんだよ。くっせえお前のドブみたいな口臭がよ! 自分の臭いに気づいてないのか? 汚物みてえな涎まき散らしてんじゃねえよ。マジでくせえんだよ!」

「なに……なにっ!?」


 斎は俺の腹の底から振り絞った声にたじろぐ。畳みかけるように俺は言葉を吐き続けた。その張り上げた大声に、琴音の動きも止まったように見えた。


「不幸だ? 代わりに裁く? 寝言はトイレで言ってろよ。お前だけが苦しんでると思うなよ! 悲劇のヒロインでも気取ってんのか? 勝手に人のこと適当に暴露していい気分になってんじゃねえよ! お前の自慰に付き合ってるこっちの気分にもなれよ、見せつけんなよ気持ちわりい」


 斎の顔が見る見るうちに上気していく。その熱量がヒリヒリと伝わってくる。


「黙れ黙れ黙れ! 私はお前たちの罪を暴いてるだけだ! 隠し通せるとでも思ってたの? 言えるわけないよね! 卑劣で、醜悪で、私の父を突き落としたお前たちの過去なんて言えるわけがない! だからこうやって教えてやってるんだ!」


 俺と斎の言葉での殴り合いは、会話になってはいなかった。俺は内に溜まっていた感情を。斎は自分の主張を。それぞれがぶつかりあい、せめぎ合うだけ。

 声を上げていくと体は熱くなり、俺の感情が輪を描くように広がっていく。視界を正しい色に塗り替えていくようだった。

 俺の声に対抗するように斎も身振りが大きくなり、刃物を向け、再び赤い世界に戻そうとしてくる。


「なあ。そもそもこんな話、誰が信じる? 俺が悪い? なら証拠を見せてみろよ! どこの情報だよ? 全部お前の作り話なんだよ! 狂った妄想に琴音まで巻き込むなよ。頼むから、そういうのは便所で一人でやってくれよ」

「嘘じゃない! 作り話なんかじゃない!! お前が一番分かってるだろおお!!」


 もちろんそうだ。けど、お前以外には分かるわけがない。この状況を打ち崩すには、強気で押し通すしかないと思った。

 今にもナイフを振り回して向かってきそうな剣幕だった。このまま、こいつの気を紛らわせて、琴音を……こっちに……!


「琴音! 大丈夫、大丈夫だから……! こんな話なんて聞かなくていい! 俺の、お兄ちゃんの所に戻ってこい!」


 琴音の視線を感じる。大きく手招きする。


「あはっ、はははっ……くくっ、あははは!」


 笑ったのは凪だった。

 凪の嘲笑に、挑発されたと思ったのか、斎は狂ったような低い悲鳴を上げた。


「琴音ええ! いいから、さっさと行けええ!!」


 斎の突き刺すような命令に琴音は大きく体を震わせ、言われるがままよじ登り始める。


 くそ……! 

 赤い世界だろうが、ぼこぼこした地面だろうが、そんなのどうだっていいだろ!

 大事な妹を守れないで、何がお兄ちゃんだ。

 もう琴音を泣かせたりしないって、あの時だって思っただろ!


「おい動くなあっ! 動くな動くな! 黙って見てろ! 私が苦しんだ絶望をお前たちに与えなくちゃ、お父さんが味わった屈辱を晴らさなくちゃ、私は……私は救われない! 救われないんだ!!」


 動くな、選べ、また動くな。斎の言葉も不安定で一貫性がない。

 恋仲が更に一歩前に進んでいた。


 一瞬だけ俺の方を振り向いて、力強く頷いた。


 ――言葉が無くても伝わった。


「琴音!!」


 喉が焼き切れたっていい。それで琴音が止まるなら、燃え尽きるまで出してやる。なりふり構わず琴音を追いかけるために走り出す。

 もはや声にもならない絶叫を轟かせながら、斎も恋仲に向かって駆け出した。思わず踏み出した足が止まる。俺の選択で、今度は恋仲を失ってしまうかもしれない。

 一瞬の躊躇が、杭を打たれたように脚を貫き、コンクリートに固定される。



 ――って!



 恋仲の背中から何か聞こえた気がした。


 その音は容易く杭を抜き、俺の脚はいつでも走り出せる状態に戻っていた。それでもきっと迷うだろうから、俺の僅かな躊躇いなんかよりも速く、恋仲はこう叫んだんだ。



――!!」



 その力強い言葉は、俺の全身の血を沸騰させ、胸を燃やし、全身の筋肉が躍動するような力を与えてくれる。


 今度こそ、琴音を救う為に走り出していた。


 恋仲の声が聞こえた。

 だったかもしれない。俺がそう感じただけかもしれない。

 でも、確かに聞こえたんだ。


 ありがとう、恋仲。

 その声、届いたよ――

 

「琴音っ!」


 何度目かの呼びかけに、ようやく琴音の動きが止まる。俺が近づいてくるのを見て、慌てるようにあがきながら再び登り始める。

 琴音の足はもうフェンスを乗り越えそうだった。俺は名前を叫び続け、無我夢中でフェンスにしがみつき、その鋭い金属の網を必死に握りしめていた。


「わああああ、いやっ! いやいや! 来ないで! 琴音が会いにいくから、空を飛んで、琴音から会いにいくから! 来ないでっ!!」


 登り詰めた琴音は、両手を離し向こう側の狭いコンクリートの通路に倒れ込んだ。両腕を強く打ったのか、苦痛の表情を浮かべる。

 その先はもう、何もない。何かの配管があるだけで、それを支えるほんの数メートルのコンクリートしか残っていない。

 俺もフェンスに飛びつき、琴音の後を追うが、反り返った傾斜で失速し思うように登れなかった。


「琴音! 俺が今行くから、そこで待ってろ! 空なんて飛ばなくていい! 俺が迎えにいくから!」

「ううん……だめなんだよ。もう戻れない。琴音は頑張ったけど、やっぱりだめだったんだよ!」


 うつ伏せになりながら、琴音は泣き声を滲ませ叫ぶ。


「だめなんかじゃない! 琴音は真っすぐ俺を見ていてくれたのに、俺が琴音を見てなかっただけなんだ、だめなのは俺なんだよ! 琴音は悪くない!」


 記憶を封印して、「今」だけをふざけて楽しむようになって、俺は治った気でいた。琴音は自分と向き合いながら、俺の勘違いしていた「今」をもっと楽しめるように空気を作ってくれていた。

 それを都合のいいように解釈していた。なんで琴音はいつまでも足踏みしてるんだって思ったこともあった。薬を飲む琴音を見て、まだそんなものに頼ってるのか、なんてひどいことを思ったことも……。


 それは、大間違いだ。

 琴音は常に戦っていて、俺だけ逃げていた。

 足踏みしていたのは俺の方で、俺はあの時から一歩も踏み込めてない。


 這いつくばるように先へ進んでいく琴音。配管にしがみ付き、両足を震わせたまま立ち上がる。


「だって、だってだって。もう終わりだよ。琴音もう戻れない、恋仲さんにしたこと、あの女の人にしちゃったこと……もう、お家に帰れない。知ってるよ、飛べないことなんて。でももう、こうするしかないの。もう……何も考えたくない……」


 琴音の目にかすかな光が宿ったように見えた。

 しかし、屋上の際まで進む歩みは変わらない。俺はようやく返しを登り、そのまま飛び降りて両手をつきながら着地する。

 もう少しで手が届く!


「大丈夫、俺がずっとそばに居る! もう離れたりなんかしない! 見てるフリなんてしない! 俺が琴音を守るから! だから、だから、俺を独りにしないでくれ! 離れないでくれ!」


 唾も涙も鼻水もまき散らしながら俺は力の限り叫んでいた。


「……」


 屋上の際に立つ琴音は、振り返って俺を見る。たまたま屋上を見上げた学生がいたのか悲鳴を上げていた。

 ゆっくりと近づいて手を伸ばす。


「ほら……琴音。俺の手を握って。もう離さないから、絶対に!」

「お兄ちゃん……」


 琴音の瞳から涙が零れる。乾ききった琴音の肌にすぐに吸い取られ、落ちることはなかったけど、琴音の顔に生気が宿っていくように表情が変わっていく。

 琴音の手が、少しだけ、上がった。


「ありがとう。お兄ちゃん。……ごめんね」


 その上がった手は俺を掴むためじゃなかった。

 ばいばいと手のひらを揺らし、そのまま後ろへ体重を預けていく。琴音は最後に、泣き笑いの顔で俺を見た。

 伸ばしたその手は、別れの挨拶のように小さく揺れたまま、静かに宙へと溶けていく。


「うあああああ!!」


 俺の体は反射的に跳ね上がっていた。

 どうなったか分からないけど、俺の腕は想像以上に伸びて、体は宙に浮かび上がっていた。


 琴音の腕を掴んだ。

 時間が止まったかのように、その瞬間だけ、時間の流れがゆっくりになる。


「琴音! 絶対離さない!」


 落ちていく琴音。涙は軌跡となって、空中に漂っている。

 驚いた顔。小さい頃から今までの琴音の笑顔と泣き顔が、何重にも重なって見えた。必死で腕を引き上げる。その瞬間、世界が時間を取り戻し、琴音の表情が鮮明に蘇った。持てる力全てを出し切って、屋上へと引き戻した。

 俺の体温を琴音に。

 安心できるよう、精一杯の笑顔を、琴音の瞳に送る。


「いやあああっ! お兄ちゃああん――」


 大丈夫だよ、心配するな。琴音が自慢できるお兄ちゃんになってみせるから。

 だから琴音。また笑ってくれないか。

 お互い作り笑いじゃなくて、小学生の時みたいに本気で笑って……。


 また、一緒に遊ぼう。


 琴音の声が遠くなって、俺の体を支えるものが何もなくなる。


 景色が線になり、

 誰かの涙が夕焼けの空に弾けて消えて、


 そのまま何も見えなくなった――

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