第9話 発見! 魅惑の湯けむりと、たぬきの嗅覚

 忍ヶ丘学園での授業は、日々がサバイバルだ。特に俺、風間ハヤテにとっては。隣の席の狸谷ぽこさんがいつ何をやらかすか、常に警戒していなければならない。今日の座学は『忍びの歴史地理学』。日本各地の隠れ里や、忍術の発展に影響を与えた地形などについて学ぶ、比較的まともで、俺にとっては興味深い授業のはずだった。…そう、ぽこさんが大人しくしていれば、の話だが。


 授業開始から三十分ほど経った頃だろうか。窓際の席で、最初は珍しく(!)教科書を開いていたぽこさんが、突然そわそわし始めた。鼻をくんくんと動かし、丸っこいタヌキ耳をしきりにぴくぴくさせている。


(ん? どうしたんだ、ぽこさん? まさか、また居眠りの前兆か?)


 俺が訝しげに見ていると、ぽこさんはハッと顔を上げ、窓の外…学園の塀の向こう側をじっと見つめ始めた。その瞳は、見たことのないような真剣さ…いや、何かを渇望するような、キラキラとした輝きを宿していた。


「むはーっ!! この芳しき香り…! 湿り気と、ミネラルと、そして微かな硫黄の匂い…! まさか、まさか近くに『湯』があるのでござるか!?」


 突然、ぽこさんが小声で(しかし確信に満ちた声で)そう呟いた。

 湯? 温泉のことか? この辺りにそんなものあったか?


 次の瞬間、ぽこさんは椅子から飛び上がり、一直線に窓へと向かった!

「ぽこさん!? 何やってるんですか! 授業中ですよ!」

 俺は慌てて席を立ち、窓枠に足をかけて外へ飛び出そうとするぽこさんの、ふさふさのタヌキ尻尾をがっしりと掴んだ!

「うにゃー!? 離すでござる、ハヤテ殿! 湯が! 湯が拙者を呼んでいるでござる!」

 尻尾を掴まれたまま、ぽこさんはジタバタと抵抗する! いや、行かせないから! 絶対に行かせないから!


「狸谷ィ! 風間ァ! 貴様ら、授業中に何をしておるか!!」

 当然、この騒ぎは教壇に立つ先生(今日は生真面目な若手の先生だ)に見つかった。

「はっ! せ、先生! 申し訳ありません! その、窓の外に、大変学びの深い『気配』を感じましてでござるな、つい…!」

 ぽこさんが、しどろもどろで意味不明すぎる言い訳をする。学びの気配ってなんだよ!

「すみません! ぽこさん、ちょっと具合が悪かったみたいで! すぐ席に戻ります!」

 俺は必死でフォローし、ぽこさんを力ずくで席へと引き戻した。先生の訝しげな視線が痛い…。


 授業が終わるなり、ぽこさんは俺の手を掴んで教室を飛び出した!

「ハヤテ殿! やはり気になるでござる! あの匂いの元へ行くでござるよ!」

「ちょっ、待ってください、ぽこさん!」

 俺は引きずられるようにして、匂いのするという方角へと向かう羽目に。呆れた顔のレイも、なぜか「仕方ありませんわね」とついてきた。…あんたも物好きだな!


 ぽこさんのタヌキの嗅覚(としか思えない)を頼りに、学園の塀を抜け(おい!)、住宅街をしばらく歩くと…あった。

 古い木造の、昔ながらの風格が漂う建物。高い煙突からもくもくと白い湯気が立ち上っている。入り口には『狸の湯』と書かれた、年季の入った暖簾が下がっていた。

 …銭湯だ! しかも、名前!


「おおおおーーーっ!! やはり『湯』でござったか! しかも『狸の湯』! 運命でござる!」

 ぽこさんは目をキラキラさせ、感動に打ち震えている。そして次の瞬間、

「入る! 拙者、今すぐこの湯に入るでござるぞーっ!!」

 と叫びながら、まだ営業開始時間前(暖簾はかかっていたが)の銭湯の入り口に突撃しようとした!


「待て待て待て! ストーーーップ!!」

「落ち着きなさい、狸谷さん! まだ開いていませんわよ!」

 俺とレイが二人掛かりで、温泉(銭湯だけど)に吸い寄せられる磁石みたいになっているぽこさんを、背後から羽交い締めにして全力で阻止する!

「離すでござるー! 湯が! 湯が拙者を待っているでござるー!」

「待ってないから! 落ち着けって!」


 そんな俺たちの騒ぎを聞きつけてか、ガラリと引き戸が開き、中から腰の曲がった、人の良さそうなおばあちゃんが顔を出した。番台さんだろうか。

「あらあら、どうしたんだい? 若い子たちが店の前で騒いじゃって」


「あ、あの、すみません! この子が、どうしてもお風呂に入りたくて暴れてまして…!」

 俺は必死で状況を説明(という名の誤魔化し)をする。

 おばあちゃんは俺たちの姿(特にぽこさんのタヌキ耳)を見ても特に驚いた様子もなく(この辺り、獣人が珍しくないのか?)、にこにこと笑った。

「ははあ、お風呂が好きなのかい? いいことだねぇ。でも、うちが開くのは夕方の四時からだよ」

「ゆうがた…」

 ぽこさんがしょんぼりと耳を垂れる。

「そんなにお風呂が好きなら、また夕方においで。一番風呂、沸かしといてあげるからさ」

 おばあちゃんの優しい言葉に、ぽこさんの顔がパッと輝いた!

「本当でござるか!? やったー! おばあちゃん、約束でござるよ! 絶対に来るでござる!」


 こうして、ぽこさんの暴走はいったん収まった(夕方まで持つか怪しいが)。

 俺は、おばあちゃんに平謝りし、レイは「…まったく、人騒がせな狸ですわ」とため息をついている。


 とんでもない『温泉好き』属性が発覚したぽこさん。これから先、街中で温泉や銭湯を見かけるたびに、この騒動が繰り返されるのか…?

 想像しただけで、俺の胃に新たな痛みが走った。ハヤテの受難は、まだまだ始まったばかりのようだ。


(続く)

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