第12話 【過去編】空き家の井戸
痕跡ひとつない空き地に、ひかるたちとの記憶だけを残して花を供えたあと——
麻斗がふと、つぶやくように言った。
「なあ、兄貴。俺ら、昔からこういうのばっかだったよな。気づいたら変なのに首突っ込んで、兄貴に相談してさ」
優斗は少しだけ目を細めて、空を見上げる。
「……そうだね。あの頃は、今みたいに“どう向き合えばいいか”なんて、分からなかったけど」
「うん。たとえば……あの空き家の井戸のときとか」
◆ ◆ ◆
夕焼けに照らされて、ランドセルの群れがわいわいと家路につく。麻斗もその中のひとり。
「なあ、次のボスってさ、火に弱いってマジ?」
「うっそ、おれ水属性で行ったぞ?」
友達の話題はゲームのモンスター討伐で盛り上がっていたけれど、麻斗の足がふと止まった。
「……あ?」
視線の先。そこには一軒の空き家がぽつりと佇んでいた。
ボロボロに崩れかけた瓦屋根、割れたガラス越しに見える真っ暗な室内。庭には雑草が好き放題に生えていて、建物の輪郭さえ霞むほどだった。表札も、気配も、何もない。ただ、その場にあるだけ――のはずだった。
「なあ、なんかやばくね?」
思わず口をついた言葉に、友達が振り返る。
「なんだよ、ただの空き家だろ!」
「麻斗、また脅かして〜」
けらけらと笑いながら、彼らは再びモンスター討伐の話に夢中になっていく。
でも、麻斗の目は、もっと奥――敷地の隅にある、小さな涸れ井戸に引き寄せられていた。
朽ちた木の板で無造作に蓋をされたそれは、まるで「見ないで」と言いたげに、ひっそりとうずくまっている。なのに、見てしまった瞬間から、背筋を冷たいものが這う。
(うわ……やば。あれ、絶対なんかいる)
ゾワゾワと皮膚が泡立つ。でも、不思議と怖くなかった。いや――怖い。でも、それ以上に、見てみたい。感じてみたい。
生まれつき持っていた“それ”が、ざわつく。好奇心と、霊感がくすぐり合うように。
(うーん、兄ちゃんに相談してみようかな…)
こういう時は、優斗の出番だ。冷静で頭が良くて、ちゃんと話を聞いてくれる。兄貴で、パートナーで――頼れる存在。
そんな考えが浮かぶと、麻斗は友達に軽く手を振って、早足で帰路を急いだ。
まだ、あの井戸が何かを“待っている”ことも知らずに。
ランドセルを放り出すように家に戻ると、麻斗はすぐに優斗を引っ張り出した。
「とにかく来て!兄ちゃん、絶対なんかいるんだって!」
「……はあ。行き先くらい言ってよ」
優斗は相変わらずの冷静さで、けれど弟の顔が本気だとわかると、それ以上は何も言わずついてきてくれた。
歩きながら、麻斗は頭の中に地図を描いた。帰り道の曲がり角、コンビニの前を過ぎて、空き家のある裏通りへと向かう。
そして――たどり着いた。
「ここ…」
そこはさっきと変わらないはずの空き家だった。けれど、麻斗はすぐに気づいた。
――空気が、違う。
視界の端で、草が風もないのにざわりと揺れた。空き家の奥、あの井戸。朽ちた木の板の下から、何かが――じっと、こちらを見ている。いや、違う。見ているのは…兄貴のほう。
「違う……さっきは、こんなんじゃ……」
全身の産毛が逆立つような悪寒が背中を走る。
井戸からにじみ出す気配が、優斗に向かって“惹き寄せられている”。まるで、ずっと待っていたかのように、そこにいる“何か”が優斗に気づいた瞬間、一気にその気配が濃くなった。
麻斗の喉がひくりと鳴る。
――そうだ、小さい頃から、優斗は幽霊に好かれやすかった。
いつも見えないはずのものに囲まれて、泣いたり、震えたりしていた。
「……っ」
麻斗は拳を握りしめた。
怖い。怖いに決まってる。けれど、それ以上に、あの井戸が気になって仕方なかった。
(なんだよ、あれ……)
まるで、そこに何か“本物”があると、自分の中の何かが警鐘を鳴らしている気がした。
そして、その横で優斗が、じっと井戸を見つめていた――まるで、向こうの何かと、もう“通じてしまっている”ように。
優斗は、井戸の方をじっと見つめたまま、まるで時間が止まったかのように動かない。
「兄ちゃん……?」
麻斗が不安げに声をかける。けれど、優斗はその声に反応せず、ふっと目を細めた。
「……動いてる。あの板の下……なにかが、いる」
空気が、きゅうっと冷え込んだ気がした。
真夏の午後のはずなのに、吐く息が白くなりそうなほどの寒気。
「兄ちゃん、やっぱ帰ろう。ここ、やばい。さっきよりずっと、やばいって……!」
焦りに似た声で麻斗が言っても、優斗はその場から動こうとしない。
むしろ、吸い寄せられるように――まるで井戸の底から呼ばれているかのように、一歩、また一歩と歩み寄っていく。
(なんで…なんで止まらねえんだよ兄ちゃん)
鳥肌が止まらない。冷たい風が吹いたような気がして、麻斗は咄嗟に優斗の腕を掴んだ。
「やめろってば!!」
その瞬間だった。
――バンッ!!
乾いた破裂音と共に、井戸の蓋が跳ね上がる。板の隙間から、ぬらりと現れたのは――真っ黒な、手。
霧のようで、それでも異様に生々しい、人間とも獣ともつかない“何か”の腕。
「……っ!!」
その手が、優斗に向かって一直線に伸びてくる。麻斗は、反射的に身体を滑り込ませた。
「兄ちゃんを連れてくな!!」
黒い手が、麻斗の肩に触れた――瞬間、空気がはじけるような音がして、その手は霧のように消えてしまった。
「……?」
麻斗は眉を寄せながら、自分の手で優斗を抱き寄せるようにして立ち尽くした。
「なんかいるよここ。俺、行ってくる!」
瞳の奥が、火を灯したように輝く。
怖くないわけじゃない。それでも、目の前で兄貴を狙われたまま、黙っていられるわけがない。
退魔の波長が、ぞわりと麻斗の背中から立ち昇った。
「麻斗、待っ――」
優斗の声が背後で響いた時には、麻斗はもう井戸に向かって駆け出していた。
「ちょっ、麻斗!!」
優斗の鋭い声も、もう麻斗の耳には届いていなかった。鼓動が速くなるのを感じながら、まっすぐ井戸へと駆け寄る。
近づくごとに、頭の奥でキーンという耳鳴りのような音が響き始めた。
ぞわりと首筋を撫でるような気配。
木の板は、先ほど跳ね上がったまま少しずれていて、闇の底がちらりと覗いていた。
麻斗はしゃがみ込み、そっと顔を近づける。
のぞいた井戸の中は、まるで吸い込まれるように深い闇だった。
底など見えない。ただ、どこまでも、どこまでも暗い。
(なんだこれ……気持ち悪っ)
そう思った瞬間だった。
「……たすけて」
微かな声が、闇の奥から届いた。
小さな、女の子のような、弱々しい声。
「え……?」
思わず麻斗は身を乗り出した。
その時――ガクン。
急に重力が引き戻されたような感覚と同時に、目の前に“それ”が現れた。
井戸の闇の中から、すうっと――白い顔が、ぬるりと浮かび上がる。
血の気のない肌、虚ろな瞳、そして、じっとこちらを見ている。
「ひょえっ!?」
麻斗は情けない声をあげながら尻もちをついた。砂埃が舞い、ランドセルがゴトンと揺れる。
「なになに!?これ幽霊じゃん!!」
慌てて立ち上がり、ズボンについた砂を払いながら周囲を見渡す。
怖い。でも、怖いけど、気になって仕方ない。
「……ぃ、冷たい…怖い…助けて…」
再び、井戸から声がする。
か細く、かすれて、訴えるように。
「優斗!声するよな、なんだろう?」
麻斗が振り返ると、優斗はまだ井戸の少し後ろで立ちすくんでいた。
麻斗の顔には、好奇心と恐怖が入り混じったような色が浮かんでいる。
その時だった。
井戸の中から、ゆっくりと――静かに、何かが伸びてくる。
濡れているような、痩せた腕。その“それ”は、すぐそばにいる麻斗ではなく、後ろに立つ優斗に向かって、真っ直ぐに、まっすぐに伸びていった。
麻斗は目を見開いた。
すぐさま優斗の腕を掴んで、自分の方へと引き寄せようとする。
「だめだ、兄ちゃん危ない! こっち来て!」
だが、優斗は麻斗の手を静かに振りほどいた。
そのまま、まるで井戸の闇の奥に心を奪われたかのように――じっと、その先を見つめていた。
「優斗……?」
その目は焦点が合っていなかった。
遠く、遥か彼方、記憶の底を見つめるような光を湛えていた。
そして、かすれるような低い声が、優斗の口から漏れる。
「……あれは、ただの幽霊じゃない。俺、見たことある」
「えっ?」
麻斗が息をのむ中、優斗は井戸を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「何年も前に…父さんと母さんが言ってた。『このあたりにいる、忘れられた霊』って」
その言葉を聞いた瞬間、麻斗の胸に不安が広がっていく。
優斗の表情には、珍しく――いや、見たことのないほどの、深い恐れが滲んでいた。
「それって…どういう…」
その時だった。
「……冷たい……ずっと……ずっと……」
井戸の中から、低く歪んだ声が響いた。
ぞわりと、空気が凍りつく。
麻斗は思わず一歩、後ろに下がる。
「兄ちゃん!ここはやばいって!帰ろうよ!早く!」
その叫びと同時に――再び、井戸の中から黒い手が伸びた。
今度は、ためらいもなく優斗の腕を掴む。
霊的な力が絡みつくように優斗の身体を引き寄せ、井戸へと引きずり込もうとする。
「う……っ!」
優斗は驚き、恐怖に顔をゆがめながらも、なんとかその手を振り払おうとする。
だが、足元がふらつき、体のバランスが崩れる。
「優斗!!」
麻斗が叫び、必死でその手を掴む。
二人の間に、冷たい風が吹き荒れる。
まるでこの場全体が、霊の圧に支配されたかのようだった。
麻斗の体が震え始める。
(ダメだ…このままじゃ……!)
何かが、自分の内側で蠢いた。
麻斗の体の奥から、熱のようなものが込み上げてくる。
気づけば、麻斗の手から淡い光がにじみ、優斗を捕らえた黒い手に向かって弾け飛んだ。
「っ……!」
黒い手は霧のように崩れ、消え去った。
井戸の奥から、怒りと苦しみが混じったような、異様な叫び声が響く。
静寂。
その中に、麻斗は立ち尽くしていた。
「……俺、なんで……?」
手のひらを見つめる。そこに、さっきの波長の感覚がまだ微かに残っていた。
優斗が、ゆっくりと立ち上がる。
肩をすくめ、ふっと息を吐いて言った。
「……あれ、俺のせいだ」
「え?」
「俺が……引き寄せたんだ。あの手も、声も、全部……俺に、反応してた」
その顔には、怯えよりも、理解し始めた者の静けさがあった。
そして、それは――これまで無意識に見ないふりをしていた“自分の力”と、初めてちゃんと向き合った瞬間でもあった。
「な、に言ってんだよ……」
麻斗は胸を押さえるように手を当て、荒れた呼吸を整える。
心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
それでも、声は震えなかった。
「何言ってんだよ……ここに優斗を連れてきたのは、俺だろ……」
自分の足で来て、自分で覗き込んで、好奇心で突っ込んだ。
兄貴を、危ない目に遭わせたのは――
「俺だよ、俺が勝手にここに来たんだ。優斗が引き寄せたわけじゃない。……俺のせいだって!」
感情が混ざり合い、どうしようもなく口をついて出る。恐怖も、怒りも、後悔も全部、ひとつに絡まって。
その視線の先で、優斗はわずかにうつむいていた。唇がかすかに震える。眉根が寄り、目元には滲むような苦しさがあった。
「でも、俺が……何も知らないうちに……」
ぽつりと漏れた声は、普段の冷静な優斗のそれではなかった。
もっと、人間くさくて、痛みを抱えた、脆い声だった。
優斗は――自分の中の“力”が、いつの間にか大切な弟を危険に巻き込んだことに、気づいていた。その力を制御できなかったことが、何よりも怖いのだろう。
「だからって……俺がどうすればいいんだよ!」
麻斗の声が、少しだけ荒れた。
怒っているのは、優斗じゃなく、自分自身にだ。
「俺が……俺が悪いのかよ……!」
その叫びに、優斗はしばらく黙っていた。
けれど、やがてゆっくりと首を横に振る。
「違う、麻斗」
その声は、静かで、まっすぐだった。
「俺は……ただ、自分の力に気づいただけだ。引き寄せる力も、霊に影響を与える体質も、全部、俺の中にある」
真っ直ぐな言葉に、麻斗は一瞬、息を呑んだ。
「でも、それって……」
「……お前に頼ってばかりじゃダメだって、思った。だから……」
優斗が顔を上げる。
その目に、確かな決意が灯っていた。
「俺も、ちゃんと向き合うよ。この力と――俺自身と」
その瞳に映るのは、もう井戸の闇ではなかった。自分を知り、自分で立とうとする、兄の目。
麻斗は、そんな優斗の表情に、しばらく言葉が出なかった。
「兄ちゃんは悪くないよ…」
麻斗はそう言って、ちらりと優斗に目を向けると、再び井戸へと視線を戻した。
「井戸、もう一回調べるわ。あの声……助けを求めてるような感じだったさ」
優斗が何かを言いかけるが、麻斗はそれを制するように手を上げた。
「兄ちゃんはここにいて。…もう、危ない思いさせたくないから」
その言葉に、優斗は何も言い返さなかった。ただ、弟の背中をじっと見つめていた。
麻斗は井戸に再び近づき、慎重に身を屈める。井戸の中は相変わらず暗く、冷たい空気がゆらゆらと揺れている。
その奥――目が慣れるにつれて、再び“それ”が見えてきた。
少女の霊だった。
透けた輪郭に、寂しそうな表情。
どこか怯えているようで、けれどずっと誰かを待っていたような、そんな顔だった。
「……」
麻斗の目が、ふとあるものに気づく。
井戸の底、泥と水にまみれながらも、丁寧に着飾られた人形が転がっていた。
(…人形?)
ボロボロだけど、きっと大切にされていたんだろう。リボンも解けかけて、布地はすっかり色褪せている。
けれど、そこには確かに――“想い”が残っていた。
「井戸の中に、女の子の霊がいた……」
麻斗はそっとつぶやくように、背後の兄へと声をかけた。
「優斗、もしかしてこれ……あの子が落としたんじゃない? 人形を拾いに行こうとしたのかも」
背後から、優斗の足音が一歩だけ近づいた。
けれど、彼はそこから先には来なかった。
弟の言葉と、その瞳に込められた決意を――信じていたから。
麻斗は深く息を吐いた。
ゆっくりと、もう一度井戸の中へと目を凝らす。
少女の霊が、そこにいた。
暗い井戸の底で、ただじっと立ち尽くしている。
表情は、苦しさを堪えるように歪み、けれどどこか――哀しげで。その目が、真っすぐにこちらを見上げていた。
「……あの人形、絶対になんかあるよな」
麻斗の声は、どこか震えていた。
ただの飾り物じゃない。使い込まれて、何度も抱かれた跡があって。
大事にされていたことが、あのボロボロの姿から逆に伝わってくる。
「この子、もしかしたら……」
優斗が言いかけたところで、麻斗が言葉を重ねた。
「うん。あの子、ここに落として……で、戻ってきたんじゃないか?」
それが、始まりだったのかもしれない。
ただの落とし物。けれど、子供にとっては“命”のように大事なものだった。
「でも、それなら……なんで? 本当に、それだけの理由で?」
優斗の声には、静かな疑問が滲んでいた。
あの霊が井戸に囚われている理由。
もし、本当にただ人形を拾おうとして落ちたのなら、なぜ、こんなにも強く、ここに縛られているのか。
沈黙が落ちた。
麻斗は、井戸の中を見つめたまま、何かを感じ取ろうとするように眉を寄せていた。
そして――顔を上げ、優斗に言った。
「多分、ただの事故じゃない。……この井戸に入って、あの人形を拾い上げようとして……力尽きたんじゃないか」
その声は、どこか確信めいていた。
そして、彼の言葉に呼応するかのように、井戸の中からふわりと霊気が舞い上がる。
空気が一段と冷たくなった。
優斗は身をこわばらせながら、その気配を肌で感じていた――あの霊は、まだ何かを伝えたがっている。
ただ、手を伸ばして助けてほしいというよりも、その“想い”ごと、拾い上げてほしいと、そう訴えているように感じた。
「兄ちゃん、入る」
麻斗が、決意を口にした。
それは、怖がりでも無謀でもなく、ただまっすぐな“誰かを助けたい”という気持ちから出た言葉だった。
「あの人形、取ってみる」
麻斗は短くそう言うと、迷いなく井戸へ向かって歩き出した。傍らにいる優斗が何かを言いかけるより早く、井戸の縁に手をかける。
ぬるり――
石の表面は、湿っていて気味の悪い冷たさが指にまとわりついた。
井戸は深い。
下に降りることはできそうだが、一人で登ってくるのは厳しい高さだった。
けれど、麻斗の足は止まらない。
「待って、麻斗!」
優斗の声が響いた瞬間――
(心配ないって! こうして俺たちにはテレパシーもあるしな!兄ちゃんが後で助けてくれ!)
麻斗は、頭の中で優斗に向けて思考を飛ばす。物心ついた時から使っていた、双子だけの特別な通話手段。
声では届かなくても、心なら通じる。それが、ふたりの絆だった。
井戸の内壁に手を添え、慎重に足をかけていく。指先に絡みつくぬめりに、思わず顔をしかめた。
「うっ…ひんやりするな…」
足元から、かすかに水音が響いてくる。
涸れたはずの井戸に、なぜか湿った音が残っていた。
そして、目を凝らす。
――あった。
薄闇の中、泥にまみれながらも、それでも存在感を放つ人形。
ぼろぼろになったドレス、解けかけたリボン、だが大切にされた痕跡がそのまま残っている。何より、その姿が、悲しみを語っていた。まるで、“ここにいる理由”を訴えかけるかのように。
(優斗、あの人形、取ってみるから、ちょっと待っててな)
麻斗の中から、自然と優斗へのテレパシーが送られる。の奥に響く、その感覚はとても温かく、いつも隣にいる安心を与えてくれる。
(わかった。でも無理はしないで。何かあったらすぐに言えよ)
優斗の声が返ってくる。静かで、でもしっかりと麻斗を支えてくれる声だった。
(大丈夫だよ!なんとかなる!)
小さく笑うように、麻斗は気持ちを奮い立たせる。一歩、また一歩――ゆっくりと井戸の中へと踏み込んでいく。
そして、その時。
どこからともなく、冷たい風が頬を撫でた。
「……冷たい……助けて……」
背筋に冷気が這い上がる。
声は少女のものだ。けれど、その響きは現実の音ではなく、心に直接訴えてくるような感覚だった。
麻斗は一瞬、足を止める。
けれど、すぐに目を閉じ、深く息を吸って、再び前へと進んだ。
(大丈夫。俺が、助ける)
その想いだけを胸に――麻斗は、井戸の奥へと手を伸ばした。
突然だった。
井戸の中――視界が、すべて黒に染まった。
まるで夜そのものが落ちてきたかのように、麻斗の周囲は闇に包まれる。冷たい風がひゅうっと吹き抜け、背筋をざわつかせたその瞬間。
黒い影が、目の前で蠢いた。
その影は形を取り始める。
浮かび上がるのは、あの少女の霊。
けれど――その姿は、もう“あの子”ではなかった。
怨念に塗れ、歪んでしまった顔。
絡まる黒髪の隙間から覗く瞳には、哀しみと狂気と怒りが入り混じっていた。
「私を……忘れたくせに!!!」
耳を裂くような叫びが、麻斗の頭の中に響く。声は一方向からではない。井戸の壁、空気、影、そのすべてから響いてくるようだった。
「助けてって……言ったのに!」
痛みが、心の奥に突き刺さる。
その声は、罵声ではなく――悲鳴だった。
どこにも届かず、誰にも拾われず、置き去りにされた、ひとりぼっちの叫び。
「誰も助けてくれなかった!!!」
少女の霊が、震えながら麻斗に手を伸ばしてくる。その指先が触れそうになるたび、麻斗の身体がじわりと凍っていく。
空気が重い。
霊気が、心に絡みつく。
怒りと絶望が、麻斗を締めつけるように押し寄せてくる――逃げられない。
足はすくみ、身体は動かない。
目の前の霊の表情が、恐ろしくも哀れで、視線を逸らすこともできなかった。
(……優斗!)
必死に、心で叫ぶ。
頭の中でテレパシーを飛ばそうとする。
でも、霊の怒りが強すぎて、麻斗の思考すらかき消されていく。
まるでこの空間ごと、彼の“声”を飲み込んでいくかのように。
(麻斗!)
脳内に鋭く響いた声――優斗だった。
次の瞬間、井戸の上から現実の声が飛ぶ。
「麻斗に……手を出すなよ!!」
その叫びに、少女の霊が一瞬ピタリと動きを止める。ゆらりと視線を上へ。まるで優斗の存在を“思い出した”かのように、彼女の怒りの矛先が僅かに揺らいだ。
そして――
麻斗を取り巻いていた怨念が、まるで吸い寄せられるように優斗へ向かって移動し始めた。
霊気が揺らぎ、空気が軽くなる。
その一瞬を、麻斗は見逃さなかった。
井戸の底にある人形へと、手を伸ばす。
泥にまみれ、冷たく濡れた人形。
その感触は、恐怖の象徴のようでありながら――同時に、何かを終わらせる鍵にも思えた。
「覚えとくよ……お前も、人形もさ」
ふと小さく漏らしたその声に、ふわりと退魔の波長がにじむ。それに呼応するように、少女の霊から漏れていた怨念がふわりとほどけていく。
怨霊の表情に、一瞬――ほんの少し、安堵の影が浮かんだように見えた。
そして彼女は、光の粒のように溶けて、静かに消えていった。
霊が消えたあとの井戸の底。
そこにあったのは、人形と、そして――白骨化した少女の遺体。
小さな身体は、朽ちた人形を抱くように横たわっていた。
死後長い時間が経っている。
けれど、その理由が、今ようやく届いた気がした。
(これで……やっと、安らかに眠れるかな)
麻斗は心の中でそうつぶやいた。
だが次の瞬間――
「…ぎゃぁぁあ! 骨!こわ!! にいちゃーん!!助けて!!」
静寂をぶち壊す叫び声。
麻斗は人形を片手に、必死に井戸の壁を登ろうとするが――
ズルッ!バシャッ!
ぬめった石の感触に手が滑り、見事に転げ落ちる。
「うっわ!なにこれ、ヌルヌルしてる! 絶対無理だって!!」
足をバタバタ、手をジタバタ、井戸の中で完全にパニック。
そんな弟の様子を見下ろしながら、優斗は思わず吹き出した。
「ほんと……お前は……」
呆れながらも、その口元には優しい笑み。
麻斗は懸命に手を伸ばしながら、再びずるりと滑っていく。
「ロープ持ってくるから、待ってて」
優斗は小さく肩をすくめながら、井戸の外へと歩き出した。
(置いてかないで!兄ちゃーーーん!)
(戻ってくるって言ってるだろ…)
情けない弟からのテレパシーに返事しながら歩く。
それは、すべてが終わったことを告げるような、静かで穏やかな歩みだった。
◆ ◆ ◆
現在——空き地に、涼しい風が吹き抜ける。
優斗は手を合わせたまま、静かに目を閉じていた。
隣で、麻斗がぽつりとつぶやく。
「…あのときさ、俺の中で何かがグワッて動いて…よくわかんなかったけど、今思えば、あれが“退魔の波長”だったんかなって」
優斗は目を開け、うっすらと笑う。
「僕も……あの時、初めてちゃんと“惹魔体質”を自覚した気がする。
対処法なんて、あの頃は“話し合い”と“逃げる”くらいしかなかったけど」
ふたりの間に、自然な笑いがこぼれる。
けれどその笑いには、過去を受け入れたからこその、柔らかさがあった。
麻斗は手を合わせて、そっと地面に頭を下げた。
「俺、ちゃんと覚えとくよ。あの子のことも、人形のことも、あの井戸のこともさ」
「うん。僕も」
夕暮れの空に、風がふわりと舞う。
「……あー、今日雨だっけ?兄ちゃん、傘持ってんの?」
「持ってるよ。梅雨の時期なんだから麻斗も持っときなよ」
麻斗が笑い、優斗が肩をすくめる。
ふたりは並んで歩き出す。
その背中は、昔よりも少しだけ、大人びて見えた。
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