第12話 【過去編】空き家の井戸

 痕跡ひとつない空き地に、ひかるたちとの記憶だけを残して花を供えたあと——

麻斗がふと、つぶやくように言った。


「なあ、兄貴。俺ら、昔からこういうのばっかだったよな。気づいたら変なのに首突っ込んで、兄貴に相談してさ」


 優斗は少しだけ目を細めて、空を見上げる。


「……そうだね。あの頃は、今みたいに“どう向き合えばいいか”なんて、分からなかったけど」

「うん。たとえば……あの空き家の井戸のときとか」


 ◆ ◆ ◆


 夕焼けに照らされて、ランドセルの群れがわいわいと家路につく。麻斗もその中のひとり。


「なあ、次のボスってさ、火に弱いってマジ?」

「うっそ、おれ水属性で行ったぞ?」


 友達の話題はゲームのモンスター討伐で盛り上がっていたけれど、麻斗の足がふと止まった。


「……あ?」


 視線の先。そこには一軒の空き家がぽつりと佇んでいた。

 ボロボロに崩れかけた瓦屋根、割れたガラス越しに見える真っ暗な室内。庭には雑草が好き放題に生えていて、建物の輪郭さえ霞むほどだった。表札も、気配も、何もない。ただ、その場にあるだけ――のはずだった。


「なあ、なんかやばくね?」


 思わず口をついた言葉に、友達が振り返る。


「なんだよ、ただの空き家だろ!」

「麻斗、また脅かして〜」


 けらけらと笑いながら、彼らは再びモンスター討伐の話に夢中になっていく。

 でも、麻斗の目は、もっと奥――敷地の隅にある、小さな涸れ井戸に引き寄せられていた。

 朽ちた木の板で無造作に蓋をされたそれは、まるで「見ないで」と言いたげに、ひっそりとうずくまっている。なのに、見てしまった瞬間から、背筋を冷たいものが這う。


(うわ……やば。あれ、絶対なんかいる)


 ゾワゾワと皮膚が泡立つ。でも、不思議と怖くなかった。いや――怖い。でも、それ以上に、見てみたい。感じてみたい。

 生まれつき持っていた“それ”が、ざわつく。好奇心と、霊感がくすぐり合うように。


(うーん、兄ちゃんに相談してみようかな…)


 こういう時は、優斗の出番だ。冷静で頭が良くて、ちゃんと話を聞いてくれる。兄貴で、パートナーで――頼れる存在。

 そんな考えが浮かぶと、麻斗は友達に軽く手を振って、早足で帰路を急いだ。

 まだ、あの井戸が何かを“待っている”ことも知らずに。

 ランドセルを放り出すように家に戻ると、麻斗はすぐに優斗を引っ張り出した。


「とにかく来て!兄ちゃん、絶対なんかいるんだって!」

「……はあ。行き先くらい言ってよ」


 優斗は相変わらずの冷静さで、けれど弟の顔が本気だとわかると、それ以上は何も言わずついてきてくれた。

 歩きながら、麻斗は頭の中に地図を描いた。帰り道の曲がり角、コンビニの前を過ぎて、空き家のある裏通りへと向かう。

 そして――たどり着いた。


「ここ…」


 そこはさっきと変わらないはずの空き家だった。けれど、麻斗はすぐに気づいた。

 ――空気が、違う。

 視界の端で、草が風もないのにざわりと揺れた。空き家の奥、あの井戸。朽ちた木の板の下から、何かが――じっと、こちらを見ている。いや、違う。見ているのは…兄貴のほう。


「違う……さっきは、こんなんじゃ……」


 全身の産毛が逆立つような悪寒が背中を走る。

 井戸からにじみ出す気配が、優斗に向かって“惹き寄せられている”。まるで、ずっと待っていたかのように、そこにいる“何か”が優斗に気づいた瞬間、一気にその気配が濃くなった。

 麻斗の喉がひくりと鳴る。

 ――そうだ、小さい頃から、優斗は幽霊に好かれやすかった。

 いつも見えないはずのものに囲まれて、泣いたり、震えたりしていた。


「……っ」


 麻斗は拳を握りしめた。

 怖い。怖いに決まってる。けれど、それ以上に、あの井戸が気になって仕方なかった。


(なんだよ、あれ……)


 まるで、そこに何か“本物”があると、自分の中の何かが警鐘を鳴らしている気がした。

 そして、その横で優斗が、じっと井戸を見つめていた――まるで、向こうの何かと、もう“通じてしまっている”ように。

 優斗は、井戸の方をじっと見つめたまま、まるで時間が止まったかのように動かない。


「兄ちゃん……?」


 麻斗が不安げに声をかける。けれど、優斗はその声に反応せず、ふっと目を細めた。


「……動いてる。あの板の下……なにかが、いる」


 空気が、きゅうっと冷え込んだ気がした。

 真夏の午後のはずなのに、吐く息が白くなりそうなほどの寒気。


「兄ちゃん、やっぱ帰ろう。ここ、やばい。さっきよりずっと、やばいって……!」


 焦りに似た声で麻斗が言っても、優斗はその場から動こうとしない。

 むしろ、吸い寄せられるように――まるで井戸の底から呼ばれているかのように、一歩、また一歩と歩み寄っていく。


(なんで…なんで止まらねえんだよ兄ちゃん)


 鳥肌が止まらない。冷たい風が吹いたような気がして、麻斗は咄嗟に優斗の腕を掴んだ。


「やめろってば!!」


 その瞬間だった。

 ――バンッ!!

 乾いた破裂音と共に、井戸の蓋が跳ね上がる。板の隙間から、ぬらりと現れたのは――真っ黒な、手。

 霧のようで、それでも異様に生々しい、人間とも獣ともつかない“何か”の腕。


「……っ!!」


 その手が、優斗に向かって一直線に伸びてくる。麻斗は、反射的に身体を滑り込ませた。


「兄ちゃんを連れてくな!!」


 黒い手が、麻斗の肩に触れた――瞬間、空気がはじけるような音がして、その手は霧のように消えてしまった。


「……?」


 麻斗は眉を寄せながら、自分の手で優斗を抱き寄せるようにして立ち尽くした。


「なんかいるよここ。俺、行ってくる!」


 瞳の奥が、火を灯したように輝く。

 怖くないわけじゃない。それでも、目の前で兄貴を狙われたまま、黙っていられるわけがない。

 退魔の波長が、ぞわりと麻斗の背中から立ち昇った。


「麻斗、待っ――」


 優斗の声が背後で響いた時には、麻斗はもう井戸に向かって駆け出していた。


「ちょっ、麻斗!!」


 優斗の鋭い声も、もう麻斗の耳には届いていなかった。鼓動が速くなるのを感じながら、まっすぐ井戸へと駆け寄る。

 近づくごとに、頭の奥でキーンという耳鳴りのような音が響き始めた。

 ぞわりと首筋を撫でるような気配。

 木の板は、先ほど跳ね上がったまま少しずれていて、闇の底がちらりと覗いていた。

 麻斗はしゃがみ込み、そっと顔を近づける。

 のぞいた井戸の中は、まるで吸い込まれるように深い闇だった。

 底など見えない。ただ、どこまでも、どこまでも暗い。


(なんだこれ……気持ち悪っ)


 そう思った瞬間だった。


「……たすけて」


 微かな声が、闇の奥から届いた。

 小さな、女の子のような、弱々しい声。


「え……?」


 思わず麻斗は身を乗り出した。

 その時――ガクン。

 急に重力が引き戻されたような感覚と同時に、目の前に“それ”が現れた。

 井戸の闇の中から、すうっと――白い顔が、ぬるりと浮かび上がる。

 血の気のない肌、虚ろな瞳、そして、じっとこちらを見ている。


「ひょえっ!?」


 麻斗は情けない声をあげながら尻もちをついた。砂埃が舞い、ランドセルがゴトンと揺れる。


「なになに!?これ幽霊じゃん!!」


 慌てて立ち上がり、ズボンについた砂を払いながら周囲を見渡す。

 怖い。でも、怖いけど、気になって仕方ない。


「……ぃ、冷たい…怖い…助けて…」


 再び、井戸から声がする。

 か細く、かすれて、訴えるように。


「優斗!声するよな、なんだろう?」


 麻斗が振り返ると、優斗はまだ井戸の少し後ろで立ちすくんでいた。

 麻斗の顔には、好奇心と恐怖が入り混じったような色が浮かんでいる。

 その時だった。

 井戸の中から、ゆっくりと――静かに、何かが伸びてくる。

 濡れているような、痩せた腕。その“それ”は、すぐそばにいる麻斗ではなく、後ろに立つ優斗に向かって、真っ直ぐに、まっすぐに伸びていった。

麻斗は目を見開いた。

 すぐさま優斗の腕を掴んで、自分の方へと引き寄せようとする。


「だめだ、兄ちゃん危ない! こっち来て!」


 だが、優斗は麻斗の手を静かに振りほどいた。

 そのまま、まるで井戸の闇の奥に心を奪われたかのように――じっと、その先を見つめていた。


「優斗……?」


 その目は焦点が合っていなかった。

 遠く、遥か彼方、記憶の底を見つめるような光を湛えていた。


 そして、かすれるような低い声が、優斗の口から漏れる。


「……あれは、ただの幽霊じゃない。俺、見たことある」


「えっ?」


 麻斗が息をのむ中、優斗は井戸を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「何年も前に…父さんと母さんが言ってた。『このあたりにいる、忘れられた霊』って」


 その言葉を聞いた瞬間、麻斗の胸に不安が広がっていく。

 優斗の表情には、珍しく――いや、見たことのないほどの、深い恐れが滲んでいた。


「それって…どういう…」


 その時だった。


「……冷たい……ずっと……ずっと……」


 井戸の中から、低く歪んだ声が響いた。

 ぞわりと、空気が凍りつく。


 麻斗は思わず一歩、後ろに下がる。


「兄ちゃん!ここはやばいって!帰ろうよ!早く!」


 その叫びと同時に――再び、井戸の中から黒い手が伸びた。

 今度は、ためらいもなく優斗の腕を掴む。

 霊的な力が絡みつくように優斗の身体を引き寄せ、井戸へと引きずり込もうとする。


「う……っ!」


 優斗は驚き、恐怖に顔をゆがめながらも、なんとかその手を振り払おうとする。

 だが、足元がふらつき、体のバランスが崩れる。


「優斗!!」


 麻斗が叫び、必死でその手を掴む。

 二人の間に、冷たい風が吹き荒れる。

 まるでこの場全体が、霊の圧に支配されたかのようだった。

 麻斗の体が震え始める。


(ダメだ…このままじゃ……!)


 何かが、自分の内側で蠢いた。

 麻斗の体の奥から、熱のようなものが込み上げてくる。

 気づけば、麻斗の手から淡い光がにじみ、優斗を捕らえた黒い手に向かって弾け飛んだ。


「っ……!」


 黒い手は霧のように崩れ、消え去った。

 井戸の奥から、怒りと苦しみが混じったような、異様な叫び声が響く。

 静寂。

 その中に、麻斗は立ち尽くしていた。


「……俺、なんで……?」


 手のひらを見つめる。そこに、さっきの波長の感覚がまだ微かに残っていた。

 優斗が、ゆっくりと立ち上がる。

 肩をすくめ、ふっと息を吐いて言った。


「……あれ、俺のせいだ」

「え?」

「俺が……引き寄せたんだ。あの手も、声も、全部……俺に、反応してた」


 その顔には、怯えよりも、理解し始めた者の静けさがあった。

 そして、それは――これまで無意識に見ないふりをしていた“自分の力”と、初めてちゃんと向き合った瞬間でもあった。


「な、に言ってんだよ……」


 麻斗は胸を押さえるように手を当て、荒れた呼吸を整える。

 心臓が、痛いくらいに鳴っていた。

 それでも、声は震えなかった。


「何言ってんだよ……ここに優斗を連れてきたのは、俺だろ……」


 自分の足で来て、自分で覗き込んで、好奇心で突っ込んだ。

 兄貴を、危ない目に遭わせたのは――


「俺だよ、俺が勝手にここに来たんだ。優斗が引き寄せたわけじゃない。……俺のせいだって!」


 感情が混ざり合い、どうしようもなく口をついて出る。恐怖も、怒りも、後悔も全部、ひとつに絡まって。

 その視線の先で、優斗はわずかにうつむいていた。唇がかすかに震える。眉根が寄り、目元には滲むような苦しさがあった。


「でも、俺が……何も知らないうちに……」


 ぽつりと漏れた声は、普段の冷静な優斗のそれではなかった。

 もっと、人間くさくて、痛みを抱えた、脆い声だった。

 優斗は――自分の中の“力”が、いつの間にか大切な弟を危険に巻き込んだことに、気づいていた。その力を制御できなかったことが、何よりも怖いのだろう。


「だからって……俺がどうすればいいんだよ!」

 

 麻斗の声が、少しだけ荒れた。

 怒っているのは、優斗じゃなく、自分自身にだ。


「俺が……俺が悪いのかよ……!」


 その叫びに、優斗はしばらく黙っていた。

 けれど、やがてゆっくりと首を横に振る。


「違う、麻斗」


 その声は、静かで、まっすぐだった。


「俺は……ただ、自分の力に気づいただけだ。引き寄せる力も、霊に影響を与える体質も、全部、俺の中にある」


 真っ直ぐな言葉に、麻斗は一瞬、息を呑んだ。


「でも、それって……」

「……お前に頼ってばかりじゃダメだって、思った。だから……」


 優斗が顔を上げる。

 その目に、確かな決意が灯っていた。


「俺も、ちゃんと向き合うよ。この力と――俺自身と」


 その瞳に映るのは、もう井戸の闇ではなかった。自分を知り、自分で立とうとする、兄の目。

 麻斗は、そんな優斗の表情に、しばらく言葉が出なかった。


「兄ちゃんは悪くないよ…」


 麻斗はそう言って、ちらりと優斗に目を向けると、再び井戸へと視線を戻した。


「井戸、もう一回調べるわ。あの声……助けを求めてるような感じだったさ」


 優斗が何かを言いかけるが、麻斗はそれを制するように手を上げた。


「兄ちゃんはここにいて。…もう、危ない思いさせたくないから」


 その言葉に、優斗は何も言い返さなかった。ただ、弟の背中をじっと見つめていた。

 麻斗は井戸に再び近づき、慎重に身を屈める。井戸の中は相変わらず暗く、冷たい空気がゆらゆらと揺れている。

 その奥――目が慣れるにつれて、再び“それ”が見えてきた。

 少女の霊だった。

 透けた輪郭に、寂しそうな表情。

 どこか怯えているようで、けれどずっと誰かを待っていたような、そんな顔だった。


「……」


 麻斗の目が、ふとあるものに気づく。

 井戸の底、泥と水にまみれながらも、丁寧に着飾られた人形が転がっていた。


(…人形?)


 ボロボロだけど、きっと大切にされていたんだろう。リボンも解けかけて、布地はすっかり色褪せている。

 けれど、そこには確かに――“想い”が残っていた。


「井戸の中に、女の子の霊がいた……」


 麻斗はそっとつぶやくように、背後の兄へと声をかけた。


「優斗、もしかしてこれ……あの子が落としたんじゃない? 人形を拾いに行こうとしたのかも」


 背後から、優斗の足音が一歩だけ近づいた。

 けれど、彼はそこから先には来なかった。

 弟の言葉と、その瞳に込められた決意を――信じていたから。

 麻斗は深く息を吐いた。

 ゆっくりと、もう一度井戸の中へと目を凝らす。

 少女の霊が、そこにいた。

 暗い井戸の底で、ただじっと立ち尽くしている。

 表情は、苦しさを堪えるように歪み、けれどどこか――哀しげで。その目が、真っすぐにこちらを見上げていた。


「……あの人形、絶対になんかあるよな」


 麻斗の声は、どこか震えていた。

 ただの飾り物じゃない。使い込まれて、何度も抱かれた跡があって。

 大事にされていたことが、あのボロボロの姿から逆に伝わってくる。


「この子、もしかしたら……」


 優斗が言いかけたところで、麻斗が言葉を重ねた。


「うん。あの子、ここに落として……で、戻ってきたんじゃないか?」


 それが、始まりだったのかもしれない。

 ただの落とし物。けれど、子供にとっては“命”のように大事なものだった。


「でも、それなら……なんで? 本当に、それだけの理由で?」


 優斗の声には、静かな疑問が滲んでいた。

 あの霊が井戸に囚われている理由。

 もし、本当にただ人形を拾おうとして落ちたのなら、なぜ、こんなにも強く、ここに縛られているのか。

 沈黙が落ちた。

 麻斗は、井戸の中を見つめたまま、何かを感じ取ろうとするように眉を寄せていた。

 そして――顔を上げ、優斗に言った。


「多分、ただの事故じゃない。……この井戸に入って、あの人形を拾い上げようとして……力尽きたんじゃないか」


 その声は、どこか確信めいていた。

 そして、彼の言葉に呼応するかのように、井戸の中からふわりと霊気が舞い上がる。

 空気が一段と冷たくなった。

 優斗は身をこわばらせながら、その気配を肌で感じていた――あの霊は、まだ何かを伝えたがっている。

 ただ、手を伸ばして助けてほしいというよりも、その“想い”ごと、拾い上げてほしいと、そう訴えているように感じた。


「兄ちゃん、入る」


 麻斗が、決意を口にした。

 それは、怖がりでも無謀でもなく、ただまっすぐな“誰かを助けたい”という気持ちから出た言葉だった。


「あの人形、取ってみる」


 麻斗は短くそう言うと、迷いなく井戸へ向かって歩き出した。傍らにいる優斗が何かを言いかけるより早く、井戸の縁に手をかける。

 ぬるり――

 石の表面は、湿っていて気味の悪い冷たさが指にまとわりついた。

 井戸は深い。

 下に降りることはできそうだが、一人で登ってくるのは厳しい高さだった。

 けれど、麻斗の足は止まらない。


「待って、麻斗!」


 優斗の声が響いた瞬間――


(心配ないって! こうして俺たちにはテレパシーもあるしな!兄ちゃんが後で助けてくれ!)


 麻斗は、頭の中で優斗に向けて思考を飛ばす。物心ついた時から使っていた、双子だけの特別な通話手段。

 声では届かなくても、心なら通じる。それが、ふたりの絆だった。

 井戸の内壁に手を添え、慎重に足をかけていく。指先に絡みつくぬめりに、思わず顔をしかめた。


「うっ…ひんやりするな…」


 足元から、かすかに水音が響いてくる。

 涸れたはずの井戸に、なぜか湿った音が残っていた。

 そして、目を凝らす。

 ――あった。

 薄闇の中、泥にまみれながらも、それでも存在感を放つ人形。

 ぼろぼろになったドレス、解けかけたリボン、だが大切にされた痕跡がそのまま残っている。何より、その姿が、悲しみを語っていた。まるで、“ここにいる理由”を訴えかけるかのように。


(優斗、あの人形、取ってみるから、ちょっと待っててな)


 麻斗の中から、自然と優斗へのテレパシーが送られる。の奥に響く、その感覚はとても温かく、いつも隣にいる安心を与えてくれる。


(わかった。でも無理はしないで。何かあったらすぐに言えよ)


 優斗の声が返ってくる。静かで、でもしっかりと麻斗を支えてくれる声だった。


(大丈夫だよ!なんとかなる!)


 小さく笑うように、麻斗は気持ちを奮い立たせる。一歩、また一歩――ゆっくりと井戸の中へと踏み込んでいく。

 そして、その時。

 どこからともなく、冷たい風が頬を撫でた。


 「……冷たい……助けて……」


 背筋に冷気が這い上がる。

 声は少女のものだ。けれど、その響きは現実の音ではなく、心に直接訴えてくるような感覚だった。

 麻斗は一瞬、足を止める。

 けれど、すぐに目を閉じ、深く息を吸って、再び前へと進んだ。


(大丈夫。俺が、助ける)


 その想いだけを胸に――麻斗は、井戸の奥へと手を伸ばした。

 突然だった。

 井戸の中――視界が、すべて黒に染まった。

 まるで夜そのものが落ちてきたかのように、麻斗の周囲は闇に包まれる。冷たい風がひゅうっと吹き抜け、背筋をざわつかせたその瞬間。

 黒い影が、目の前で蠢いた。

 その影は形を取り始める。

 浮かび上がるのは、あの少女の霊。

 けれど――その姿は、もう“あの子”ではなかった。

 怨念に塗れ、歪んでしまった顔。

 絡まる黒髪の隙間から覗く瞳には、哀しみと狂気と怒りが入り混じっていた。


「私を……忘れたくせに!!!」


 耳を裂くような叫びが、麻斗の頭の中に響く。声は一方向からではない。井戸の壁、空気、影、そのすべてから響いてくるようだった。


「助けてって……言ったのに!」


 痛みが、心の奥に突き刺さる。

 その声は、罵声ではなく――悲鳴だった。

 どこにも届かず、誰にも拾われず、置き去りにされた、ひとりぼっちの叫び。


「誰も助けてくれなかった!!!」


 少女の霊が、震えながら麻斗に手を伸ばしてくる。その指先が触れそうになるたび、麻斗の身体がじわりと凍っていく。

 空気が重い。

 霊気が、心に絡みつく。

 怒りと絶望が、麻斗を締めつけるように押し寄せてくる――逃げられない。

 足はすくみ、身体は動かない。

 目の前の霊の表情が、恐ろしくも哀れで、視線を逸らすこともできなかった。


(……優斗!)


 必死に、心で叫ぶ。

 頭の中でテレパシーを飛ばそうとする。

 でも、霊の怒りが強すぎて、麻斗の思考すらかき消されていく。

 まるでこの空間ごと、彼の“声”を飲み込んでいくかのように。


(麻斗!)


 脳内に鋭く響いた声――優斗だった。

 次の瞬間、井戸の上から現実の声が飛ぶ。


「麻斗に……手を出すなよ!!」


 その叫びに、少女の霊が一瞬ピタリと動きを止める。ゆらりと視線を上へ。まるで優斗の存在を“思い出した”かのように、彼女の怒りの矛先が僅かに揺らいだ。

 そして――

 麻斗を取り巻いていた怨念が、まるで吸い寄せられるように優斗へ向かって移動し始めた。

 霊気が揺らぎ、空気が軽くなる。

 その一瞬を、麻斗は見逃さなかった。

 井戸の底にある人形へと、手を伸ばす。

 泥にまみれ、冷たく濡れた人形。

 その感触は、恐怖の象徴のようでありながら――同時に、何かを終わらせる鍵にも思えた。


「覚えとくよ……お前も、人形もさ」


 ふと小さく漏らしたその声に、ふわりと退魔の波長がにじむ。それに呼応するように、少女の霊から漏れていた怨念がふわりとほどけていく。

 怨霊の表情に、一瞬――ほんの少し、安堵の影が浮かんだように見えた。

 そして彼女は、光の粒のように溶けて、静かに消えていった。

 霊が消えたあとの井戸の底。

 そこにあったのは、人形と、そして――白骨化した少女の遺体。

 小さな身体は、朽ちた人形を抱くように横たわっていた。

 死後長い時間が経っている。

 けれど、その理由が、今ようやく届いた気がした。


(これで……やっと、安らかに眠れるかな)


 麻斗は心の中でそうつぶやいた。

 だが次の瞬間――


「…ぎゃぁぁあ! 骨!こわ!! にいちゃーん!!助けて!!」


 静寂をぶち壊す叫び声。

 麻斗は人形を片手に、必死に井戸の壁を登ろうとするが――

 ズルッ!バシャッ!

 ぬめった石の感触に手が滑り、見事に転げ落ちる。


「うっわ!なにこれ、ヌルヌルしてる! 絶対無理だって!!」


 足をバタバタ、手をジタバタ、井戸の中で完全にパニック。

 そんな弟の様子を見下ろしながら、優斗は思わず吹き出した。


「ほんと……お前は……」


 呆れながらも、その口元には優しい笑み。

 麻斗は懸命に手を伸ばしながら、再びずるりと滑っていく。


「ロープ持ってくるから、待ってて」


 優斗は小さく肩をすくめながら、井戸の外へと歩き出した。


(置いてかないで!兄ちゃーーーん!)

(戻ってくるって言ってるだろ…)


 情けない弟からのテレパシーに返事しながら歩く。

 それは、すべてが終わったことを告げるような、静かで穏やかな歩みだった。


◆ ◆ ◆


 現在——空き地に、涼しい風が吹き抜ける。

 優斗は手を合わせたまま、静かに目を閉じていた。

 隣で、麻斗がぽつりとつぶやく。


「…あのときさ、俺の中で何かがグワッて動いて…よくわかんなかったけど、今思えば、あれが“退魔の波長”だったんかなって」


 優斗は目を開け、うっすらと笑う。


「僕も……あの時、初めてちゃんと“惹魔体質”を自覚した気がする。

 対処法なんて、あの頃は“話し合い”と“逃げる”くらいしかなかったけど」


 ふたりの間に、自然な笑いがこぼれる。

 けれどその笑いには、過去を受け入れたからこその、柔らかさがあった。

 麻斗は手を合わせて、そっと地面に頭を下げた。


「俺、ちゃんと覚えとくよ。あの子のことも、人形のことも、あの井戸のこともさ」

「うん。僕も」


 夕暮れの空に、風がふわりと舞う。


「……あー、今日雨だっけ?兄ちゃん、傘持ってんの?」

「持ってるよ。梅雨の時期なんだから麻斗も持っときなよ」


 麻斗が笑い、優斗が肩をすくめる。

 ふたりは並んで歩き出す。

 その背中は、昔よりも少しだけ、大人びて見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る