第13話 濡れ女と相合傘
柊は、目の前に座る依頼人の男を見る。
恰幅のいい中年男性は、眼鏡をあげながら困ったように眉毛を寄せた。
「最近、我が戸張高校の校門に怪しい女性が立っているんです…それは雨の日に決まって現れるんです」
男性は鞄から書類を取り出すと、読み上げるように続けた。
「髪の長い白いワンピースの女…男子生徒の前にのみ現れ、ずぶ濡れの状態で傘に入れてください、家まで送ってくださいと言うらしいんです…そして傘に入れたが最後、飲み込まれる、と…」
男性はそう言うと顔を上げた
「実際、何名か行方不明になっています」
柊は静かに煙草に火をつけ、煙をひと吹き。依頼人の話を最後まで聞き終えると、鼻で笑った。
「……都市伝説じゃなくて、マジモンか。傘に入れたら最後ってのが、実にそれっぽい」
指先で灰を落としながら、柊はぼやくように続けた。
「戸張高校ってのは、確か街の外れにあるとこだよな。裏山に社もある……あー、そうか。あそこ、昔から“濡れ女”の話があるじゃねえか。誰かが祠ぶっ壊したってオチか?」
依頼人の男性は困惑気味に首を傾げた。
「……いえ、特にそういった報告は」
「だよな。最近の奴ら、祟りとか気にしねぇもんな」
灰皿に吸い殻を押し付けながら、柊は立ち上がる。
「ま、行ってみるさ。明日の雨に期待だな」
そう言って薄く笑った柊の背は、煙の匂いと共に部屋を後にした。
「お?依頼?」
境内で修行中の麻斗が、境内を歩く柊に尋ねた。
「…そうだ。濡れ女の依頼だ。校門前に現れて男子生徒にしか声をかけないらしい…相合傘したら最後、持ってかれるって話だ」
柊は少し考えるように言葉を切ると、にやりと笑った。
「男子生徒の前にのみ現れる…お前らにぴったりじゃねえか」
そこに、静かな声が割って入った。
「相変わらず麻斗は騒がしいなあ……」
いつの間にか、境内の石段の上に優斗が立っていた。制服姿のまま、鞄を手に、無表情に麻斗と柊を見下ろしている。
「というか柊叔父さん。戸張高校の生徒の前に現れるんなら、他校の僕らの前には現れないんじゃないんですか?」
「いやいやいやいや!出てくるだろ普通に!!」
麻斗が即座に叫ぶ。
「兄貴、惹魔体質だろ!?怪異に好かれて寄ってこられる体質だろ!?むしろ、他の生徒より確率高いまであるぞ!」
「……まあ、可能性は否定しないけど」
「しれっと言うな!こっちは命懸けなんだよ!」
柊がふっと鼻で笑い、袋から制服を二着取り出す。
「……その可能性も想定して、依頼主の教頭先生から戸張高校の制服を借りてある」
ピシッと畳まれた制服が麻斗と優斗の手に渡された。
「お前らそもそも高校生なんだから、別の学校の制服着てても誰も気にしねえだろ」
「いや本格的すぎない!?てか教頭先生も協力的すぎるだろ!?」
麻斗が制服を受け取りながら呆れたように言うと、優斗が制服を見ながら静かに呟いた。
「サイズ、ちゃんと合ってるね……この辺り、抜かりないなあ」
「兄貴、そういうとこ冷静すぎてちょっと怖い!」
「とりあえず優斗、麻斗、作戦会議するぞ」
そうして夜の柊神社でちゃぶ台を囲んで並ぶ三人。
制服と傘、そして味気ない麦茶が会議の空気をより真面目っぽく見せていた。
「傘に“入れてください”って言ってくるなら、こっちが傘持ってる必要がある。そんで、対象は一人。二人で傘に入るってのは無理がある」
優斗が状況を整理するように話すと、麻斗がうんうんと頷いた。
「だから、俺が囮ってことでいいんじゃね?体力的に余裕あるし、何かあってもぶん殴れるし」
「でも接近してくるのは僕の方が早いと思うよ。体質的に」
「いやだからこそダメだって!お前、怪異に対しても普通に優しいから!『濡れてるの大変ですね』とか言って傘差しそうで怖い!」
「……言うかもしれない」
「素直すぎんだろ!!」
柊がふっと笑った。煙草の先に火をつけると、少し間を置いてから口を開いた。
「どっちが囮かって話だけどな。決めといた方がいい。で、今回は——優斗、お前がやれ」
「……僕?」
「行方不明になった奴らの足取り追うなら、“ギリギリまで傘に入れてみろ”。できるだけ自然に話しかけられて、どこまで連れてかれそうになるか見極める。ぶん殴るのはそれからでいい」
「……ギリギリまで…ってどのへんまで?」
「最低でも、住所聞き出すくらいまでは行け。できれば一緒に歩いてもらえ。なあに、後ろには麻斗がついてんだ。……殴る係な」
「うわああ、最悪のポジションきたあああ!!兄貴のラブホラー見せつけられた後に背後からラリアットとか俺どうすればいいの!?」
「我慢しろ。お前、殴るしかできねぇんだから」
「酷すぎね!?」
優斗は制服に視線を落とし、淡々と呟いた。
「…明日、濡れ女に相合傘で声かけられるために他校の制服着て出勤って、我ながらだいぶアレな状況だよね」
「変なプレイみたいに言うなよ!!」
◆ ◆ ◆
戸張高校の校門前。夕暮れの空に雲が垂れ込め、空気はすでにしっとりと湿っている。
制服姿の優斗は、鞄を手に持ち、校門近くのベンチに腰掛けていた。周囲を行き交う戸張高校の生徒たちにまぎれて、違和感は意外とない。
そして、そのちょっと離れた街路樹の陰には、慣れない制服に着替えた麻斗が背を丸めてしゃがんでいる。
(……なあ兄貴。てかさ、ふつうに今日朝から学校行って、授業受けて、終わって着替えて別の高校で張り込みって……俺らのスケジュール過酷すぎない?)
テレパシーで飛ばされた麻斗の声に、優斗はわずかに目を伏せる。こうして遠くにいても伝わるテレパシーは便利だ。
(……本当にそう思う。疲れた)
(でしょ!?お前が珍しく同意したってことは相当だろ!?)
優斗は静かに辺りを見渡しながら、ポツリと呟いた。
(しかもこれ、幽霊相手の相合傘調査って……よく考えるとかなり意味不明だよね)
(俺らの仕事、もはやジャンル何!?ラブホラー!?教育実習!?どれ!?)
(霊的調査)
(マジメか!!)
麻斗の心の中で全力ツッコミが響いたが、校門前の空気は次第に静けさを増していく。
学生の姿もまばらになり、校舎から漏れる音も消えていく。
重く湿った風が、肌をじっとりと撫でた。
……夕方の空は、もう夜の気配を含みはじめていた。
そして——
ポツッ
右手に持った傘の布地に、一滴の雨粒が落ちた。
優斗はゆっくりと空を仰ぐ。厚い雲。灰色。風は止み、空気が凍るように静かだった。
その視線を下ろしたとき——そこに、“いた”——濡れている。
黒髪が肌に張り付き、白いワンピースは水を吸って重たげに身体のラインに沿っていた。
顔は伏せていて見えない。だが、そこだけ時間が止まったように、生徒たちの流れの外側に立っていた。
「……傘に、入れて……くれますか?」
静かな声。だが耳元で囁かれたように、優斗の背筋を撫でていく。
(……麻斗、来た)
(っ、まじで!?今!?俺まだ足しびれてるってば!!)
麻斗の焦った思考が優斗の脳内に飛び込んでくる。
けれど優斗は表情を崩さず、ただ傘の柄を少しだけ上げた。
「……どうぞ。濡れると風邪を引きますよ」
差し出された傘の下、濡れた女の影がふわりと揺れた。優斗が傘を少し傾けて差し出すと、その女は何の音も立てずに一歩、二歩と優斗の隣へと近づいた。
そして——そのまま、傘の中に、滑り込むように入ってきた。
ぐしょりと濡れたワンピースの裾が、優斗の制服のすそにかすかに触れる。
そのまま彼女は、そっと——本当にそっと、優斗の手に、自分の手を重ねてきた。
濡れて、冷たい。けれど、やけに指先だけが熱を帯びているようだった。
「……私の、家まで、送ってくださいますか?」
顔はまだ伏せたまま。
だけど口元だけが、かすかに笑っているように見えた。
(……麻斗、今話しかけられた。手、重ねられた)
(え、ちょ、待って!?それもうギリギリじゃなくてアウト寄りじゃね!?え、どうする!?兄貴の手、食われたりしない!?)
優斗は微かに唇を引き締めた。だが、声はあくまで冷静。
「もちろん。家まで……ちゃんと、送り届けますよ」
女は、すうっと歩き出した。
水たまりも気にせず、濡れたアスファルトの上を滑るように。
優斗も傘を少し傾け、黙ってその隣を歩く。
その瞬間だった——ヒュウッと風が吹いたわけでもないのに、優斗の身体に、ぞわりと冷たい霊気が絡みつく。
背筋に、じっとりと氷水を這わされたような感覚。心臓が一瞬だけ早鐘を打った。
雨はいつの間にか強くなり、周囲にいた生徒の姿も、もうほとんど見えなくなっていた。
道路には二人分の足音だけが、ポツポツと落ちては消える。
(……今なら、聞ける。何か手がかりを)
優斗が口を開きかけた、その瞬間。
「私ね、イケメンが好きなんです」
横から、まるで雑談でも始めるような、妙に明るい声が降ってきた。
——え?
(……は?)
(は!?)
遠くから麻斗の思考が飛び込んでくる。
(兄貴!?なにそれ!?なに告白されてんの!?怖いの!?ナンパなの!?どっちなの!?)
唐突な告白に、優斗はほんのわずかに目を細めた。
「……ありがとうございます?」
何に対してのお礼なのか、自分でもよくわからなかった。
「あなた、とってもイケメンですよねぇ……顔も整ってて、声もいいし、でもちょっと無表情で冷たい感じもするし……」
女はしっとり濡れながら、どこかうっとりとした声で語り始めた。
そのテンションと背後に渦巻く霊気のギャップがえげつない。
(……麻斗、助けて。なんか思ってたのと違う)
(ちょ待って!!それもうナンパどころか“推し語り”始まってんじゃん!?てか!兄貴それ無言で聞いてたらガチで口説かれて終わるやつじゃん!!)
その時、雨の中から走ってくる足音が一つ——
「おいおいおいおい!!何ラブコメ始めてんだよ!!どの口が“ギリギリまで調査しよう”だよ!!」
びっしょ濡れの戸張制服姿、麻斗が走ってきた。傘はささず、全力ダッシュで突っ込んできた。
「はいそこまでー!!ラブな展開中断!!解散解散!」
「ちょっと!?今いいところだったのに!!」
女が地団駄を踏んだ、その瞬間。
彼女の髪がふわりと広がる。雨で重たく濡れたはずの髪が、不気味な霊気に引っ張られるように宙に舞い——叫んだ。
「死んでからでも恋したってもいいじゃないの!!」
声が、校門に響き渡る。
「恋に遅すぎるは無いって、みんな言ってたじゃない!!」
バッと優斗の方を振り返り、
バッと麻斗の方を睨みつけ、
そして、両手を広げて髪を振り乱しながら構えた!
「邪魔してんじゃねえ!!」
「ギャーッ!!!構えたァァ!?恋に生きるタイプのヤバいやつだーーー!!」
麻斗が一歩引く。優斗はわずかに眉をひそめた。
「……感情が豊かですね」
(兄貴落ち着きすぎィ!?)
女は雨の中、びしょ濡れのワンピースをまといながら二人を交互に見た。そして、ふと何かに気づいたように目を細め——
「……貴方たち、似てるわね……兄弟……いや、双子……?」
一拍の間。
その口元が、ぐいっと吊り上がった。
「アリね…揃って私の家に連れて行ってあげる!」
バサァッ!!
女の濡れた髪が、まるで意思を持つかのようにうねりながら伸び始めた。
今にも優斗と麻斗を巻き込まんと空を裂くように揺れる!だが——
「ちなみに貴方の家はどこですか?」
優斗が冷静に尋ねた。
女はハッとしたように一瞬立ち止まり——
「……もう少し行った先の場所よ……コレクションは、みーんなそこにいるわ」
次の瞬間、優斗がすっと腕を構えた。
「よし、場所は聞き出した。もう祓っていいよ、麻斗」
「兄貴冷静すぎるんだよ!!?」
言い合いの隙に濡れ女の髪がうねる。空中で蛇のように絡まり、二人を包もうと迫る。
だが——その瞬間!
「——行くぞ麻斗!」
「おうよ!!」
優斗が構えた指先に、瞬時に術式の残響が走る。地面に浮かび上がる簡易結界。
その内側に入った瞬間、麻斗の身体からふわっと白い退魔の波長が立ちのぼった。
「調子いいぜ今日の俺!!」
髪の束が麻斗の顔に襲いかかる!
だが彼はしゃがみ込み、地面を蹴って回し蹴りを放つ!
「濡れ女だろうが乾き女だろうが関係ねぇ!!」
空気を裂いた蹴りが髪の束を吹き飛ばす。波長が直撃し、霊気がじりじりと焼け焦げた。
「イヤァァ!!イケメンに蹴られたァ!!」
「やかましい!!」
さらに背後から伸びた髪が優斗の方に伸びる——が、その瞬間、優斗の指が走った。
「——結界、転移」
紙片が一閃、結界がねじれて空間ごとねじる。髪の一部が結界の外に弾かれ、地面を焦がしながら燃えた。
「コレクションって、つまり……貴方に口説かれた男子高校生全員ってことですよね?」
「ええ!みんなイケメンだったのよ!!私、目が肥えてるの!!」
「自慢気に言うな!!」
麻斗が滑り込みながら殴りかかる。
波長の籠った拳が、濡れ女の身体の横を通る——直撃は避けられたが、霊気の膜が削れる。
「今だ優斗!!俺が削ったとこ!」
「——術式・
優斗の声が響き、空間を裂くように光の帯が走った。それはまっすぐ、濡れ女の胸元を貫いた——。
「ぎゃーーー!!!私のコレクションが!!」
びしょぬれの髪が一気にしゅるしゅると縮み、体もかすれていく。
地面に跪くようにして、女は最後にもう一度、振り返った。
「イケメンに……囲まれて……死ぬのも、悪くなかったわ……」
そう言い残し、雨に溶けるようにして、静かにその姿を消していった。
——静寂。
「……これさあ」
麻斗がぼそっと言う。
「恋に真剣な女の人を、殴って祓ったってことになるんじゃね?」
「……それでも、殺されかけてたのは事実だから」
「フォローになってねぇよ兄貴!!!」
戦いのあと。
雨は次第に弱まり、湿った風だけがぬるく吹いていた。
優斗と麻斗は、濡れ女が言っていた「少し行った先」へと足を運ぶ。
戸張高校の裏手。細い道を抜けた先に、ぽっかりと開けた空き地があった。
草が伸び放題になったその場所に——
「……いた」
優斗が呟く。
そこには数人の男子高校生たちが、まるで眠るように横たわっていた。
泥と雨にまみれ、服も髪も濡れたまま。
「生きてる……気を失ってるだけだ」
「マジか……全員、連れてこられてたんだな」
麻斗は肩をすくめながらも、その顔には安堵が浮かんでいた。優斗はゆっくりと屈み込み、生徒たちの顔を一人ずつ確認する。
「……全員、無事。怪我もない」
「うーっし、これで任務完了ってことでいいな!帰ったら風呂入って飯食って寝る!!」
麻斗は両手を空に伸ばし、叫ぶように言った。その声が消えかけた頃、空き地の隅に咲いた白い花が、風に揺れた。
◆ ◆ ◆
数日後の午後。
柊神社の本殿に、電話の呼び鈴が静かに鳴った。
「……あー、はいはい、もしもし。柊神社ですが」
受話器を取った柊の声は、いつも通り面倒臭そうなトーン。
だが、相手の名を聞いた途端、わずかに眉が動いた。
「……ああ、戸張高校の教頭先生。どうも」
優斗と麻斗もすぐに顔を上げ、畳の上で正座し直した。
柊は淡々とやりとりを続け、数分後、受話器を置くと二人の方を見た。
「……行方不明だった生徒たち、全員無事で発見されたってよ」
「おぉ〜、やったー!俺らの勝利ってやつじゃん?」
麻斗が満面の笑みでガッツポーズ。
「教頭が言うには、みんな“よくわからないけど気づいたら空き地で寝てた”らしい。記憶の混濁もあるが、命に別状はないってさ」
「怪異による記憶の遮断……定番だけど、彼らにはそのほうが幸せだろうね」
優斗は静かにそう言った。
「ま、恋に生きるタイプの怪異にしては、割と筋は通ってたかもな。殺してないだけ、まだマシだ」
「いやでも!口説かれながら家に連れてかれそうになるの、俺は二度とごめんだわ!!」
麻斗が叫ぶのを横目に、優斗は静かに紅茶を口にする。
「……あの人、結局名前すら名乗らなかったね」
「うっわ、推しの名前もわからないのに連れてかれるやつだ。余計怖ぇよ!!」
◆ ◆ ◆
放課後、少し遅くなった帰り道、下校する人間は疎らだった。
優斗が静かに歩いていると、肩を「とん、とん」と叩かれた。
「……?」
振り返ると、そこには見知らぬ女子生徒が立っていた。制服のデザインからして、他校の生徒らしい。
「あの、日吉優斗さんですよね?」
声は落ち着いていて、笑顔も柔らかい。
けれど、その瞳の奥にかすかに濁りのようなものが見えた。
「貴方の、能力のことでお話したいんです」
——一瞬で、優斗の全身に緊張が走った。
術が使えることも、惹魔体質であることも、怪異が見えることも。
すべて、限られた人間しか知らないはずだった。
「……どこで、それを」
問いかけたその刹那。
女子生徒が懐から取り出した紙片が、風に乗ってひらりと優斗の前に舞った。
次の瞬間——意識が、落ちた。
景色が滲む。地面が遠のく。耳鳴りのような霊気の波に包まれながら、
優斗は倒れ込むように、その場に膝をついた。
少女は、それを受け止めるように抱え、誰にも気づかれぬまま、路地裏へと優斗の身体を引いていく。
「ごめんなさい。でも、貴方にしかできないことなんです」
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