第9話 【過去編】柊宗一郎との出会い

 放課後の空気は、やけに静かだった。

 夕焼けに染まる屋上の隅で、優斗と麻斗は並んで座っていた。


「……九尾のときさ」


 麻斗が口を開く。


「優斗は九尾と契約、してたよな。お前の中に入れるって形で」

「うん。あれ、契約って呼んでいいのか分かんないけど……祠を立てるまで、僕の中にいるって条件だったから、期限付きではあったね」

 

 優斗は少し苦笑する。


「もし“心臓よこせ”とかだったら、どうなってたかわからない」

「……だな。あいつ、やろうと思えばできたろ。九尾クラスなら」


 麻斗が肩をすくめる。


「……だからこそ、思い出したよ。昔、叔父さんから最初に言われたこと」

 

 優斗は少し空を見上げる。


「“人ならざるものと契約は絶対するな”って、社殿で言われたよな」

「……うん、言ってた」

「柊神社でさ、あの時が初めての“座学”だった。なんかやけに重い雰囲気で」


 そう言った優斗の言葉に、麻斗も頷いた。


「思い出すな……叔父さん、あん時ばっかりはマジだったよな」

「うん。すごく印象に残ってる」


 ふと、辺りの空気が、あの時と同じような冷たさを帯びた気がした。

 そして、自然とあの夜の記憶が、ふたりの脳裏に浮かび上がっていく——


 ◆ ◆ ◆


 あれはまだ物心つきはじめていた頃、優斗と麻斗がまだ小学生の時のこと。

 午後の空気はまだ春の匂いを残していて、校庭の隅に咲いたたんぽぽが風に揺れていた。

 下校途中の兄弟、優斗と麻斗は、ランドセルを背負い通い慣れた道の途中で足を止める。


「…なんか、また感じる」


 麻斗が立ち止まり、空を仰いだ。


「さっきの影だろ? あれ、昨日の夜も見た」


 優斗が眼鏡を押し上げ、警戒するように辺りを見渡す。

 そのとき、すぐ背後からぬるりと現れるように、煙草の匂いが漂ってきた。


「よっ。二人とも、最近ちょっと鋭くなってきたんじゃないか?」


振り向けば、スーツのジャケットをラフに羽織った男が立っていた。無精ひげに、くわえた煙草。なのにその目だけは、鋭く光っている。兄弟には見覚えがあった。母がときどき話していた「柊の叔父さん」。


「…柊、さん?」


 優斗が警戒しながら尋ねる。


「ああ、そう。柊宗一朗。君らのいとこのおっさんだよ。ま、今日はちょっと"仕事"の話で来た」


 そう言って柊は、煙草をくゆらせながら優しく微笑んだ。


「最近、見えるようになってきただろ?黒いやつとか、気味の悪いやつ。耳鳴りもしたんじゃないか?」

「……っ、なんでそれ…」

 

 麻斗が小さく息を呑む。

 柊はいたずらっぽく目を細めて、指を立てる。


「オレにも見えるからさ。…で、もしよけりゃ、ちょっとだけ話してみないか?その力、ほっとくと危ないかもな」


 風が吹いた。彼の背中越しに、どこか神聖な気配が漂っていた。麻斗は少し目を輝かせ、優斗は怪訝な目で見る。一卵性の双子の兄弟だが、正反対の反応を見せた。


「聞いてやるよ、な?兄ちゃん」


 麻斗がそう言って、ニッと笑いながら優斗の方を見る。まだ幼さの残る顔立ちに、どこか確信めいた光が宿っていた。心の奥で何かを感じ取っているのだろう——まるで、今ここでこの出会いを拒んじゃいけないって。

 優斗は少しだけ眉をひそめたまま、柊と麻斗を交互に見た。

 その表情には迷いと警戒があったが、麻斗の瞳に揺るぎがないのを見て、やがて小さく頷いた。


「……わかった。でも、変なこと言ったらすぐ帰るから」

「はいはい、慎重派のお兄ちゃん、頼りにしてるよ」


 柊が口元を緩めながら煙草を指でつまみ、くるりと空中に放った。宙でふわりと消えるその様子は、まるでマジックのようだった。


「じゃあ、ちょっと静かなとこ行こうか。神社の裏手に、小さな茶室がある。君たちの話をゆっくり聞ける場所だ」


 そう言って、柊は軽く先を歩き出す。その背中に、兄弟もゆっくりとついていく。

 兄弟の手の甲が、そっと触れ合ったとき——ふっと、心の中に相手の感情が流れ込んできた。


(……やっぱり、変だよな)

(うん。でも、あの人……ちょっとだけ、信じてもいいかも)


 無言の会話が交わされ、二人の歩幅がぴたりと揃った。

 案内された茶室の中は静かだった。畳の匂いと、ほのかな線香の香りが鼻をくすぐる。優斗と麻斗は少し緊張しながらも、並んで正座していた。

 目の前に置かれた湯気の立つ湯呑みから、かすかに温かい香りが立ち上る。

 柊も向かいに腰を下ろし、リラックスした様子で背もたれに体を預けた。


「まずだが、知ってるかも知れないが俺はお前の母さんの弟にあたる、お前らの叔父だ」


 柊はそう言って、指先で湯呑みの縁をなぞった。


「お前らのお父さんとお母さんは見えない人間だが……お前らは、見える人間。だろ? とりあえず心当たりのある事があれば、話してみてくれ」


 静かな声。けれど、その響きにはどこか真剣な色がにじんでいた。

 優斗はちらりと麻斗を見る。

麻斗は、湯呑みには手をつけず、まっすぐ柊を見返していた。


「……俺さ、夜中に変なの見るんだ。部屋の隅とか、廊下の暗いとことか……黒いもやみたいなのが動いてんの」


 麻斗がぽつりと口を開いた。

 優斗も、少し間を置いて小さく頷く。


「僕も……たまに耳鳴りがする。それから、目を閉じてても、誰かがそこにいるような、そんな気配が……」

「……ふうん」


柊は腕を組み、興味深そうに二人を見た。


「……まあ、やっぱりだな。思った通り」


 茶室に漂う空気が、ほんの少しだけ、重みを増した。

 柊の目が静かに細められ、優しくも逃がさないような視線が、兄弟二人に向けられていた。


「……認識はしてるわけだな……」


 柊はそう呟きながら、組んだ腕の上にあごを乗せるようにして、さらに言葉を続けた。


「その、人ならざるものに……触れたり、触れられたりしたことはあるか?」



 低く落ち着いた声が、静かな茶室に響いた。

湯呑みから立ちのぼる湯気だけが、かすかに揺れている。

 優斗は、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。

しばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。


「……ある。前に、家の廊下で……誰もいないはずなのに、腕を引っ張られたことがあった」


 その声は、震えてはいなかったけれど、ほんの少しだけ硬かった。

 麻斗も、続ける。


「俺も……学校の帰りにさ。なんか、肩を叩かれたんだ。誰もいないのに。後ろ向いたら、黒い手が見えた」


 そう言うと、麻斗は唇を少し噛んだ。

 柊はふむ、と短くうなずき、二人を見据える。


「……そっか。なら、やっぱりだな。お前ら、すでに"引かれて"る」


 いつものふざけたような軽さは、そこにはなかった。代わりに、しっかりとした重みと、温かい覚悟だけが、柊の声には宿っていた。


「……分かった。お前らがどこまで引かれてるか、俺が見てみようか」


 柊はそう言うと、麻斗に向かって手を伸ばした。指先を軽く立て、すっと人差し指と中指で空を二度、切る。

 ぴたりと空気が張り詰めた。

 茶室の中の温度が、ほんの一瞬だけ、変わった気がした。

 柊は目を細め、じっと麻斗を見据える。

 そして、低く呟くように言葉を紡ぎ始めた。


「麻斗の方は……霊を認識する力と、霊に触れられる霊力……これに加えて、霊や怪異を寄せ付けない……いや、霊や怪異を消す力か……?」


 柊の目が驚きと興味でわずかに見開かれる。


「いわゆる、退魔の波長ってやつだな……珍しいな。振れ幅はでかいが、麻斗の中に秘める最大値は、かなりでかい」


 麻斗は、少し緊張したように、でも誇らしげに背筋を伸ばした。

 柊は軽く肩をすくめ、口元に苦笑を浮かべながら、視線を優斗に移す。


「次、優斗の方見るか」


 その声は優しく、しかし決して軽くない響きを持っていた。優斗は小さくうなずき、柊の方へ静かに体を向けた。

 湯呑みから立ち上る湯気の向こう、三人の間に、不思議な緊張感が流れていた。

 柊はゆっくりと立ち上がると、優斗の正面に歩み寄った。麻斗のときと同じように、人差し指と中指を軽く立てる。

 空を二度、切るようにすっと動かすと——

 その場の空気がふわりと震えた。

 柊は目を閉じ、しばらく何かを探るように静かに息を整えた。

 そして、低く唸るように呟く。


「ふむ……」


 眉間に小さな皺を寄せ、考え込む姿は、さっきまでのラフな雰囲気とは打って変わって真剣だった。やがて、目を開き、しっかりと優斗を見据える。


「優斗の方も、霊を認識する力、それに霊力……」


 少し言葉を切り、柊はさらに深く声を落とす。


「それに加えて……霊力自体に、霊や怪異を寄せ付ける力がある。……これもまた珍しいな」


 優斗は、不安そうに手をぎゅっと握りしめる。

 そんな彼に向かって、柊はまっすぐに言葉を届けた。


「優斗、お前の霊力は……霊や怪異にとって、花の香りであり、甘い蜜であり、酔わせる酒でもある」


 静かに、しかし力強く。


「だから、放っときゃ向こうから勝手に寄ってくる。だけど——使い方次第じゃ、それを武器にもできる」


 柊の目には、優しさと覚悟がにじんでいた。

 茶室に満ちる緊張感の中で、優斗と麻斗は互いに目を見合わせた。

 小さな手と手が、そっと膝の上で触れ合う。

 これから何が始まるのか、まだ二人には分からなかったが、確かに何かが動き始めていた。


「退魔の波長の方はな……稀に陰陽師の中にも、何人かいるにはいるが……」


 柊は腕を組み、重々しく言葉を紡ぐ。


「ここまでの力を秘めてるやつは、俺も見たことがない」


 優斗と麻斗は、自然と背筋を正して柊の言葉に耳を傾ける。

 柊の目は鋭く、けれどどこか、守ろうとするような強い意志を宿していた。


「……優斗はそもそも、ここまでの……いわゆる魔を引き寄せる『惹魔の波長』自体、初めて見た」


 その声は、静かに、確かな重みを持って二人に降り注ぐ。


「この力はな……使い方を知らなければ、非常に危ない。使い方を誤れば——お前らの命にかかわる」


 柊の声が、茶室に低く、強く響いた。

 優斗も麻斗も、唾を飲み込み、じっと叔父の言葉を待つ。


「もう、お前らも……自覚してるんじゃないのか?」


 問いかけるようなその声に、優斗は小さく、けれど確かに頷いた。麻斗も、拳をぎゅっと握りしめ、前を見据える。

 柊はそんな二人をじっと見つめ、やがてふっと息を吐いた。


「……これから、その力の使い方を、俺が教えてやる」


 それは、逃げ道を与えない宣言だった。

 けれどそこには、二人を絶対に守るという強い決意も込められていた。


「これから毎日、柊神社に来い。修行つけてやるよ。とりあえず今日、初めにお前らに初回授業をしてやるよ」


 柊の声は、まるで太鼓を打つように、静かな茶室に響き渡った。

 優斗と麻斗は顔を見合わせ、小さくうなずき合う。二人の間に、幼いながらもしっかりとした覚悟が芽生え始めていた。


「まず初めての座学として一つ、いちばん大事なことを教えておく」


 茶室に低く重い柊の声が響く。

 優斗と麻斗は畳の上に正座し、じっと叔父の言葉を待っていた。

 柊は煙草を指に挟みながら、しばらく二人を見据えてから、口を開く。


「覚えとけ……人ならざるものと契約は絶対するな」


 その声は、これまで以上に鋭く、厳しかった。優斗と麻斗は無意識に背筋を伸ばす。


「霊、妖怪、神、悪魔……呼び名はどうでもいい。人ならざるものである怪異は、人間の常識なんざ、通用しねえ」


 柊はゆっくりと煙を吐きながら、さらに言葉を重ねた。


「たとえ自分にとってかなり有利な契約だと思ってもな、あいつらが“そうしてくれる”保証は、どこにもねえ」


 その声は、どこか苦味を帯びていた。

 実際にそれで滅びた者たちを、柊は何人も見てきたのだろう。


「人ならざるものとの契約は、基本破棄できねえと思っとけ。一度結んじまったら最後、魂ごと縛られる……そんなもんだ」


 柊の視線が、じっと優斗に向けられる。


「特に——優斗」


 優斗は、はっとして顔を上げる。


「お前の体質は……特に、人ならざるものにとっては魅力的に映る」


 柊は煙草を消すと、両膝の上に手を置き、まっすぐ優斗を見つめた。


「これから何度も、甘い誘いを受けるだろう。

 『力を貸す』『守ってやる』『望みを叶えてやる』——そんな言葉でな」


 優斗は小さく息を呑み、麻斗も黙って隣で拳を握る。


「だがな、どんなに魅力的な話に見えたとしても、絶対に乗るな」


 柊の声は一段と低く、重くなる。


「……わかったな?」


 優斗は震える声で、それでもはっきりと答えた。


「……うん。わかった。絶対、乗らない」


 麻斗も、横からすかさず声をあげた。


「俺も!兄ちゃんも俺が絶対守るからな!」


 柊は満足げに一度だけ頷き、そしてふっと口元を緩めた。


「よし……それでいい」


 社殿の外では、夜風が木々を揺らし、さらさらと涼やかな音を立てていた。


「もしも――」


 柊は言葉を切り、静かに二人を見つめた。灯りが、彼の顔に淡い影を落とす。


「もしもどうしようもなく守りたいものがあって、契約せざるを得ないときは——」


 優斗も麻斗も、息を呑んで柊を見つめた。

 その眼差しは、迷いも、怒りも、ただ真剣だった。

 柊は、深く、深く息を吐いた。


「……必ず、自分主体に、有利で緻密な条件をつけることも考えとけ。いいな?」


 その声は、これまでとは違う、少しだけ優しさを含んだ響きだった。


「例えば……お前自身の魂に干渉できないって条件を入れるとか、契約の履行を確認できない場合は即時破棄できるとか、何より、“自分の意志で解除できる条項”をどうにかねじ込むことだ」


 柊は、言葉の一つひとつを噛みしめるように話した。


「いいか、怪異は言葉の綾を突いてくる。甘い言葉にも、隙を絶対作るな。相手の口約束なんざ、紙より軽いと思っとけ」


 優斗は小さく、けれどはっきりと頷いた。


「……うん。わかった」


 麻斗も、ギュッと拳を握りしめながら続けた。


「ぜってぇ、兄ちゃんも俺も、簡単にはやられねぇ!」


 柊はふっと目を細め、二人の頭をわしゃわしゃと雑に撫でた。


「その意気だ。まずは、負けない心だ」


 少し乱暴だけど、温かいその手に、二人は少しだけ緊張をほどかれた。

 夜の社殿に、三人の影が長く、静かに揺れていた。二人のこれからに、必要な覚悟が、また一つ芽吹いた夜だった。


 ◆ ◆ ◆


 風の音が、ふたたび耳に戻ってくる。

 夕焼けに染まる屋上に、静かな時間が流れていた。優斗と麻斗は、先ほどより少しだけ近くに座っている。


「……覚えてるな、やっぱ」


 麻斗がポツリとつぶやいた。

 優斗は目を細めて、ほんの少しだけ笑う。


「うん。あれが、始まりだった」

「契約するな、って言われたのに、九尾とはしちゃったけどな」

「……期限付きだったから、助かったようなものだよ。“祠を建てたら解除”なんて、あれで条件緩かったから良かったけど……」


 優斗は静かに言いながら、空を仰ぐ。


「もし“心臓よこせ”とか、“魂を半分渡せ”とか、もっと酷い条件だったら、さすがに……僕でも契約してないと思う」

「九尾クラスなら、それ言ってきてもおかしくねぇよな。ていうか、あいつ……なんか遠回しに試してたんじゃね?」


 麻斗が肩をすくめる。優斗もゆっくりと頷いた。


「……かもね。僕がどんな条件なら飲むのか、どこまでなら譲れるのか。全部、見られてた気がする」


 ふと、沈黙が落ちる。

 夕焼けが、屋上のフェンスの影を長く伸ばしていく。

 その影の中に、優斗と麻斗は、まだ子どもの頃の自分たちを少しだけ重ねていた。


「なあ、優斗」


 麻斗が少しだけ真剣な声を出す。


「また同じ状況になって、もう一回契約しろって言われたら……どうする?」


 優斗は、しばらく黙っていた。

 屋上を渡る風が、彼の髪をかすかに揺らす。


「……それでも、誰かを守るためだったら、条件次第では、きっと僕は……」


 そこで、ふっと言葉を切る。


「でも、柊叔父さんの言葉は、今もちゃんと覚えてるよ」


 麻斗はニッと笑う。


「ならよし!お前が変な契約しそうになったら、俺が止めるし、ぶん殴る」

「頼もしいね」

「当たり前だろ、俺の兄貴だぞ?」


 そう言って、麻斗がぐっと肩を張る。


「お前が引き寄せるのが怪異でも神でもなんでも、俺がぶっ飛ばしてやるからな」

「それ、昔から変わらないね」


 優斗の口元が、ふっと緩んだ。


「……じゃ、帰ろうか。風、冷たくなってきた」

「あ、兄ちゃん晩メシなんにする?」

「冷蔵庫次第。……あとで見てから考える」

「うお、出た。超現実的」


 二人の声が、夕暮れの屋上に柔らかく溶けていく。空にはもう、星がひとつ、瞬き始めていた。

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