第8話 九尾と契る・後編

 洞窟の奥――封印の石の前には、血の鉄臭さがまだ重く染みついていた。

 その場に立つ黒いローブの男たち二人。視線の先には、空となった殺生石。

 一人が、焦げ跡の残る結界符を拾い上げ、静かに吐息を漏らす。


「……あの、“日吉優斗”が、まさか九尾と契約を結ぶとはな」


 もう一人が低く応じた。


「惹魔の波長……ただ“引き寄せる”だけの能力だと認識していた。だが――違った。あれは“心”をも引き寄せる」

「まさか、九尾を懐柔するとは……完全に誤算だった」


 床には無残に倒れた術者たちの亡骸。霊も魂も斬り裂かれ、痕跡すら危うい。

 九尾の狐――かつて神々をも喰らった存在が、まるで“味方”のように優斗の傍らに立ったその光景が、脳裏から離れなかった。


「九尾の狐は凶暴凶悪…、あれは完全な支配ではない。……一時の共生、脆い均衡だ」

「ならば――今、奪い取るべきだな」


 男はゆっくりと立ち上がり、背後の暗がりに控える別の術者に目をやる。


「次は一切の油断も許さぬ。日吉優斗ごと、九尾を回収しろ。――どんな犠牲を払ってでも」


 ◆ ◆ ◆


 優斗は小さな祠の前にしゃがみ込み、指先をそっと結界の結び目に這わせた。

 その動きに合わせて、頭に生えた白銀の狐耳がぴくりと揺れ、腰のあたりから伸びた尻尾が静かに風に揺れる。


「……崩れなし。霊流も安定してる。大丈夫そうだね」


 そう言って立ち上がる優斗の尻尾が、わずかに揺れて砂を払う。その柔らかな毛並みは、夕方の斜光を受けてほのかに光っていた。

 その後ろで麻斗が、大きく背伸びをしながら声を上げる。


「ふわ〜〜……結界の見回りってさ、なんでこんな数あるんだよ。あと3つくらいか?」


 めんどくさそうに聞くその手から、ふわりと退魔の波長が立ち上がる。

 波長は空気を洗い、ぴちぴちと音を立てながら残穢を弾き飛ばした。


「さすが。波長、きれいに通ってる」

「だろ〜?……まあ俺の波長で消えないやつなんて、そういねえし?」


 麻斗が得意げに笑い、優斗はふっと口元を緩めたが――すぐに表情を引き締めて、尾根道を指さす。


「次、西側。あそこ、古い祠が集中してる。……気をつけて」


 その言葉と同時に、狐耳がぴん、と立ち、尻尾がふわりと逆巻いた風にざわついた。


 それは――“何か”の気配を感じ取った合図。


『……来てるぞ。気をつけろ、優斗』


 九尾の声が、静かに、けれど確かに頭の奥に響いた。

 優斗の金紅に揺れる瞳が、すっと鋭く細まる。


「麻斗……結界の歪み、感じるか?」

「……ああ。今、変な風が……来てる」


 空気が、ぴりついた。

 そう思った時、既に目の前には黒いフードの男が五人。優斗と麻斗を囲むように、ぬるりと霊気をまといながら立っていた。  

 その胸元には、光を吸い込むような闇の中で、三日月が妖しく輝いている。


(優斗、これ)

(あぁ……“黒月”。柊叔父さんが言っていた。僕か――僕の中にいる九尾の狐を奪いに来たんだ)


 テレパシーのやりとりと同時に、二人の目が交差する。瞬時に呼吸を合わせ、立ち位置を微妙に調整する麻斗と、術式の構成を頭の中で走らせる優斗。

 ピクリと、優斗の狐耳が立ち、尾がふわりと揺れる。その仕草は警戒の証――彼自身の緊張が、波長となって毛並みの先まで伝わっている。


『おうおう、物騒な連中だなァ……』


 頭の奥、九尾の声が愉しげに響いた。


『潰すなら、今だぜ?俺様の力、ちょいと貸してやってもいいぞ?』

(……いらない。まだ、僕の術だけでなんとかなる) 

『一回負けてるんだろ?コイツらにさ』

(今は、頼れる弟がいる)


 優斗は心の中でぴしゃりと返すと、ふっと息を吐いた。

 風が鳴る。

 五人の術者が一斉に手を構えるのを見て、麻斗の拳に退魔の波長がじわじわと滲み始める。


(兄貴、指示くれ)

(了解――初撃は僕が牽制する。隙を突いて、二人目まで潰す)

(了解っ)


 そのやり取りの直後。


「おい、日吉優斗。……“中身”だけ寄こせば、命は取らねぇつもりだったんだがな」


 一人の術者が、にたりと口を歪める。  

 優斗は一歩、静かに前に出た。


「僕の中身は、僕のものだ。……そっちが先に仕掛けるなら、遠慮しない」


 ぱちん、と。  

 狐の耳がぴくりと揺れ、尻尾の先がぴしりと空を裂いた。  

 霊気が収束し、次の瞬間――地を走る閃光が、戦いの幕を引き裂いた。

 優斗の足元に術式陣が浮かび上がる。九尾の霊気を通した狐火が宙に舞い、黒月の一人を襲う。

 術者の一人が反応する間もなく、地面に刻まれた霊式が展開される。


「“封雷陣”!」


 優斗の詠唱と同時に、雷光が術者の足元を縫い、バチバチと光の鎖がその動きを封じる。


「っぐ……!」


 身を捻って霊気で強引に解こうとするが、その一瞬の隙を見逃す麻斗ではなかった。


「てりゃあああああっ!!」


 低く吠えるような叫びと共に、地を蹴った麻斗が一直線に飛び込む。拳に滾る退魔の波長が集まり、まるで渦を巻くように振るわれた。

 ズガンッ!と破裂音に似た衝撃音が響く。  結界ごと吹き飛ばされた術者は、木の幹に激突して崩れ落ちた。

 同時に二人目の術者が咒文を唱えながら霊符を投げる。  

 それを見た優斗は指先を振るい、印を切った。


「“浮霊転写”」


 霊符の構文が優斗の前で宙に反転し、放たれた霊気が逆流する。


「なっ……!? 術式がっ……!」

「君たちの術式、さっき解析させてもらったよ」


 無表情に告げながら、優斗はそのまま次の術に移る。


「“鎖陣・火羅”」


 狐の尻尾からふわりと流れ出した霊気が、空中に円陣を描き、炎の鎖が術者の足元を包み込む。


「く、ぅ……!」


 火の霊気に捕らえられ、動きを奪われた術者に向かって、麻斗が踏み込む。


「兄貴ー!次、こいついくぜ!」

「麻斗、頼んだ」


 麻斗が再び拳を叩きつける。

 霊気が弾け、術者が吹き飛ぶ。


 三人目が慌てて符を構えたが、その瞬間、優斗の術式が先に展開されていた。


「……“零陣・氷撃”」


 狐の耳がぴくりと動き、尻尾の毛並みがふわりと逆立つ。冷気を纏った術式が空気を凍てつかせ、足元から凍てつく氷柱が術者を捕らえる。


「ちょっ……!」


 術者の叫びは間に合わなかった。

 優斗と麻斗の連携は完璧だった。

 目配せ一つ、術式の一手で展開が生まれ、波長が一糸乱れずに重なっていく。

 彼らの霊気の流れが完全に“場”を制していた。


(……これなら、いける。押し切れる――)


 そう、確かに優斗は思った。

 けれど、その確信の裏でぐらりと目の前が揺れ、術が揺れる。身体は火照り、霊気の出力が安定しないのだ。

 頭の奥で、九尾の、冷めたような声が落ちる。


『“暴れない”って契約だぜ?俺様の力、全部貸すなんて約束、してねぇよな?それとも…新たに契約でも結ぶか?』


 ぞわりと、背筋に冷気が這うような感覚。

 優斗は眉をわずかに寄せ、足元の霊気の流れに微かな淀みを感じた。


(……っ、まだ、僕の術で戦える。借りない。借りるつもりも、ない)


 そう自分に言い聞かせるように、再び霊気を集中させる。

 優斗は指先から霊気を流し込みながら、再度術式を展開しようとした――が指が震える。


(……っ、上手く…繋がらない……?)


 霊気の流れが微かに淀む。まるで自分の中に異質な何かが混じり込んで、術式の回路にノイズを走らせているような感覚に呼吸が荒くなる。 


(…優斗?どうした…?)


 麻斗から優斗へテレパシーが届く。しかし、思考が散漫でうまく考えられなかった。

 九尾の霊力は人には生み出せない桁違いの力…しかしそれは同時に毒でもあった。


『そろそろかァ?今の“契約”じゃ、その程度の出力も限界かもなァ』


 頭の中に、くつくつと笑う九尾の声が這い込んできた。


『俺様の霊気、たっぷり混ざってるからなァ。使い慣れてねえってのがバレバレだぜ?』


 舌打ちしたくなる気持ちをぐっと飲み込みながら、優斗は次の術を無理やり繋げようとする。


(……まだ、いける。もう少しだけ――!)


 だが術式は、思うように定着しない。術の軸がわずかにぶれて、それに気づいた敵が、口元を吊り上げる。


「隙だな――!」


 黒月の術者が一斉に印を切り、優斗に向かって攻撃術式を集中させた。  

 霊符が飛び、地面が軋む。結界のような光の束が優斗を囲むように展開される。


「くっ……!」


 咄嗟に後退するが、霊気の乱れで反応が一瞬遅れた。  

 術式が直撃する――その瞬間、


「兄貴ィッ!!」


 麻斗が優斗の前に飛び出した。退魔の波長を全身にまとい、霊気を押し返すように拳を叩きつける。


 バァンッ、と波長が衝突し、術式が押し返された。


「っ……あぶねぇなもう!」


 麻斗が優斗の腕を掴み、その体勢を支える。


「兄貴、大丈夫か!?霊気が…なんかめちゃくちゃだぞ!」

「……っ、大丈夫。……ちょっと、霊気の混ざりに慣れてないだけだ」


 優斗は息を荒くしながらも前を見据えるが、その額には汗が滲み、狐耳もぴくぴくと揺れている。


『あーあ、ほら言わんこっちゃねェ。俺様とお前じゃ波長が違うんだよ……ま、まだお前の体は“俺様”を扱えるほど、できちゃいねえってことさァ…契約を見直せばなんとかなると思うが?』


 ぞくりと背筋を撫でる九尾の声に、優斗は唇をかみしめた。


「兄貴、ちょっと下がってろ。今は俺の波長で押し返す。お前の波長が不安定なら、俺が支える」


 麻斗の声はいつになく真剣だった。  優斗は、一瞬だけ目を伏せて――ゆっくりと頷いた。


「……頼んだ。僕も、回復させる」

「任せとけ」


 麻斗がにやっと笑う。


「ぶっ飛ばすのは得意だからな!」


 そう叫ぶと同時に、再び黒月の術者たちに向かって飛び込んでいく。

 その背を、優斗は狐耳を伏せながら見送った。


(麻斗……頼もしくなったな)


 その胸の奥、九尾の霊気がふわりと波打つ。


『へぇ……弟に頼るとは、殊勝なことだな。ま、しばらくは眺めててやるよ』


 麻斗は霊気の塊のような黒月の術者たちを正面に捉える。


「よっし、兄貴はちょっとお休みな。俺の波長で――ぶっ飛ばす!」


 瞬間、麻斗の足元の土が爆ぜる。地面を蹴りつけた勢いのまま、前衛にいた術者に肉薄する。

 その拳に宿るのは、轟くほど濃密な退魔の波長。剣でも術でもない、“純粋な力”の塊が拳となり――


「喰らえぇぇぇっ!!」


 ズガッ!と衝撃が走る。霊気の防壁を纏っていた術者が、まるで紙人形のように吹き飛ばされ、地面を何度も転がる。

 それを見た他の術者たちが慌てて印を切る。だが、麻斗の動きは止まらない。二人目、三人目――その全てを、まるで舞うような体捌きでかわしながら、波長をまとった蹴りと拳を連打する。


「速ぇ!?」

「こいつ……術式が効かねえ!?」

「波長が……術を“壊してる”のか……っ!」


 驚愕する術者たちを余所に、麻斗は一気に距離を詰めて、拳を振るう。その波長に触れた術式は、軋むような音を立てて崩れた。

 その刹那――


「“風結界・風盾陣”」


 優斗のか細い声が背後から響いた。  

 乱れながらもなんとか整えた術式が、麻斗の背中側に展開される。黒月の一人が不意打ちで放った霊符が、優斗の結界に触れた瞬間、風と共にかき消された。


「兄貴、助かった!」

「……今のが限界。あとは……任せた」


 優斗は膝をつきながら、わずかに微笑む。

 その姿を背に、麻斗は再び叫ぶ。


「俺に手ぇ出したら、兄貴が怒るぞ!!」


 瞬間、波長がさらに膨れ上がる。麻斗の両手に纏う霊気が、今や腕全体を白く煌めかせるほどに暴れだした。


「おらぁぁぁぁぁっ!!!」


 波長の爆発と共に、最後の術者をもろに吹き飛ばす。 黒月の術者たちが次々と地に沈み、地面に静寂が戻る。

 風が吹く。

 その中央に立つ麻斗の肩が、少しだけ上下する。 呼吸は荒くとも、その表情はまだ戦える、と言っていた。そして――狐耳をふるふると震わせながら、地に手をついた優斗が、ゆっくりと立ち上がる。


「……やっぱり、麻斗ってすごいな」


 そう、呟いた声はかすれていたが――どこか、誇らしげだった。


「嫌な予感がしてきてみれば…黒月の連中が来てたってわけだな」


 背後から低く、けれど確かな声が落ちた。振り返ると、鳥居の下からゆっくりと歩いてくるのは柊宗一郎。その手にはいつもの煙草。白煙の中で目を細めて、倒れた術者たちを見下ろした。


「そこに伸びてる連中はこっちで処理する。お前らは神社に戻ってろ」


 そう言ったあと、ふと優斗に目を向ける。


「……九尾の霊気、無理して使うんじゃねえぞ。人ならざるモノ…九尾みたいな妖怪の霊気は人間にとって毒なんだからよ」


 煙草をくゆらせながら、肩をすくめる。


「無事立ってるだけで御の字だと思えよ」


 そして、麻斗の方をちらと見て。


「で、麻斗。お前は……ま、よくやったんじゃねえの」

「やった!俺、今日めっちゃ褒められてる!」


と麻斗がガッツポーズを決めると柊がぺしりと叩く。


「調子乗ってる暇があったらさっさと戻れ」

「はいはい」

 

 そうして柊神社へ戻ると、夜の帳が下りる頃、柊神社の境内はひんやりと静まり返っていた。

 灯篭の淡い明かりが風に揺れ、どこかほっとする空気が漂っている。

 縁側に腰かけた優斗は、狐耳をぴくりと揺らしながら空を見上げていた。

 九尾の霊気はもう沈静化しているが、身体の奥にはざらりと引っかかるような感覚が、まだ残っていた。


「九尾の狐って……霊気も考え方も、まったく人間とは違うんだよね」


 ぽつりと、優斗が呟いた。


「叔父さんが“人ならざるものと契約するな”って言ってた意味、ようやく分かった気がするよ」


 その隣で、麻斗がどさりと座り込む。


「……でもさ、兄貴、すげーよな。ちゃんと力制御してたし、負けてなかったし」

「いや、制御なんてできてなかった。九尾の霊気が混ざって、術が乱れたんだ。あの時、麻斗が庇ってくれなかったら……どうなってたか」


 優斗はそっと目を伏せる。


「しかも、あいつ、全然本気じゃなかった。抑えてただけで――」

――『当たり前だ、このガキが』


 頭の中で、九尾の冷ややかな声が響いて優斗が眉毛を寄せつつも続ける。


「“今すぐ力貸してやってもいいぜ。その代わり契約変えろ”って言ってきたりさ」

――『お前の霊気、思ったより旨かったからなァ』


 九尾の不遜な言葉に、優斗は肩をすくめてため息をつく。そんな優斗を、麻斗がちらと見て、少し笑った。


「……まあ、兄貴があんな顔してたら、そりゃ助けたくもなるって。感謝しろよな?」

「うん。ありがとう、麻斗」


 素直な言葉に、麻斗はちょっと照れたように鼻をかいて、足をぶらぶらとさせながら言った。


 「でもさー、あんなヤバいやつを平気で解放しようとしてる黒月って……本気でイカれてるだろ」


 優斗は静かに頷いた。


「……あんな存在を、わざわざ封印から出そうとしたんだ。黒月って、本当に危ない組織だと思う」


 その声ににじむのは、ただの恐怖じゃない。

 霊気に触れ、異質を知った者だけが持つ、確かな危機感。


「だからこそ、僕たちが止めないといけない」


 そう言って、優斗はもう一度空を仰いだ。

 麻斗もその隣で同じ空を見上げる。


「ま、俺らなら大丈夫っしょ?最強の双子だしな!」

「ふふっ……どの口が言うんだか」


 二人の笑い声が、静かな夜の神社に優しく響く。そしてその上を、淡い風が通り抜け、狐耳がふわりと揺れた。

 優斗と麻斗の笑い声が落ち着いた頃、ふいに灯篭の陰から聞こえたのは、聞き慣れた低い声だった。


「九尾を祀る祠、準備できたぞ」


 柊宗一郎が煙草を片手に現れる。優斗はふうっと息をつき、疲れたように呟いた。


「やっと尻尾から解放される…」


 境内の暗がりに、白煙がゆらりと漂う。


「祠は、うちの神社の境内に置く予定だ。……元々、うちのご先祖さまが封印してたもんだしな。責任は、こっちでも引き取る」


 柊の言葉には、淡々としながらも確かな責任感がにじんでいる。


「今から向かうぞ。九尾が暴れるようなことがあれば――その時は、俺と麻斗で叩き伏せる。いいな」


 その目線は、優斗ではなく、その奥――彼の中に潜む九尾を真っ直ぐに射抜いていた。


「ま、尻尾なくなるのは残念だけどさ。なんかあっても俺がなんとかするって!」


 麻斗が明るく言って肩をすくめると、優斗は小さく苦笑した。


「……頼りにしてるよ」

「こっちだ」


 短く言って、柊が歩き出す。優斗と麻斗がその背を追って進むと、神社の裏手――森に囲まれた静かな一角に、小さな赤い鳥居と、真新しい祠が建てられていた。


「超特急で作ってもらった。……ああいうもんを長く宿すのは、やっぱ体に毒だからな」


 柊の声は、煙草越しの低い吐息とともに、夜の空気に溶けていった。


『フン…』


 九尾の声が、優斗の胸の奥――霊気の深層に、ふっと響いた。その声には、嘲りとも、諦めとも、興味ともつかない複雑な感情が滲んでいた。

 優斗は思わず立ち止まり、目を細める。


(……何を考えてるのか、まるで分からない)


 けれどその波長は、怒りでも敵意でもなく、ただ、深く静かな渦のように――祠の前に誘うように流れていた。

 柊が足を止め、背中越しに言う。


「……急げ。夜のうちに納めておく。こっちにも、備えはある」


 すると、麻斗がチラチラと祠を見ながら身体を落ち着かなく動かしていたと思うと、口を開いた。


「祠!全然豪華じゃないじゃん!金ピカにしようって!像とかも作ろうって!」


 柊が鼻で笑う。


「ウチにそんな金なんてねえよアホ」


 そのやりとりに、ふっと低く笑う声が頭の奥に響いた。

 

『……面白い小僧だ。祠ひとつでそんなに騒ぐとはなァ』


 九尾の声には、どこか愉しげな色が混じっていた。そして少し間を置いて、言葉を続ける。


『……だがまあ、この程度の祠でも許してやる。契約は契約だからな』


 そして、静かに、しかし確かに告げる。


『こっちの世界で“契約”ってのはな――絶対に破れねえもんなんだぜ。俺様も、お前も、な』


 九尾の声音は淡々としていたが、その底にある確かな意志が、優斗の心にじわりと沈んだ。

 優斗はその言葉に、顔をしかめるだけだった。言い返す気力もない。ただ静かに、祠の前に一歩進み出る。


「……始めよう。九尾を祀る儀式」


 その声はわずかに震えていたが、確かな決意を孕んでいた。


 灯籠の明かりが揺れる中、優斗は袖を払って膝をつき、手を合わせる。

 その背中に、ふっと風が吹いた。九尾の霊気がゆるやかに優斗の身体から離れていく。

 祠の扉が、きい、と微かに軋む音を立てて開いた。

 麻斗も、すぐに隣にしゃがみ込む。


「……ちゃんと、収まれよな、九尾」


 九尾は、それには何も返さず、ただそのまま、祠の中へと霊気を沈めていった。

優斗の掌に、白く淡い霊気がふわりと灯る。

 それは九尾の霊気――かつて神をも惑わした妖しき存在の欠片だった。

 ゆるやかに手を滑らせるように、それを祠の中心、祭壇の結界へと導く。


 「……此処に、封ず」


 優斗の声が静かに境内に響くと、結界がふわりと揺れ、淡い光が広がっていく。

 その中で、九尾の霊気はまるで吸い込まれるように祠へと沈み込んでいった。


 『…楽しかったぜェ』


 九尾の声が最後にふっと笑みを含んで、空気に溶けるように消えていく。

 それと同時に、祠の扉が、ぴたりと閉じた。


「……終わった、のか?」


 麻斗が息をつめたまま言う。


「終わったよ。……今のところはね」


 優斗が立ち上がると、狐耳がふっと揺れ、すぐにその形が淡く消え――人の姿へと完全に戻った。


 そして、その様子を、離れた木陰からじっと見ていた柊宗一郎が、煙草の火を指先でもみ消す。


「……一応、封じられたか。だが気は抜くなよ、優斗。ああいう存在は、契約してようが、封じてようが、すり抜けてくるときは来る」


 目を細め、結界の輝きを見据える柊。その気配は、いつもの飄々とした神主とは違っていた。

 完全な“陰陽師”の顔だった。


「……見張りは、しばらく俺がやる。お前らは少し休め」


 祠の封印が落ち着き、境内には静寂が戻っていた。灯籠の光は穏やかに揺れ、風の音と、虫の声だけが耳に届く。

 麻斗と優斗は、祠から少し離れた縁側に並んで座っていた。

 戦いと儀式の疲労が、じわじわと全身に重くのしかかっている。


「……あんな邪悪な存在と契約して、この程度で済むのは、奇跡だったよ」


 ぽつりと、優斗が口を開いた。

 狐耳も、尻尾ももう消えている。けれど、心の奥にはまだ、九尾の気配がひりつくように残っていた。

 麻斗はちらと横目で優斗を見て、少しだけ頷く。


 「……兄貴、今さら後悔してる?」


 その言葉に、優斗は一拍置いてから、首を横に振る。


 「違う。ただ……思うんだ。黒月が悪い組織なのは確かだ。だけど……僕が九尾を契約していなければ、封印も壊れなかった。黒月も、あんな風に“壊される”ことはなかったかもしれないって」


 そう言って、優斗はゆっくりと空を見上げた。

 どこかにまだ、九尾の霊気が漂っているような気がしてならない。


 「……止めなきゃいけない、正しいことだって分かってた。でも、命を奪う形になってしまったことに、何も感じない自分が……少し、怖い」


 麻斗はしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついた。


「兄貴はさ……多分、俺よりずっと人間らしいよ」

「……え?」

「俺ならたぶん、あんな連中が目の前で死んでも、“やったぜ”って思うし。けど兄貴は、そうやってちゃんと感じる。……それでいいと思う。感じた上で、それでも立つって決めてる兄貴は、俺から見たら、ずっと強い」


 ふっと、優斗の頬が緩む。


 「……ありがと」


 月明かりが、静かに境内を照らしていた。

 その光の下、二人の双子は言葉少なに、けれど確かに寄り添っていた。月明かりの下、優斗と麻斗の言葉が静かに夜へと溶けていく。

 しばらく沈黙が続いたそのとき、境内の石畳を踏みしめる足音がした。


「……優斗の言う通りだ」


 聞き慣れた低い声に、二人が振り向くと、灯籠の陰から柊宗一郎が現れた。

 煙草の火がほのかに赤く揺れ、煙が夜気に滲む。


「この程度の被害で済んだのが奇跡なんだからな。……今度は契約なんてすんなよ。特に、九尾みたいな奴とはな」


 優斗は気まずそうに目を伏せ、苦笑する。


「……肝に銘じます」


 柊はそれ以上責めるでもなく、ただ一つ、ため息をついてから境内を見渡した。


「九尾の件は、こっちでどうにか祀って封じておく。お前らの体質はこういう面倒事も生むんだ。修行を怠るなよ」


 そして、少し柔らかくなった声で続けた。


「……ま、お前らのことだ。次はもうちょっとマシにやれるだろ」


 ぽん、と麻斗の頭を軽く叩いて、柊は再び夜の闇の中へと歩き出していった。

 その背中を見送りながら、優斗はそっと息を吐いた。


「……次は、もっと冷静にやるよ」

「俺は、もっと派手にやるけどな!」


 また、ふっと笑い合う二人の声が、静かな夜にやわらかく響いた。


 ◆ ◆ ◆


 それから数日後。

 柊神社の境内には、穏やかな春の風が吹いていた。

 赤い鳥居の奥、九尾を祀った小さな祠の前には、今も榊が新しく供えられ、清められた白い砂が敷き詰められていた。

 その前に、麻斗がしゃがみこんでいた。

 手にはペンとスケッチブック。


「……やっぱ、こう……金ピカの屋根とか、龍の彫刻とか……いや、九尾なら尻尾九本の像とかのほうがそれっぽくね?」


 ぶつぶつ言いながら、彼は真剣に祠のリフォーム案を描いていた。

 傍らには、狐耳を伏せた優斗が立ち、呆れ顔で見下ろしている。


「……誰がそんな悪趣味な祠にしろって言ったんだよ」

「いや、九尾のやつも『まあいい』って言ってたし?それに、これくらい派手にしてやんないと……祟られたら困るしな!」

『祟るつもりはないぞ、小僧』


 不意に、どこからともなく頭の奥に響いた九尾の声に、麻斗がビクッと肩を跳ねさせた。


「わっ、びっくりした……っ!やっぱ聞いてんじゃん!」

「……こっちの様子は見てるみたいだね」

 優斗が小さく笑い、少しだけ祠の前で立ち止まる。


 その瞳には、複雑な想いが浮かんでいた。


「……でも、やっぱり。あんな存在と契約しておいて、この程度で済んだのは奇跡だったと思う」

 

 静かにそう呟く優斗の背を、麻斗が軽く拳でとんと叩いた。


「そん時はそん時。俺がなんとかすっからさ」


 その言葉に、優斗も少しだけ口元を緩めた。


「……じゃあ、次はもっと頼りにしてもいい?」

「へっ、もちろん!」


 そんな兄弟の声を、祠の奥、深く静まった九尾の霊気が、確かに受け止めていた。

 春の風がふわりと舞い、狐耳がそっと揺れた気がした。

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