第86話 震える子鹿、笑われる――記録を抱えて、腹を鳴らす

 名を失った者たちの囁きは、

 やがて未来を呼び寄せる鐘となる。


 ――“記録”とは、誰かを忘れたくなかった、祈りの形。

 そして、“笑える”ことは、生きてる証だ。




 帝都中央区、“記録管理局”第零層――


 ここは誰も知らない“記録の墓場”。


 扉の向こうに広がるのは、灰と静寂、そして――忘れられた名たちの囁きだった。


 アリステアが一歩、踏み出す。

 銀の瞳が追うのは、もう記録されていない記憶の残滓。

 レオンが背を守り、フェンは足音を“書き残すように”刻んだ。


 そして――


 その先に、“彼”はいた。


「……私が、記したのです。

 ……彼らの“消失”を」


 名を告げるように、彼は立つ。

 魔導記録監、ユリウス・リス・イラ・セレン。

 そして――アリステアの実兄。


 だが、アリステアはその事実を知らない。


「……こんにちは、兄さん」


 焼け跡の写真に目を落としながら、アリステアがぽつりと呟いた。


 それは“記録”には存在しないはずの言葉だった。


 だがその瞬間――

 “沈黙の扉”の奥で、心が震える音がした。


『あのひと、アリステアに、似てた』


 名もなき声たちが、記憶の底で揺れ始める。


 ユリウスの手が止まった。

 焼け残った記録の一片が、かすかに揺れる。


 その裏面には――

 幼いアリステアと、ホシノの笑顔が焼き付けられていた。


「……その名前を……まだ、覚えていたのですか……?」


 ユリウスの声は、溶けかけた蝋のように震えていた。


 だがアリステアは、首を静かに横に振った。


「……名前なんて、どこにも残ってなかった。

 でも――兄さんの書いた“あの笑ってる写真”、胸の奥がずっと痛かった」


 指先が、そっと写真に触れる。


「……あれが全部、答えだったのね……」


 ユリウスの掌が、わずかに震える。

 けれど彼は、それを握り締めて押さえた。

 まるで、“あの記憶”を、もう一度、自分の中で抱き直すかのように。


「……あれは、守るためではなく……私が背を向けただけでした」


 声は、細く、途切れた。


 十年前、自ら施した“記憶抹消術”。

 それは、保護ではなく――逃避だった。


「……私の傲慢でした」


 そう、呟いたそのとき――


 ……静寂の中で、ひときわ間の抜けた音が鳴った。


 きゅるるぅ……と、胃袋の悲鳴だった。


 リオが真っ赤になって俯く。

 フェンはすかさず手帳を開き、さらりと書き留めた。


「キュルル曰く、“守るために壊すという矛盾を抱えた記録”。……お兄さん、胸より胃が先に悲鳴を上げてますね」


 ユリウスはぎこちなく目を伏せた。

 リオは小さく袖を引っ張る。


「ぼ、ぼく……今、動くと……なんかいろいろ……出そうです……」


「我慢して。わたしだって、冷や汗止まってないから」


 ホシノがさらりと返し、レオンがくっと笑う。


「全員、肝が冷えてる。だが――今は、言葉じゃなく記録が動く番だ」


 彼が指差したのは、封印庫の奥――


 “蒸発事件”の、“最後の記録”。


「……これは、名前のない子どもたちの“声”です」


 ユリウスが箱を開ける。

 中には、焼け焦げた無数の紙片。


『たすけて』

『いたい』

『ぼくのなまえ』

『せんせいに、なまえを、とられた』

『あかいめのこが、ないてた』

『おれのなまえは、カナ』


 アリステアが、そっと箱に手を重ねる。

 誰も、言葉をかけなかった。


 空気が、涙のように澄んでいく。


 そのとき――


 ……また、静けさを破る音がした。


 きゅるるぅ……。


 リオは耳まで赤くなり、うめいた。


「うぐぐぐ……フェン、ぼく……ちょっと、魂だけ先に帰っていいですか……」


「キュルル曰く、“現実って名前の爆弾が落ちてるルートです、逃げろ”……とのこと。

 誰か、巻き戻して?」


 レオンが肩をすくめた。


「まったく、胃で世界を揺らす奴だ」


 だがそのときだった。


 現れたのは――仮面の道化。


 白無垢の仮面、“レイ・トロン”。

 “黄金の蛇”――かつて記録魔導国家を崩壊寸前に追い詰めた、思想破壊主義の残党。

 その狂信者にして、笑う暗殺者。


「やぁ……ちょっと遅かったようですね?  申し訳ございません、小さなお客さま?」


 その声は、三重にずれた音階で、響いていた。


「記録って──まるで“永遠ごっこ”ですよね。

 でも、“名前を遺したい”なんて、虫のわがままみたいなもんじゃないですか?」


 声が、少しずつ変化していく。


「名前をもらえなかった僕らは、最初から“いなかった”ことにされました。

 記録なんて、ただの“優しいフリ”なんですよ。

 でも、その優しさは、いつだって選ばれた者だけに降ってくるのです」


 沈黙。

 ユリウスが静かに問う。


「……あなたが、ヴァルド殿の命で“記録の抹消”を?」


「はい。記録って、誰かの存在を許しますからね。

 だから、消さなきゃ。君たちごと、ぜんぶ」


 ……だがその声に、震えながらも割って入ったのは――リオだった。


「……なら、消えない方法もあるよ。


 “名前”は、記録だけじゃなくて、心に残るから……」


 そう言って差し出したのは、

 リオが描いた手作りの絵本――『なまえのない こどもたち』


「……ぼく、絵本、つくったんです。

 名前をもらえなかった子が、名前をもらって、笑えるお話……」


 もし仮面の奥に目があったなら――

 そこに、何かが揺れていたかもしれない。


 だが――レイ・トロンは、絵本を足で踏みつけた。


「……甘いですね、小さなお客さま」


 ……その言葉で、場の空気が張り詰めた。

 アリステアが前へ出ようとした、その瞬間――


「……リオ、だいじ」


 声は、記録よりも鋭く、記憶よりも深く――

 真紅の瞳が、封印庫の奥で光った。


 カナタだった。


 その一言が、全員を“今”に引き戻す。

 「名前を守る戦い」が、今、始まる。


 “まだ、終わらない”


 アリステアが言う。


「記録の中に、未来はないわ。

 でも、“記憶”の中には、未来がある」


 レオンが矢をつがえ、言い放つ。


「さあ……続きを記すぞ。まだ、書かれてねぇ未来をな」


 そのとき――封印庫が揺れ、

 仮面が、落ちた。


 仮面の内側――

 刻まれていた名前は、「カナ」。


 そして、その隣にあった――もう一つの名。


「……まさか、あんたも──」


 レオンの言葉が途切れる。


 その瞬間――


 ……三度目の音が、静寂を震わせた。


 きゅるるる……!


 フェンが手帳を開いて呟いた。


「三度目……? ……まさか、そんな偶然まで“記録”されてるなんてな」


 レオンが吹き出す。


「……違う意味で、奇跡だな。世界一、腹で記憶を揺らす男」


 リオは顔を覆って、小さく呟いた。


「……もしこれが才能なら、ぼく……一生お腹をすかせたまま生きていくことになる……」


 その小さな声に、誰かが吹き出した。

 霧のように重かった空気が、ふっと軽くなる。


 それは、“記録されなかった笑い”だった――

 でも、たしかに、今、ここにある。




 未来は、まだ記されていない。

 だからこそ、笑い声は、記憶に残っていく。

 名前と一緒に、ちゃんと――残っていく。


 ――その笑い声を抱きしめるように、灰色の封印庫にかすかな光が滲み始めていた。

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