第85話 震える子鹿、記録されかける ――名前を忘れたら胃袋が先に鳴る物語
記録は“過去”を縛り、名前は“存在”を照らす。
それでも彼らは、まだ語られぬ未来を歩き出す。
記録されるということは、過去になるということ。
でも――それって、“終わり”なんだろうか?
帝都、中央区。深夜。
白金の議事塔が、灯火で都市の骨組みを縁取るころ。
その遥か下、目に触れぬ地下に、“もうひとつの帝都”が脈動していた。
“記録管理局”。
世界の全記録を統べる、静寂の中枢。
その最深部、音すら記録に刻まれる聖域へ、気配が滑り込んだ。
「……ここから先は、音も記録されるわ」
アリステアの囁きが、魔導布の足音に溶けて消える。
「了解。スニーキング・モード、起動」
レオンがクロスボウを外し、気配を完全に封じた。
「また図書館泥棒ごっこ……ってやつ?」
ホシノが肩をすくめる。
「記録用。今日のホシノ、やや不満気。でも内心は楽しそう」
フェンのペンがさらりと走った。
「やめて!? それ出版されたら、社会的記録が焼却処分になるっ!」
「初巻タイトル『鳴るたび、記憶に触れる』。フェン著、胃袋語録つき」
「……キュルル監修で、泣きながら笑われる本じゃない……?」
「お願いだから静かに……!」
リオが赤面し、祈るように呟く。
「今ここで“音”が記録されたら……もはや自爆装置どころじゃないよね……?」
「だいじょうぶ。リオの胃袋、もう俺が押さえてるから」
「いや、押さえどころ完全に間違ってる!!」
笑いを飲み込みながら、彼らはさらに深層へと降りていく。
“記録管理局”地下第七層。
“読まれる記録”の領域。
「……空気が違う」
アリステアの魔眼が、わずかに光を揺らす。
ここから先、“記録”は“見るもの”ではない。
――“見てくる”ものだ。
「過去が……こっちを覗いてる。嫌な感じだな」
レオンが眉をひそめる。
フェンが頷いた。
「気をつけて。この層には“読み手”がいる」
「読み手……?」
ホシノが首を傾げる。
アリステアが目を細めた。
「“言葉のカタチをした怪物”よ。
誰かの“名前”を食べて、生きている」
黒インクが重力を持つように滲み、人体の輪郭を模す。
顔の中心にぽっかり空いた“空白”――そこだけが文字を吸い込むように動いている。
音も呼吸もないのに、“読まれている”という感覚だけが、肌に刺さるようだった。
空気が凍り、霧が震える。
“振り返った”……それだけで、記録は意味を持ち始める。
霧の奥に、人の“形”が浮かぶ。
まだ名前も与えられず、書きかけのような存在――
それは、“読まれる前”の誰かだった。
「もし……名前を奪われたら……?」
リオの声が震える。
アリステアは一瞬、言葉を詰まらせ――そして、静かに口を開いた。
「その人の“輪郭”が、ぼやけて消える。
記録にも、記憶にも、誰の心にも残らない」
その瞬間、リオの胸が急に凍りついた。
内側から“自分”という輪郭が、音もなく剥がれ落ちていく。
肩、腕、指先、声。
呼ばれるたびに確かに在ったはずの“自分”が、砂のように流れ落ちる。
『……ぼくは、誰……? だれか、呼んで……』
声を発したのが自分かどうかも、もう分からない。
一度、かすかに名を呼ばれた。届かない。
二度、霧にかき消された。
三度目――その声だけが、確かにリオの名を引き戻した。
「リオッ!! おまえは……ちゃんと、ここにいる!」
握られた手から、かすかな震え。
カナタの声が、リオの存在を引き止めていた。
「っ……ありがとう……少しだけ、“ぼく”が消えかけた……」
霧の向こうで、“読み手”が音もなく“空白”を広げて笑った。
「第五層で消えた記録官も、そうだった。名簿には“●●●”の記号しか残っていない」
フェンが言った。
名前を呼ぶ人がいなければ、記録は、ただのノイズになる。
名前も、顔も、思い出も。誰にも知られず……ただ、漂うだけ。
永遠に、“誰かの物語の脚注”として残る。
やがて彼らは、たどり着いた。
“記録壁”。
触れることでのみ開く、魔術式の刻まれた重厚な石壁。
「……誰が開ける?」
フェンの問いに、リオがそっと前へ出た。
だがその直前――
彼の視線は、壁の奥にある“消された記録”へ吸い寄せられていた。
「……昔、“誰か”がいた気がする。
思い出そうとすると、胸がぎゅってなって……でも、名前だけ、どうしても出てこない。
呼んだことがあった気もするのに」
誰も言葉を挟まなかった。
その沈黙が、リオの想いを深く受け止めていた。
リオが、壁に手を当てる。
張りつめた静寂――
……きゅるるぅぅぅ……っっ。
皆が一瞬、凍りつく。
次の瞬間、レオンが小さく息を吐いた。
「……リオ、おまえ……空腹で奇跡起こすなよ」
緊張が、そっと笑いに変わる。
石壁が、静かに――すう……と開いた。
その奥は、霧に包まれた光の海。
“記録管理局”第零層。
幾千の記録が眠る、静寂の深淵。
「ここからが、本番ね」
アリステアが結界を展開し、先頭に立つ。
「敵との接触は避けたいけど……名前を呼ばれたら、戻ってこられない」
「だから、絶対に、“名前”を――忘れないで」
“記録される”ということは、
誰かの語りに縛られ、“物語の登場人物”になるということ。
それは――
生きているように見せかけて、“生きる自由”を失うことだった。
レオンが石壁を見上げた。
「名もなき子に“ツキヨ”と名付けた人は……この闇の中で、月を見てたのかな」
ホシノが、そっと頷いた。
「……私、記録されるの、ずっと怖かった。
誰かの“登場人物”になるのが、なんか……怖くて。
でも、今はちょっとだけ……名前、残してもいいかなって思える」
フェンの手帳に、淡い光が灯る。
「ここに記された名前は、“誰かが誰かを信じた証”。……だから、消えない」
ページが、一枚、静かにめくられる。
そこにあったのは、もう一度だけ呼びたかった名前たち。
『ツキヨ』――月の夜に消えた少年。
『アサヒ』『ネリ』『ユウガ』『スイ』『キリ』――名も残さず消えた候補者たち。
もう誰も、彼らを知らない。
それでも、“名前”だけは残っていた。
「……名前を知られなかった誰かの分まで。
私たちが、その“記憶”を、持ち帰ろう」
ホシノが囁くように言った。
静かな沈黙のなか、霧の奥で――
ページが一枚、めくられる音がした。
カナタが頷き、リオがその手を握り返す。
「……そのためなら、ぼく……きゅるるでも、がんばれる……!」
「がんばるな、きゅるるで。でも、応援する」
霧の中で、小さな笑いがふわっと膨らんで――
その余韻が、静けさへとほどけていく。
フェンは手帳を閉じ、仲間を見渡した。
「ここから先は、“未来”を記録する番だ。……けど、まずはリオの腹も満たしてやらないとな」
小さな笑い声が霧をほどき、彼らの歩みを支える。
その夜、誰にも知られぬ地下で、
ひとつの物語が、静かに――静かに、始まっていた。
それは――
涙を取り戻した少年が、“忘れられた想い”を灯すために歩む物語。
そして、今この瞬間も、どこかで――
“誰かに読まれている”物語だった。
霧に包まれた記録の海は、ひとつひとつが失われた祈りのようだった。
けれども、呼び合う声があるかぎり、名前は消えずに――物語は続く。
たとえ忘却がすべてを呑み込もうとも。
呼ぶ声がある限り、彼らの物語は終わらない。
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