第84話 震える子鹿、名付け損なう――名前ひとつで泣いて笑って、胃まで鳴る話

 ――名を持たぬ仮面が、

 はじめて“ひと”として揺らいだ夜。


 


 仮面の奥で、何かが微かに、しかし確かに揺れた。


 それは、名も持たぬ存在に初めて“個”が芽吹く、淡い兆し。


 たった一雫の、“変化”の予兆だった。


 


 No.2K-Λ。


 記録上の分類は“強襲兵”。

 任務遂行に最適化された、感情なき強化個体。


 “自我”も、“名前”も与えられず、命令という絶対の圧力に従い続けるだけの存在。


 けれど、その存在が今――ほんの一瞬だけ、“命令”を忘れて、立ち止まった。


 


「……“記憶”が……ゆれる?」


 


 アリステアがぽつりと呟いた。

 術式はすでに解除済みだが、彼女の魔眼はなお、仮面の奥に“揺らぎ”を捉えている。


 


 レオンが舌打ちを漏らした。


「……動きが止まった。あの仮面……なんか、引っかかってるな」


「カナタの“声”だと思う」


 


 ホシノが一点を見つめたまま、確信めいた口調で言った。

 “言葉”ではなく、“心”の響きが、そこに触れていると。


「でも、まだ足りない。“名前”が……まだ、“芽”になってない」


 


 フェンが静かに歩み出て、手帳を開いてカナタに渡す。

 そのページには、リオによる“名づけの候補”がびっしりと書き込まれていた。


 


「“呼ぶ”ってさ、魔術的には“干渉”って言うけど……もっと、単純なもんでもあるんだよね」


「“誰かに届いてほしい”っていう、ただの気持ちだもんね」


 


 リオがぽつりと返す。

 まだ本調子ではない体を抱えながらも、その瞳はしっかりと前を向いていた。


 


 そのとき――地下の水路に、ぽた、と水音が落ちる。


 ぽた、ぽた、と。

 静かに、正確に、“時”を刻むように。


 


「ねえ……あと数分だけでもいい。“休戦”、できないかな?


 カナタとNo.2K-Λ――“彼”の会話を、“記録”にしてあげたい。


 ……私、ああいう子を見てると、昔の弟を思い出すの。小さくて、傷だらけで、それでも声を出せなかった子。


 ……だから今度は、誰かに聞いてもらえる記憶を、ちゃんと残してあげたいの」


 


 沈黙ののち、最初に頷いたのは、レオンだった。


「……“話す機会”を奪ってきたのは、俺たちの側だった。……俺も、かつて似たような子を守れなかった。だから、今度は――守る。たとえ数分でも」


 


 アリステアが静かに術式を展開した。

 淡い青の光が網目のように広がり、まるで空間そのものを“凍らせる”ように静止させていく。

 それは、「心の揺らぎ」を逃がさず、丁寧に包み込む泡――記録官にしか使えない、精密な空間魔術だった。


 


 “地下水路臨時安息領域”。


 その泡の中で、ふたりの少年が対峙していた。


 


 カナタと、No.2K-Λ。


 否――“○△□”と名づけられる前の、彼。


 


 二人の間に落ちたのは、言葉を探す沈黙だった。


 水音だけが響く中、カナタはひと呼吸おき――口を開いた。


 


「……え、えと……まず……こんに……ち……は」


 


 ホシノが思わず吹き出しかけたが、リオが肘で突いて止めた。


「“まず挨拶から”って……どこの就職面接よ」


「……いいじゃん、まじめで……」


 


 たどたどしくも、カナタの声には熱があった。


「おれ、カナタ。なまえ、ある。

 きみ……は、まだ、もらってないんだよな?」


 


 No.2K-Λは沈黙を続けていた。

 けれど、その沈黙の中に、かすかに“耳を傾ける”意志があった。


 


 カナタはそっと腰を下ろし、同じ目線に立つ。


 


「……きょりってさ、ちかづくの、こわいよね……」


 


 声が、揺れた。


 でも、彼は語り続けた。


 


「おれ、じっけんだった。めいれいだけ、まいにち。それがふつうだった」


「でも、“なまえ”をもらって、“だれか”になれた」


「ごはん、うまいって思えるようになったのも……」


「いまは、おなかすくのも……たのしい。“いきてる”って、かんじが、する」


 


 そして、静かに問いかけた。


 


「でも……きみは、“たのしい”って思ったこと、ある?」


 


 張り詰めた空気が、指先に触れるように震えた。

 カナタの問いが、仮面の奥に眠る“感情の輪郭”へと触れていく。


 


 ──ぷすっ。


 


「ッ……あ、あああ……また、鳴った……ち、違うんです、これは共鳴じゃ……っ!」


 


 フェンが即座に通訳する。


「キュルル曰く、“彼の心と胃袋が、名前でつながった証”だそうで」


「……それ、魔術分類的にはどこに入るんだ?」


「第七感……胃感らしい」


「……新設するな!」


「ちなみに、胃感を鍛えると“パンの匂い”がわかるらしい」


「……犬を超えて……もう、人間やめてるな……」


 


 笑いが、静寂をやさしく揺らす。


 


 そのとき――No.2K-Λの仮面が、わずかに傾いた。


 まるで、“音”に反応するように。


 


「記録、反応した!」


 アリステアが声を上げる。


「“同期エラー”が出てる!」


「つまり……?」


「仮面の中で、いま……“心”が芽吹いてる!」


 


 だから――


 


 カナタが立ち上がり、まっすぐに手を差し出した。


「きみにも、“なまえ”、みつけてほしい」


 


 No.2K-Λは動かない。


 仮面の奥は、なお沈黙のままだ。


 


 それでも、カナタは笑った。


 


「……なまえ、つけるのは……おれじゃない。きみが、えらぶこと、なんだ」


 


 その瞬間、不意に――


 カナタの目元に、涙が滲んだ。


 


「……でもさ、本当は、ずっと……きみが、“なにか”を叫んでるような気がしてたんだ」


 


 震える声。

 それは、カナタ自身の記憶と痛みでもあった。


 


「ずっと無視されて、名前もなくて、誰にも“居る”って思ってもらえないの、つらいよね……」


 


 カナタは、フェンの手帳を見て呟く。


「ここにね、かいてあった。“つきよにめざめた、じっけんたい”って」


 


 そっと笑う。


 


「だったらさ……“ツキヨ”って、名まえ……

 

 ……つきのよるみたいに、やさしくて、さびしくて……でも、ちゃんとひかってる。きみに、ぴったりだよ」


 


 ――“ツキヨ”。


 


 その音が、空間にやさしく響いた瞬間――


 


 No.2K-Λの指が、そっと、カナタの手に触れた。


 


 ほんの一瞬。


 けれど、それは、確かな“選択”だった。


 


 そのとき、結界核が微かに震え、青い光がふっと揺らいだ。


 「──時限術式、終端に達した。これ以上は保てない」


 


 ホシノが指を鳴らした。


 


「──終了。帰るよ、カナタ。……ツキヨも、またね」


 


 “ツキヨ”は何も答えなかった。


 けれど、去っていくその背に、たしかに――“誰かになろうとする音”が宿っていた。


 


 それはもう、ただの兵器の足音じゃなかったんだ。


 


 レオンがぽつりと呟く。


「……記録が、生まれ変わったな」


 


 そして、最後に。


 リオは小さく息を吐き、胸に手を当てながらつぶやいた。


「……なんでか分かんないけど、今日も……運がいい」


 


 泡の結界が解け、地下の闇に冷たい空気が戻ってくる。

 誰もが言葉を失い、ただ小さな余韻を胸に抱えていた。


 それは確かに、記録官の筆でさえ完全には写せぬほどの“誕生”だった。

 名を与えられるということは、ただ呼ばれること以上の意味を持つ。

 ――その存在が「ここに居る」と、世界に刻まれることだからだ。


 


 その夜もまた、何気ない笑いの影で、未来は音もなく書き換えられていた。

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