第87話 震える子鹿、名前を喰らう――記録を消されかけたぼくが、三度目の腹の音で世界を救った件
――名は消えゆく。
けれど、心に刻まれたものは、誰も奪えない。
落ちた仮面の名は――“カナ”。
レイ・トロン。
真名は、“レイ・カナ・トロン”。
忘れられた、もう一人の“子ども”。
それはただの記録の欠落ではなかった。
記録官が消した名。
制度が見なかった名。
そして、自らも――捨てた名。
けれど。
リオが描いた絵本――『なまえのない こどもたち』。
そのたった一冊が、“空白”に小さな震えを起こした。
――だが、その揺れは、すぐに沈む。
“名前を奪う”異能――“ネームドレイン”。
音が、場から消えた。
アリステアの影が、ざらりと裂ける。
「……この感覚、まさか――」
名が、声もなく、抜き取られていく。
存在の根から、“名前”が切り取られる――そんな痛み。
だがそのとき――
「――やめろッ!!」
割って入ったのはユリウスだった。
焼け焦げた“封印の刻印書”を掲げ、その身ごと立ちはだかる。
「……私の罪は、記録で裁かれよう。
だが、“名前を護ること”を、最後にさせてくれ……」
声が、名とともに削がれていくなか、彼はアリステアへと叫ぶ。
「……アリステア。……いや……アリー……」
その名に、銀の瞳が大きく揺れた。
胸の奥に刺さる痛み。
――忘れられたはずの響き。
誰も知らなかった。
ユリウスは、彼女の“兄”だったのだ。
制度が切り捨てた、“家族”という記憶。
その断片が、ようやく蘇る。
「……君が忘れていても構わない。でも、せめて――真実だけは残したい」
削がれる名の痛みに顔を歪めながら、ユリウスは“刻印書”を掲げる。
そこから青白い魔導映像が立ち上がり――空間を染めた。
映像の中で、蒼い薬瓶を手にした男が薄く笑う。
『……国家の秩序とは、感情の整理だと、私は信じている。
その手段を、ただ――始めるだけのことです』
薬瓶、空虚な瞳。
映像は、言葉以上に“恐怖”を物語っていた。
「……あれが、“セレン・コーテ”」
ユリウスの声が震えた。
「帝都の地下で作られていた……心を削る薬だ」
霞む声のまま、それでも彼は続ける。
「……アリー……術が暴れるのは、君が泣いていたからだ。
薬で縛った……間違いだったかもしれない。
でも……守りたかったんだ。君の心を」
それは、兄としての、唯一の贖罪。
妹を守るために、倫理を捨てざるを得なかった。
「……でも、もう……遅い……」
“刻印書”が、音もなく落ちる。
ユリウスの身体が、霧のように、名前ごと――溶けていく。
それでも最後に、彼は言った。
「……ヴァルドが求めたのは、“未来を見る力”じゃない。
“未来を……記す”力……“神の記録”を持つ者だ……」
誰かが、息を呑んだ。
ホシノの瞳が、わずかに開かれる。
それが、彼女たちが“選ばれた理由”。
“記録が消せなかった”未来の断片――
……静寂が、場を包む。
焼け焦げた“刻印書”が、静かに音を立てて落ちた。
それは、終わりの合図のようでもあり、
また、始まりの鐘の音でもあった。
その中で。
細く震える指先が、そっと動いた。
リオだった。
「……ご、ごめんなさいっ……やめてください……ぼくには無理です……でもっ……!」
震えながらも、一歩、前へ。
掌には、フェン特製の“薬草飴”。別名、“共鳴の媒介”。
それを、そっと――レイ・トロンの前に置く。
「……これは、“名前を忘れないで”って願った人の、涙の結晶です。
ぼくは、ただ、それを見ていただけなんです。ずっと、ずっと――心で」
魔法でも、異能でもない。
けれど、共鳴する言葉に――空気が微かに震えた。
リオの胸元の結晶――セシリアの涙が、静かに共鳴する。
「……あなた、ほんとうは……名前を、捨てたくなかったんじゃないですか……?
誰かになりたくて、誰かのために名前をつけたくて……
だから……奪ったんじゃなくて、“背負ってた”んじゃないですか……?」
その瞬間――
仮面の奥で、レイ・トロンの身体が、わずかに揺れた。
沈黙が、重く場を覆う。
……きゅるる。
場に似つかわしくない音が響いた。
リオの顔が真っ赤になる。
フェンが手帳をめくり、さらりと呟く。
「……キュルル曰く。
『“名前を喰らう異能”っていうより、“名前に飢えた孤独な子ども”。
……お腹にくるらしい』」
レオンが眉をひそめる。
「……胃袋に共鳴? そんな魔力媒体、聞いたことねぇぞ」
「や、やめてぇっ! それじゃ“異喰の魔導士”じゃないですかぁっ!」
リオが青ざめて叫ぶ。
小さな笑いが、場に零れた。
重かった空気が、ふっと緩む。
その“ゆるみ”に――仮面の奥から、何かがこぼれ落ちた。
泣き声とも、笑い声ともつかない、奇妙な音。
レイ・トロンの仮面に、細かなひびが入る。
「……甘いですね、小さなお客さま。
でも……少しだけ……ほんの少しだけ……温かかった」
そう言って、彼は仮面を拾い上げた。
かすれた嗚咽、一筋の涙。
その仮面に宿っていた“完全な無表情”は、もう――戻らなかった。
「記録は……君たちに、任せましょう」
そして彼は、暗き回廊の奥へと静かに姿を消す。
誰も追わなかった。
もう、追う必要はなかったから。
静寂が残る。
でも、それは“優しい余白”だった。
アリステアが、ぽつりと呟いた。
「……兄さん……わたし……」
震える手で口元を覆う。
あのときの声。あの瞳。あの、たったひとつの呼び名。
記録からは消されても、心の奥に残っていたものが――
涙とともに溢れていく。
静かに、しゃくりあげるようにして泣いた。
その肩を、リオがそっと抱いた。
「……名前は、記録じゃない。記憶に宿る。
……だから、リオ。あなたのしたことは、正しかったわ」
リオは、きゅるる……と鳴るお腹を抱えながら、こくんと頷いた。
そして――
「……フェン、大好きぃ……」
「はいはい、知ってる。胃袋より軽い告白だな」
リオは真っ赤になって、またお腹を押さえた。
きゅるるる――。
その笑顔に、ホシノが寄り添い、カナタが頭をぽんと撫でる。
レオンは矢を背に戻しながら、静かに呟いた。
「……“蒸発事件”の記録は、ここで終わりだ。
でも……俺たちの未来は、まだ書き残せる」
その言葉に、リオの瞳が微かに光を宿す。
名を奪われても、記録を捨てられても――
誰かの心に残っていれば、存在は消えない。
そのとき。
きゅ……るる……っ。
三度目の、胃の音。
どこか――嬉しそうだった。
リオが、笑う。
「……うん。ぼく、まだ……ここにいていい、よね……?」
誰も、答えなかった。
けれど、その沈黙は――確かに、肯定だった。
その日。
帝都“記録管理局”第零層にて――
名もなき子どもたちが、“ここにいた”ということが、
記録と、記憶に、確かに刻まれた。
その沈黙の余白に、誰も知らぬ“微かな震え”が走る。
リオの小さな一歩が、確かに未来を揺らしていた。
三度目のきゅるる。
それはただの空腹音ではなく――
場にいた全員の心を結ぶ、かすかな奇跡の音だった。
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