第62話 震える子鹿、よちよち進む――腹ペコで怖がりな勇者見習い
夜の屋敷に、緊張と静寂が交錯する。
一匹の子鹿のように、少年は足を踏み出した。
きゅぅぅぅぅぅぅうぅるるぅ……。
――鳴った。鳴ってしまった。
「……また“きゅるる”って鳴ってる……!」
薄暗い廊下で、リオの肩が小刻みに震える。
空腹以上の何か――胸の奥からぞわりと警鐘が鳴り響き、全身が警告に染まった。
手の中の薬草飴を握りしめ、リオは前屈みになる。
ふるふると震える肩。胸の奥がちくりと痛む。
(……逃げたい。でも、姉さまの笑顔は……)
胸の奥の声――キュルルの声――は告げていた。
「行くなら覚悟しろ」
体がそれを理解していた。
屋敷の一角が吹き飛ばされていた。
震源は、セシリアの私室。父ゼロスの一撃が、侵入者と部屋をまとめて消し飛ばしたのだ。
姉、セシリア。完璧で高貴で、誰よりも他人を思いやる人。
そんな姉が、また狙われた。
家族はすでに動いていた。
ケインは風のように駆け抜け、セレナは落ち着いて避難を誘導。
ゼロスは背に凍てつく風を受け、戦場の庭を鋭く見据えた。
リオだけは、足がすくんでいた。
「ごめんなさいぃぃ! やめてくださいっ、ぼくなんてぇぇ!」
必死の叫び。だが、物陰から見ていた老執事マルカスの目は、震える少年の奥に確かな“何か”を捉えていた。
リオの目は動いていた。
崩れた廊下の木くず、煤の匂い、燃えかすの散り方、空気の流れ――無意識に拾い、繋げ、意味を導き出す。
(この煙……火薬じゃない。油と……あっ、あれっ!?)
ぶるるっ。
胃袋が鳴いた。情報のピースが、音を立てて嵌まった。
怖くて泣きたい。でも、もう涙は出ない。
あの夜、“情報の扉”が開いて以来、リオの涙腺は閉じたままだ。
だからこそ、進める。
「セシリア姉さまは……まだ屋敷の外に……南側!」
その声に、父ゼロスが一瞬振り返る。
鋭く冷静な目が、言葉の意図を一瞬で把握した。
「ケイン、南へ回れ。セシリアを探せ」
「父さま、了解っ!」
ゼロスはリオに言った。
「……よく見ていた。だが、それがいい。いや、それが、いいのだ」
無表情の肯定――父にできる最大の愛情表現。
「……ゼ、ゼロスさまっ! リオ坊ちゃんを、下がらせます!」
ティナの声に、軽く頷くゼロス。
「ティナ、任せる」
「承ります。リオ坊ちゃん、……その飴、手から滑り落ちそうじゃありませんか?」
母のようで、姉のようで、友のような声。
リオは黙って頷き、胸元で飴玉を握りしめた。
セシリアは屋敷裏の温室に身を潜めていた。
爆風を避け、息をひそめる。
「……リオ、気づいてくれているといいのだけれど」
完璧な少女が、一人、信じる弟――“弱い”と思われている弟に、願いを託す。
(あの子が、昔、迷子になった私を見つけてくれた夜……あれ以来、私はリオを信じている)
未完成な者には、バランスを変える余地がある。
一方、屋敷北の森。
フェンは枝に腰かけ、空を見上げていた。
「……さて、“蛇”が牙を剥いた。“猫”も飛びついた。次は、“子鹿”だな」
飴玉を取り出し、つぶやく。
「震えながら、それでも君は立ってる。きゅるるは俺が聞いてるからな」
リオには届かない。それでも、フェンの視線が確かに背中を押していた。
「リオ。間に合ってくれ」
その夜、リオの胃袋が今までにない音を立てた。
ぎゅぅぅぅぅぅぅっっ!!!
足が止まる。心臓が破裂しそうだ。
震える手――それでも姉への道を指している。
泣けなくても、進むしかない。
そして――
ぽとり。
飴が床に落ちた。
「……あ、やっちゃった」
震える手で拾いもせず、思わず小さく苦笑。
ひゅるり、と夜風が肩を揺らす。
子鹿のように、リオはまた歩き出す――少し肩の力を抜いて、でも前を見据え、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
夜風に揺れる肩。少しだけ、胸の奥が軽くなる。
それでも、リオは前だけを見つめ、歩みを止めなかった。
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