第61話 メモ魔、全力で背伸び――夜を裂く笑いと、ほんの少しの勇気

 夜風が吐息をさらい、街は赤黒く揺れていた。

 二人は互いの影を確かめるように、静かに走り出す。




 フェンは、いつもの眠たげな目をしていた。

 だがその奥には、冷たく研がれた光が潜んでいる。


 手にしているのは、分厚い手帳。

 端には、新たな付箋が一枚――親友の胃袋の悲鳴か、あるいは他人の断末魔か。


「格好つけてるとこ悪いが、“化猫”」


「なによ?」


 ティナは小首を傾げる。猫のような細目が、フェンを鋭く射抜いた。

 その瞳に油断はない。“無音の陰影”の密偵としての本性が、その奥に潜んでいた。


 だが。


「……ティナ。お前が帝都にフロスト家の情報を流していたこと、もうバレてるぞ」


 ピクリ。ティナのこめかみがわずかに震える。

 それでも、笑みは崩さない。“化猫”の通り名は伊達ではない。


「ふふ……冗談が過ぎるわよ、メモ魔」


「俺、空腹のときは冗談なんか言わない」


 フェンは手帳を開き、紙がめくれる音がやけに大きく響いた。


「毎朝、ゴミ箱から手紙の切れ端を拾ってた奴がいる。

 重さと筆圧だけで筆者を割り出す……変態だ」


 少し間を置き、肩をすくめる。


「たぶん、俺より変態だ」


 ティナの眉が、ぴくりと跳ねた。


「……なあ、ティナ」


 喉がかすかに鳴る。否定しない。ティナは、言葉の刃を受け切ってから反撃するタイプだった。


「お前が無能だとは思ってない。……だからこそ――挽回の余地はある」


 フェンは手帳の裏から羊皮紙を取り出す。

 ギルドマスター・セス――冷徹にすべてを仕切る“無音の男”からの命令書だ。


 『アレキサンドロス特等学園におけるセシリア嬢の護衛および、サナリア・レアノート侯爵令嬢の監視を命ず』


 ギルド最上位の任務指令。添付された資料には、こう記されていた。


 “監視対象:サナリア嬢 ――使用人情報、配置一覧”


 ティナの笑みが、音もなく凍った。空気が変わる。


「誰が、一体……私が、ミスをしたと?」


「いいや。むしろ完璧だった。たぶんな」


 フェンは目元をわずかに歪めて笑う。


「ただ、“お前の想定”を超えるビビりが、“お前を売った”ってだけの話だ」


 ティナは唇を噛む。肩がわずかに沈んだ。――完璧が崩れたとき、人は本当に“無音”になる。


「リオさま、か……それでも、ギルドとの繋ぎは残ってる。今も私は、“捨てられていない”わ」


「“密偵がバレた時点で、連絡が来ない”ってどういうことか……考えたことあるか?」


 ギルドは“消えた”と判断したら、それっきりだ。……つまり、そういうことだ。


「……処理、するの?」


「うなわけあるか、命令が出てるだろ」


 フェンが手帳をめくる。『情報:ティナ』の見出しが目に入る。


「選べ、ティナ。……受けるか、受けないか」


 沈黙。ティナは息を潜め、瞬きを一度。指先がわずかに震える。

 胸の奥で、小さな声が囁く――選ばなければ、すべては終わる、と。

 迷ってはいない。だが、あの屋根裏で眠れなかった夜の孤独が胸の奥に爪痕を残していた。


 あの頃の彼女は、夜の静けさに怯えていた。ただの少女だった。

 屋根裏で震えて、幼いフェンの袖を小さく握っていた――あの手は、今や刃となった。


「……昔、あの屋根裏で泣いてたくせに」


 フェンの低い声が、記憶をえぐる。


 ティナの睫毛がかすかに揺れた。もう涙は似合わなかった。


「……逃げ道は、もうないってわけね」


「褒め言葉として受け取るよ、“化猫のティナ”。命令は全力で実行しろ」


 その刹那、ティナの瞳に、人間らしい揺らぎが滲んだ。

 けれどそれは霧のように淡く、すぐに夜に溶けた。


「フロスト家の令嬢、セシリアの護衛。そして、サナリアの監視。――了解したわ」


 フェンは、黙って手帳を閉じた。

 夜風が窓を叩き、紙の端をめくる。


 ――そして。


 遠くで、鈍い爆音が地鳴りのように響いた。

 夜空が赤黒く染まり、焦げた紙片と油の匂いが風に乗って届く。

 遠くの叫び声がかすかに耳に入り、緊張が胸を締め付ける。

 爆発の方向は、フロスト子爵邸。セシリアの部屋のある棟だ。


「あの部屋……またセシリアが狙われた?」


 フェンが目を細めた。


「……今度は、遊びじゃないな」


「何言ってんの。急ぐわよ」


 ティナは赤毛をひとつに束ね、踵を返す。


『「この夜を境に、“蛇”が牙を剥く。そして……影が、踊り始めるか」』


 フェンは、その呟きを手帳に記した。

 (命令は“全力で実行”か。なら、俺は――“全力で、生かす”方向に振り切ってみるか)


 走り出す直前、ティナが横目で言う。


「ねえフェン……さっきの“化猫”呼び、もう何度目よ。そろそろ本気で噛むわよ」


「三回……? なら、あと二回はまだセーフってことだな」


「……違うわよ! 本気で噛んだら、あんた、その顔、二度と見せてもらえないんだから」


 ティナの声には、少しだけ怒りと、それ以上の照れが混ざっていた。夜風に揺れる赤毛が、彼女の肩越しに小さく震れる。


 フェンは鼻の奥で微かに笑い、手帳の角を指で軽く弾いた。その仕草に、戦場の緊張の中でも一瞬だけ息をつける温度が宿る。


「じゃあ残り二回は――あんたが本気で怒る前に、俺の冗談で笑わせてみせる」


 フェンの声は低く、夜の静寂に溶けるようだった。ティナはその声に、ほんの一瞬、心が緩むのを感じた。刹那の温かさが、黒煙よりも濃く二人を包む。


 夜の暗闇、遠くで炸裂する爆音、焦げた匂い――それでも二人の間には、わずかな光が残っていた。笑いは、戦いの合間の小さな魔法のように。




 火と煙に染まるフロストの夜を、二人の笑いが裂くように駆け抜けた。

 赤い夜を背に、フェンとティナはただひたすら、走って行った。

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