第63話 震える子鹿、もぞもぞ歩く――守りたい姉と、自分の胃袋のせいで大騒ぎ

 夜の温室に、沈黙が降りる。

 少年は震えながらも、姉のために足を踏み出した。




 ――きゅぅぅぅぅぅるるぅ。


 ……それすら、もう鳴らない。


 リオの胃袋“キュルル”は、“本番前の静寂”に沈んでいた。


 真夏の夜。なのに、風はひどく冷たい。

 湿った空気が草を撫で、夜虫の声すら、今は息をひそめている。


 


 リオは肩をすくめ、胸元に忍ばせた薬草飴の袋を握りしめた。


(もう、逃げられない。姉さまが……あそこにいる)


 屋敷裏の温室――かつて、姉と星を眺めた、小さな硝子の館。

 その奥から、微かに“セシリアの気配”がする。


 月を背に、ガラスの建物が木々の陰に浮かぶ。

 まるで、時間に取り残された記憶のようだった。


 今夜、部屋が吹き飛び、姉の生死すらわからなかった。

 けれど――あの声は、確かに、聞こえた。


(呼ばれてる。……だったら、応えるだけ)


 草を踏む足音が、やけに大きく響いた。

 吐いた息が白くにじみ、背中に冷たいものが這う。


(飴……あと、一個)


 震える指先で包みを破り、薬草飴を舌に乗せた。

 ピリリとした苦味と刺激が、喉から胸へ、じんわりと勇気を注ぐ。


 


 ――そのときだった。


 風とは違う“何か”が、木々の間をすべった。


(……気配)


 ひやりと背を撫でる感触。視線のようなものが、肌に絡みつく。


(誰かが……いる)


 振り返る。けれど、誰もいない。

 空気が――違っていた。


 温室の扉まで、あと三歩。


 リオは自分を抱くように身を縮め、一歩、また一歩と歩を進めた。


 


 ――ぞわり。


 氷の爪で背を撫でられたような、悪寒。


(っ!?)


 振り返るより早く、耳元に声が落ちてきた。


「お静かに。小さなお客さま」


 低く、甘く、ひどく静かな声だった。


 リオは反射的に飛び退き、その場に膝をつく。


 ――そこに、いた。


 


 白無垢の仮面。だが“目”がなかった。

 くり抜かれているわけでもなく、最初から存在していない。


 それなのに、不思議と――笑っているように見えた。


 燕尾服を思わせる黒の装束は、あまりに整いすぎていて、どこか現実から乖離していた。


 それは、舞台から取り残された亡霊。

 あるいは、夢の中にだけ現れる怪物。


 そしてその声は――ひとつではなかった。

 複数の男女が、同時に話しているような、不協和音。


「名乗るほどの者ではないが……“レイ”と呼ばれている」


 仮面の奥の気配は、鋭い刃のように冷たく、沈んでいた。


 


(この人が……“殺し屋”)


 思考より早く、口が動いた。


「……その仮面……見えてるんですか?」


 声はかすかに震えた。だが、目は逸らさなかった。


 レイの仮面の口元が、わずかに歪む。音もなく、笑ったように見えた。


「見えていないさ。だが、“気配”で足りる」


(……やっぱり人間じゃない)


 返す言葉を探したが、喉が固く詰まった。


 その瞬間――


 ――コン。


 温室の扉が、控えめに叩かれた。


「……リオ?」


 姉の声。あたたかくて、少し心配そうで――確かに、生きていた。


 


 ぷつん、と胸の奥で何かが切れた。


「姉さまっ、逃げて!! こっちに……すごいヤバい奴がいるの! 仮面で、笑ってて、殺し屋で……!」


 叫びは少し歪んでいた。でも、必死だった。


 レイは肩をすくめ、小さく笑った。


「騒ぎましたね? ――ならば、応じましょう」


 


 ギィィィィン――ッ!!


 空を裂くような金属音が響いた。


 次の瞬間、紅の斬光が温室の屋根を貫いた。


 灼熱の炎を纏った大剣が、斜めに硝子を切り裂く。

 衝撃波が草木をなぎ倒し、焦げた風が夜気を巻き上げる。


 そして――その中心に、ひとりの男が舞い降りた。


 


 逆手に大剣を構え、背に紅蓮の炎をまとう。

 ゼロス・フロスト。リオの――父。


 


 ◇ 


 ゼロスは、上空から舞い降りながら“それ”を見た。


 ――仮面の殺気。気配で語る男。

 “息子”に向けられた、あまりに冷たい刃。


 胸の奥に、小さく、けれど確かな怒りの火が灯る。


 (間に合え――)


 紅の大剣“インフェルニア”が咆哮する。

 その炎は、ただの力ではない。“守るための記憶”だ。


 


 ゼロスは音もなく地に降り立ち、レイをまっすぐに見据えた。


「……息子に刃を向けたか」


 静かな声。だが、内に宿る怒りは炎そのものだった。


「ならば――おまえの罰は、ここで終わることだ」


 レイの仮面が、わずかに揺れる。


 


 リオはその場に崩れ落ち、震える手で父の背に触れた。


 ――そこにある。あの日、守ってくれた背中が。


 ずっと、ここに戻ってきたかった。


「……待ってたよ……もう……がんばれないよ……」


 ゼロスは振り返らなかった。けれど、確かに言った。


「よく耐えたな、リオ」


 その一言だけで、胸がぎゅうっと締めつけられた。


 それだけで、もう――救われた。


 


 レイの姿が、霧のようにゆっくりと、ほどけていく。


 白い仮面の“笑み”だけが、最後まで残り、そして――


 


 ぽとり。


 リオの足元に、仮面の欠片が落ちた。


 裏には、焦げたような黒い文様。

 それは、まるで焼き印のような呪紋だった。


 仮面を拾いあげると、微かに熱が残っていた。


 その温もりに、リオはざらついた違和感を覚える。


(……何かが、残されてる)


 欠片は、ただの名残ではなかった。

 “次”へ繋がる印。未完の敵意。あるいは――黒幕の痕跡。


「また会いましょう、小さなお客さま」


 声だけが、夜霧に溶けていった。


 


 焦げた匂いと、父の背の温もりだけが、夜の静寂に残された。


 リオはそっと仮面の欠片に触れた。


 何も感じなかった。けれど、心の奥が妙に静かだった。


 


(……そうだ。もう、涙は――渡してしまったから)


 


 ――温室の扉が、静かに開いた。


「リオ……大丈夫……?」


 セシリアの白いワンピースが、月明かりに揺れる。


 その声は、優しくて、確かに――生きていた。


 


 言葉が、出ない。

 喉が詰まり、息が引っかかる。


 ただ、胸の奥で、言葉にならない叫びが、静かに渦を巻いていた。


 


 ぽとり。


 涙ではない。ただの感覚の名残が、頬を伝った。


 


「また変な奴に絡まれてたの?」


 セシリアが、リオの頭にそっと手を置く。


 その手は、信じられないほど――あたたかかった。


 


 リオは、ようやく。

 ようやく、肩の力を抜いた。


 


 月明かりの下、姉の笑顔が、夜をやさしく照らしていた。




 奇跡は静かに、三度、リオの背を押していた。

 本人は気づかず、ただ「運がよかった」と微かに笑うだけだった。

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