第58話 震える子鹿、踏み出す――泣けないぼくと父さんの、まさかの氷結ファミリー劇場
恐れは、足を止めさせる。
けれど時に、それは踏み出す理由にもなる。
臆病者にしか見えない景色が、世界には確かにある。
フロスト子爵邸、執務室。
屋敷で最も魔力が濃く、最も空気が冷たい場所。
そして当主が紅茶をぬるくしてしまう部屋でもある。
椅子に腰掛けるのは“辺境最強”ゼロス・フロスト。
その視線の先で、少年リオは椅子から溶け落ちそうな姿勢で固まっていた。
「……すぅー……すぅぅー……」
「リオ。寝るな」
「ご、ごめんなさい! 眠気じゃなくて……逃避ですぅ!」
「……自白が早いな」
白い吐息が漂い、空気がさらに冷える。
フェンが薬草飴を差し出す。控えめな手つき。差し出される飴は、救いにも毒にも見えた。
「ほら、舐める?」
「……んぅ……生き返る……でも、この部屋にいる理由、絶対ろくでもない……」
ゼロス式――氷の尋問が始まろうとしていた。
だがゼロスの声音は穏やかだが、瞳だけが鋼のように冷たい。
「……リオ、お前が“感じた”ことを、改めて詳しく話せ」
リオの呼吸は浅い。指先はわずかに震え、唇はいつもより少し白い。
その白さが言葉の端を削いでいた。
フェンを見ると、彼は困ったように肩をすくめた。優しいが、逃げ道はない。
「……父さま」
震える声に、わずかな決意が差した。
「……あの、姉さまの様子が……明らかに、変だったんです」
リオは搾り出すように言った。
女子寮での視線の短さ、夜の眠りの断片、魔力の波形に混じる小さな濁り。
見ればわかるものを、彼は見てしまった。忘れられなかった。
「姉さまのいつもの笑い方と、帝都での笑い方が、ぜんっぜん違ってて……! なんか……表面的っていうか、作り物というか……」
一瞬、部屋の空気が静止した。ゼロスとフェンの目が揃ってリオに向く。
――あの日。
特等学園女子寮の部屋で、セシリアはベッドに手をつき、水をひと口で置いた。
その笑顔は春のそれとはどこか違っていた。冷えた鏡のような微笑み。
「茶会のあと、姉さまは寝込んでました。女子寮では“季節の魔力疲労”って言われたけど、違うと思ったんです」
リオの声は震え、飴の包み紙をぎゅっと握る。
魔力の流れがわずかにずれていた。体内で描く波形に、不自然な揺らぎがあった。見知らぬ薬の痕跡――それを、彼は見逃さなかった。
「体内の魔力が、少しだけ“ズレてた”んです。……たぶん、薬の影響で。魔力を偽装する何かが、混ざってました……」
ゼロスの目が細くなる。氷の刃がさらに鋭くなる。
「それが、第三皇子を疑う理由か?」
「いえ……それは別にあります」
「……話せ」
リオは唇を噛んだ。膝の上で飴が静かに転がる。
「……言えないんです。情報源の都合で」
「契約か?」
ゼロスの声に間が入る。追及は容赦ない。
「……闇ギルド“無音の陰影”(地下に根を張る情報屋と暗術師の連盟)です」
その名が出た瞬間、部屋の温度が一層下がったように感じられた。フェンの瞳が鋭く光る。
「無音の陰影か……詳しくは?」
リオは首を振った。説明は最小限に。真実だけを届けたい。ゼロスの静かな圧力が、それを促す。
「ある場所で、儀式をしました――」
言葉はそこで切れ、リオの中で時間が沈んだ。回想が始まる。
――十数日前。
路地裏のさらに奥、昼でも薄暗い階層の地下。湿った石の匂いと、焦げた香草の香りが混じる空間。水滴が遠くで小さく落ちる音。そこに古びた祭壇があった。
情報の扉(古代儀式型の魔導祭壇)――と、後で知った名前をリオはその場で耳にした。祭壇自体は古い。だが反応したのは、彼だけだった。祭壇は彼だけを選んだ。権能はリオだけに応答した。
青い龍紋が脈打ち、空気が震えた。祭壇は第三皇子の名を告げた。だが代償は、涙だった。泣き方を忘れたように、胸だけが軋んだ。儀式は、彼の身体にだけ効いた。
「……ほんの少しだけ依頼して、潜って、探って……すぐ出るつもりで……」
「“少しだけ”で済むと思って関わった者の末路は、山ほど見てきた」
ゼロスの声は硬い。だが何かが鳴った。リオは震えながらも目を逸らさない。
「――代償は、涙を奪われることでした。姉さまを助ける代わりに、ぼくの涙を、奪われました。泣けなくなったんです。でも、後悔はないです」
その告白に、室内の空気がぎゅっと詰まる。言葉のすき間に、無言の重さが流れた。
リオの顎が小さく震える。瞼は乾いている。涙は出ない。喉の奥が焼けるように熱いだけだった。泣きたくて仕方がないのに、身体は応えない。完璧ではない痛みがそこにあった。
ゼロスはしばらく黙していた。鋼のように冷たい瞳に、雪解けの兆しが差す。肩が僅かに落ち、鼻の奥でかすかに息を吐いた――まるで冬の朝、屋根の雪が落ちるような音だった。静けさが、音を含んで解ける。
「……だが、それでいい」
その一言に、一瞬だけ世界が静まった。リオはゆっくり顔を上げる。
ゼロスの視線が氷から雪解けに変わるのが見えた。厳しさの端が取れ、暖かさが混じる。
「恐れながらも、動いたこと。言いにくいことを、言ったこと。それは、お前の“勇気”だ」
リオの声が、少しだけ強くなる。
「……父さま……」
フェンは静かに頷いた。彼の表情は冷静すぎず、信頼を後押しする温度で満ちている。
「うん、それでこそ我が子だな。だが薬草飴を舐めなさい」
「はい……すでに三粒目です……」
その声は、どこか可笑しくて、どこか哀しい。執務室の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
フェンはにひるに笑い、ゼロスは口元をわずかに緩める。扉の外から、タイミングを外したような掛け声が響いた。ケインが力いっぱいリオを応援している――が、その笛は一拍遅れて止まる。間の抜けた応援に、部屋の空気はふっと柔らかくなる。
胸の奥で、何かが静かに解けていく気がした。震える子鹿の、冒険の続きを告げる鐘が、また鳴り始めていた。
小さな行為の積み重ねが、三度目で世界の片隅をそっと押すことがある。
本人はそれを奇跡とは呼ばない。知らずに歩き続ける方が、その奇跡は静かに美しいのだ。
きゅるる。
――まったく。これだから、“家族”ってやつは。――だが、それがいいのだ。
――この世界には、見えない力がほんの少しだけ働く。気づかない者の足取りを、静かに押すように。
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