第57話 震える子鹿、踏み出す ――恐怖と白粥と、胃袋の平和
――臆病者の瞳にしか映らない、静かな奇跡がある。
そして、その先にしか守れないものが、確かに存在する。
胸の奥で、小さな金属球がゆっくり跳ねていた。
呼吸を整えようとするたび、球は勝手に弾み、鼓動を乱す。
静寂が降りる。
だがそれは先ほどまでの凍りつく沈黙ではない。
白粥の湯気が部屋を淡く温め、焦げたカリカリの香ばしさと甘い匂いが混ざり、家族の匂いが食卓に満ちていた。
箸を持ち上げかけた手を、リオはそっと置く。
そのわずかな音にも、父ゼロス・フロストの視線は反応する。
戦場で魔物を追い詰めた刃のような眼差し――鋼の眼光を持つ騎士であり、息子の退路を塞ぐ声の主。
「……それで、リオ。帝都で――何を見て、何をして、何をなして、何を感じた?」
その響きは、かつての戦よりも恐ろしい裁きとして胸に落ちた。
胃袋が、きゅぅ……と逃げ場を探す。
「フェン……助けて……」
隣の親友に縋る視線を送るが、返ってきたのは困ったような笑み。
「……悪いな、リオ。今回はお前の番だ」
優しいが、逃げ道は塞がれる。
机に額を押しつけたまま、長男としての重みが肩に降り積もる。
「……父さま」
震える声の奥に、わずかな決意が差す。
「あの……帝都では、姉さまの様子がおかしくて……それで、ぼく……調べました。勝手に……ごめんなさい」
――あの日。
帝都の大通りを抜け、特等学園の部屋で見た姉セシリア。
指先は白く冷え、菫の香がかすかに漂い、視線が一瞬だけ揺れた。
その瞬間、胸が強く締めつけられた。
「続けなさい」
ゼロスの低い声に、胸奥の金属球が跳ねる。
あの夜――
闇ギルド“無音の陰影”(地下に根を張る情報屋と暗術師の連盟)の奥に眠る古代の儀式型魔導祭壇、“情報の扉”。
石に刻まれた龍紋が青く光り、空気がひりつく。
儀式の触媒に応じたのは、リオだけだった。
祭壇は古びていたが、声を聴いたのは彼一人。
それは“情報の扉”と呼ばれる権能――古い石は名を囁いた。第三皇子の名を。
代償は、涙。
それでも後悔はなかった。何かを失っても、姉を助けたかったから。
「……姉さまは、特等学園の茶会で……毒を含んだ魔力薬を摂取した可能性が高いんです。紅茶か菓子かは不明……でも、脈、視線、手の震え――全部、毒物の反応と一致していました」
黒幕は第三皇子。だが証拠はない。
「……だから、怖くて……姉さまに言えませんでした。ぼくが動けば、もっと悪くなるかもしれないから……」
ゼロスは一拍置き、「そうか」とだけ告げた。
リオの肩が小さく震える。
そして――
「……それでいい」
その一言に、空気がわずかに変わる。
リオはゆっくり顔を上げた。鋼の父の眼差しは、柔らかな笑みに変わっていた。
「恐れて、怯えて、それでもお前は動いた。父として言える――お前は間違っていない」
「……父さま……」
「勇気とは、恐れを持たぬことではない。恐れを抱え、それでも進む心を、勇と呼ぶのだ」
その声は、幾千の命を背負った男の言葉だった。
喉が熱くなる。涙は出ない――奪われたものだから。
代わりに顎が、わずかに震えた。
――沈黙が一つ、落ちる。
胸の奥で、金属球がまたひとつ跳ねる。
それは、心が再び鼓動を取り戻す音だった。
「……はい」
リオの声はかすかに強くなっていた。
ゼロスは視線をフェンに向ける。
「君は、リオの背を守ると言ったな」
「ええ。誰よりも固く守ります。……胃袋の平和も、守ります」
古びた黒鉄の腕輪が、ゼロスの掌からフェンの前に置かれる。
フロスト家の竜の紋章が刻まれた、誓いの腕輪。
「……これは?」
「我が家で真に信頼する者にのみ渡す。リオを守るに相応しいと、我が剣が認めた」
フェンは深く頭を垂れた。
「……ありがとう、フェン。ただ……怖いものは、やっぱり怖いですぅ」
張り詰めた空気を、ふっと緩める声。
その時――
「おかわりよ、リオ。今度はカリカリを多めにしたわ」
母セレナの温かな声が、静けさの底にぬくもりを落とす。
「ママ……沁みる……」
匙を握る手に、ゆっくり力が戻る。
「……沁みる……」
ひと口、白粥を食べて、もう一度小さく呟く。
「……沁みすぎて……お腹まで泣いてる……」
泣けないはずの瞳が、わずかに潤んで見えた。
――突風のように。
「兄さまーっ!」
弟ケインが飛び込み、リオごと椅子を揺らす。
ゼロスが片手で椅子を立て直す所作は、戦場の救助のように無駄がない。
「兄さまのお腹、降伏確認〜!」
母とフェンが小さく笑う。リオは苦笑しながらお腹を押さえる。
その笑みが残るうちに――廊下から軽やかな足音。
「リオ」
姉セシリアが微笑んで立っていた。
胸に、一瞬で春が満ちる。
「……ただいま……姉さま……!」
「おかえり、リオ――話したいことが、あるの」
その声に過去の似た光景がかすめたが、すぐに別の感情が塗り替えた。
――三度目の“きゅるる”が、また訪れていた。
誰も知らない。
その音はいつも、少年の中に小さな光を灯す。
そして彼は今日も必死に笑いを抱きしめる。
窓の外では、冬の陽が傾き、白粥の湯気が淡く光を抱きながら立ちのぼる。
ほんのわずかな偶然が、未来をそっと紡いでいく。
リオがそれを理解する日は、まだ来ない。
……けれど、その奇跡の名を、彼はまだ知らない。
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