第59話 震える子鹿、灯し始める――胃袋は鳴くし、心は絶賛逃走中
怖がることは、弱さじゃない。臆病であることが、誰かを守る力になることだって、あるんだよ。
茶の香りが、ほんの少しだけ室内を満たす。
その香りに手を止められたように、話が静かに動き出した。
母セレナが紅茶のカップを置く音で、場の空気が一変した。
「ゼロス、少しお待ちなさいな」
その声は、氷のように凛としていて、同時に温かさを含んでいた。
セレナは、顔を上げるでもなく、ただ静かに席の後ろに立つ。彼女の視線は、客であるフェンへと向けられた。
「フェン君、あなたに尋ねたいことがありますの」
フェンは背筋を伸ばした。揺るがぬ目つきで応じる。
「はい、奥様。どうぞ」
セレナの問いは、やはり核心を突くものだった。
「まず、なぜあなた自身が闇ギルドに所属しているのかしら? ……あなたほどの人が、偶然などで入るとは思えません」
一瞬だけ、フェンの肩が落ちるように見えた。彼はゆっくりと息を吐き、指先がわずかに震えた。ティーカップの湯気がその震えをやさしく隠している。
彼の胸には言葉を渦巻かせる何かがあるらしく、静かに、しかし確かな声で答えた。
「……申し訳ありません。ですが、それにはまだ……お答えできません」
リオの喉が小さく鳴る。沈黙が一拍、伸びる。
フェンは視線を下げたまま、続けた。
「ただひとつだけ――それは、俺の出生に関わることです。いつか、必ずお話しします」
零れるような予告が、室内の空気を震わせた。
セシリアは、やや顔を曇らせる。彼女の体調不良の真因は、ここにあるのだと皆が知り始めている。だが、その“真因”を暴くために払った代償もまた、ここにあるのだ。
セレナが問を変える。
「では、なぜリオと行動を共にしているの?」
その瞬間、リオが小さく手を挙げる。逃走の癖は定番で、わざとらしいパフォーマンスだが、その目は震えている。
「それ、ぼくも気になってたぁあああ!」と、少し大きめの声が場を和ませるが、誰も笑い飛ばせない温度が残る。
フェンは、ふっとだけ笑んだ。
「それは……リオが、俺にとって必要な存在だったからです」
言葉は短い。だが、その中には重みがある。
「リオは、よく逃げる。でもそれは、臆病でも無責任でもない。怖がって、観察して、覚えて……その全部が、“真実を見抜く力”になる」
ゼロスの瞳が細まった。若き日の自分を思い出すような、遠い眼差しだ。
そして、誰にも気づかれぬように、耳慣れた少年が囁いた。
「三度目で、何かが起きるんだよね……」
呟いたのは、リオ。誰もがそれを声に出してはいないが、心のどこかで同じことを思っていた。
フェンはその言葉に小さく頷いた。説明は、言葉ではなく事実の積み重ねで示されるべきだと、彼は知っている。
「そして俺は、その目を借りてでも気づきたかった。“この国の奥”に巣くう気配に――」
そのとき、椅子の軋む音が静かに響いた。
立ち上がったのはセシリア。帰郷してすぐ、ゼロスに“ある異変”を告げ、決意を示していた彼女だ。
「わたくしも、向き合います。逃げたままではいられませんから」
セシリアはリオの傍へと身を屈め、柔らかく目を合わせて微笑んだ。
「ありがとう、リオ。あなたが気づいてくれて……本当に、うれしいわ」
リオの目が丸くなる。小さな体は震えているが、声はいつもより確かだ。
――ぎゅるっ!
キュルル(胃袋)の擬音が、場を一瞬だけ和ませる。
『(キュルル訳)姉さまの強さに、ぼくの胃袋が敬意を表してるぅ』
フェンは、その一文をそっと手帳に書き留める。文字は細く、確かだ。
マルカスが紅茶を差し出し、控えめに微笑む。場を和らげるための所作だが、その指先には緊張の名残がある。
ゼロスは視線を黒鉄の腕輪へと落とした。あの腕輪を託したとき、彼がフェンに一つだけ条件を伝えたことを思い出している。
「フェン君。あれを託したとき、ひとつだけ条件を伝えたはずだ」
「“リオの背中を守れ”ですね」
フェンの返答は即答だった。迷いはない。
「そうだ。では、今――その背中は、ここにあるか?」
フェンは迷わず頷いた。
「はい。いまも、ずっと。リオは、震えても止まらない。怖がりながら、それでも進もうとする。その姿は――ぼくには、奇跡に見えるんです」
その一言に、室内は静かに揺れた。奇跡の言葉は派手さを求めない。小さな、しかし確かな変化を指す。
セシリアの体調不良の原因は、その“情報の扉”が暴いた事実にあった。闇ギルド“無音の陰影”は、儀式を用いて黒幕を突き止めた。黒幕は、第三皇子だった。だがその代償は大きい――儀式は触媒として古い祭壇を用い、声を聴いたのはリオだけだった。権能はリオだけに応答したのだ――その断片が、場に冷たい影を落とす。
リオは、何かを失った。具体的には、彼の“涙”を奪われたのだ。魔力の代償は、概念的には説明できても、体感の痛みは別物だ。リオは泣けない。だが、その喉の震え、瞼のぬれなき跡、声の途切れが周囲の心を打つ。
「ごめんなさい、リオ」――セシリアの声には後悔の響きがあった。だが、リオは彼女は助けることを選んだのだ。後悔はない。
フェンが口を開く。今度は、より深く、より静かに。
「この国“の奥”には、目に見えない仕掛けがある。政治の奥、社会の裏、魔術の影……三つの層が絡み合っている。第三皇子は、その隙間を突いた。だが、彼らが求めた“答え”を見つけたのは、祭壇が選んだ者だけだった」
言葉は短く、説明は必要最小限に留められる。情緒が余白を埋めるのだ。
リオは涙を流さない。だが顎が震え、胸を大きく吸っては吐く。そのたびに、小さな音が室内に落ちる。セレナの目元が光る。ゼロスの手が、わずかに拳を握る。完璧ではない痛みが、確かにそこにある。
ゼロスが改めて全員を見渡し、静かに語る。
「では――“この国の奥”の話だ。フェン君。君の知ることすべて、語ってくれないか」
フェンが頷く。その直前、ふと、ゼロスに視線を向けた。
「ゼロス様。ひとつ、訊いてもいいですか?」
「……ああ」
「なぜ、リオを“この国の闇”へ行かせるのです?」
室内が静まる。
ゼロスは、ほんのわずか目を伏せ、父としての決意を言葉にした。
「“行かせる”んじゃない。“進ませてやる”んだ。それが、父の務めだ」
その言葉が、ぬくもりのように室内へ広がる。氷の執務室に、ほんのりと春の気配が差し込む瞬間だった。
子鹿のように震える少年はまだ小さな歩幅でしか進めない。だが、その一歩一歩が、闇の奥に灯をともす旅になる。
扉の向こうから、弟ケインの勢いのある声が飛び込んだ。
「兄さまーーーー!! オレ、ちゃんと応援してるからなーーー!!」
笑みがこぼれる。場は少しだけ軽くなる。
その直後、リオの腹が控えめに鳴った。フェンがぽつりと言った。
「胃袋の拍手が止まらないな、こいつは」
それが合図だった。みんながふっと笑う。笑いは短く、優しい。泣きの余韻を壊さないための一滴の救済だ。
『(キュルル訳)ぼく……やっぱりこの家に生まれて、よかったぁ……』
フェンはその一言を手帳に書き留めると、黒鉄の腕輪に眼差しを戻した。腕輪のかつての持ち主が残した“もうひとつの誓い”が、静かに胸に響く。
リオは自分の喪失を数えない。代償は確かに存在する。だが、彼が選んだのは姉を助けることだった。後悔はない。それだけで、彼の歩みは尊い。
そして、誰にも見えぬ場所で、深淵はさらに目を凝らす。声なき力が世界の綻びを覗き込み、いつか訪れる嵐を準備するだろう。だが今は、ここにある小さな温度が優先される。
怖がることは、弱さじゃない。臆病な行為が、誰かの盾になることがある。それを証明するように、少年は小さな足で確かに歩き始めた。
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