第二十二話(後編)『同盟決意』

荊州南部の、風林火山の旗がはためく和城。その軍議の間は、蝋燭の炎が揺れる中、息詰まるほどの緊張感に満ちていた。軍師・陳宮が張り巡らせた諜報網「黒羽」からもたらされる情報は、刻一刻と、そして絶望的な色を帯びて更新されていく。

「申し上げます! 劉備軍、ついに長坂にて曹操軍精鋭『虎豹騎』に捕捉さる! 張飛将軍、長坂橋にただ一騎で仁王立ちし、鬼神の如き奮戦で辛うじて追撃を食い止めるも、民衆の犠牲、甚大との報せ!」

「続報! 趙雲将軍、単騎にて敵中を突破! 乱戦の中、劉備様の若君・阿斗様を救出せし由にございます!」

泥と血にまみれた忍びが、息も絶え絶えにもたらす断片的な情報は、劉備一行がまさに壊滅の危機に瀕していることを、生々しく伝えていた。張り詰めた空気の中、和城の最高幹部による軍議が開かれた。

「御館様! これぞ天佑! またとない好機にございます!」

最初に沈黙を破ったのは、法正孝直であった。彼は、広げられた地図上の江陵を、まるで獲物を見つけた鷹のように鋭い指先で叩きながら、その目に怜悧な光を宿し、興奮を隠さずに進言した。

「劉備は、十数万の民という足枷に自ら絡め取られ、今や曹操の虎の口へと飛び込もうとしております。彼が自滅するのを、我らはただ高みの見物を決め込めばよい。そして、劉備と曹操が長坂で互いに疲弊しきったその隙を突き、我らは電光石火の速さで北上し、無主となった荊州中部の要地を奪取すべきです! 特に、軍需物資の宝庫である江陵を押さえれば、天下の形勢は一気に我らに傾きますぞ!」

その言葉には、一切の情を排した、謀略家としての冷たい計算と、この千載一遇の好機を逃さず、勝頼軍を天下取りの舞台へと一気に押し上げようとする、燃え盛るような野心があった。

丞相・陳宮もまた、法正の意見に基本的には同意しつつ、あくまで冷静に状況を分析し、より大局的な視点から言葉を継いだ。

「うむ…法正殿の申される通り、戦略的には絶好機。このまま劉備殿が曹操に滅ぼされれば、次にその牙を剥かれるのは、間違いなく我ら。彼らが曹操軍をわずかでも引きつけている今こそ、我らが動くべき時。しかし、ただ漁夫の利を狙うだけでは、不義の汚名を着るのみ。それでは呂布殿の二の舞。民の心は決して得られませぬ。ここは、まず劉備殿に恩を売り、彼らと共に曹操に対抗する態勢を築くのが、最も理に適っておりますな」

二人の稀代の軍師は、冷徹な現実主義と、大局を見据えた戦略という、異なる角度からではあるが、「今、動くべき」という一点で一致していた。

その議論を、張遼文遠が、険しい表情で聞いていた。彼は、下邳で劉備の夫人たちを保護し、勝頼がそのために危険を冒したことを知っている。

「御館様! 法正殿、陳宮殿の策は、理には適っておりましょう。しかし、我らは下邳にて劉備殿の奥方様をお救いした間柄。その劉備殿を、我らの利のために見捨てるが如き行いは、武士の道に悖るのではありますまいか!」

張遼の、武人としての義侠心からの言葉が、軍議の間に重く響いた。

勝頼は、三人の重臣の言葉を、ただ静かに、しかしその全身で、一つ一つ噛み締めるように聞き入っていた。民を見捨てぬために、自らの軍が滅びる危険も顧みない劉備の行動。その報告を聞いた時、勝頼の脳裏には、故郷で民を守れず、滅びていった自らの姿が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇っていた。天目山の、あの冷たい雪の中で、助けを求める民の声を聞きながらも、何もできなかった自分。

(わしが…わしが捨てたものを、あの男は拾おうとしている…! わしが歩めなかった道を、彼は血を吐きながら進んでいる…!)

彼の心の中で、戦略や利害を超えた、武士としての、そして人としての共感が、激しく、そして抑えきれぬほどに燃え上がった。

「わしは…わしは、遠い故郷で…民を…守りきれなかった…」

勝頼の声には、かすかな、しかし心の奥底から絞り出したような深い悲しみと、そしてそれを乗り越えようとする、揺るぎない決意が宿っていた。

「劉備殿の今の行動は、戦略的には、あるいは無謀の極みかもしれぬ。だが、その、民を思う『仁』の心は…まこと…まことに見上げたものだ。わしは、そのような心ある人物を、このまま見殺しにはできぬ!」

勝頼は、すっくと立ち上がると、遠い北の、まだ見ぬ戦場を、鋭い眼差しで見据えた。その瞳には、もはや、かつてのような戸惑いや、異邦人としての不安は微塵もなく、幾多の苦難を乗り越えた、真の指導者としての確固たる意志が宿っていた。

「そして、あの曹操の覇道は、いずれ我らをも飲み込むであろう。ならば、我らが進むべき道は、もはや一つじゃ」

その声は、軍議の間の空気を震わせた。

「劉備殿に、我らがこの手を差し伸べる! そして、彼と共に、あの曹操と戦う! それが、我ら武田勝頼が、この異郷の地で進むべき道じゃ! 陳宮、法正、この策、直ちに、そして全力で進めい!」

「「ははっ!」」

二人の軍師は、主君の、戦略的利害と「仁」の理念を完全に一致させた、そのあまりにも大きな器量に、深く、そして心からの敬意を込めて、その場に膝をつき頭を下げた。法正は一瞬驚きの色を見せたが、すぐに、この主君ならば、という納得の表情に変わった。陳宮は、その目にうっすらと涙を浮かべていた。張遼もまた、その言葉に深く感銘を受け、力強く頷いた。

勝頼は、直ちに劉備への使者を送ることを決定した。使者には、下邳からの苦難の逃避行を共にし、最も信頼できる配下の一人となっていた「風林火山組」の古参兵が選ばれた。そして、陳宮と法正が、それぞれの知恵を絞り、夜を徹して共同で作成した、丁寧かつ誠意のこもった書状が託された。

その書状には、劉備玄徳への深い敬意、下邳での恩義、そして「貴殿が守らんとする民は、もはや貴殿だけの民ではない。我らが守るべき天下の民でもある。今こそ共に力を合わせ、曹操の非道なる南下を阻まん」という、明確な、そして力強い同盟の申し出が、勝頼自身の筆によって記されていた。

「行け! お前の双肩に、この国の、いや、天下の命運がかかっている! 生きて、この思いを届けよ!」

勝頼の力強い言葉に送られ、使者は、曹操軍の厳重な警戒網を掻い潜り、絶体絶命の危機にある劉備の元へと、必死に、そして命を賭して馬を走らせた。

この決断が、やがて来る、中原の歴史を、いや、世界の歴史を大きく塗り替えることになる、あの「赤壁の戦い」の、巨大な、そして運命的な伏線となるのであった。日出ずる国の龍が、ついに中原の動乱の渦中へと、その身を投じる時が来たのだ。

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