第二十二話(前編)『撤退苦難』
やがて、恐れていた「時」が、冷たい冬の風と共に訪れた。荊州牧・劉表、ついに病死。その報は、まるで凍てつく風そのもののように瞬く間に荊州全土を駆け巡り、かろうじて保たれてきた均衡を、あっけなく、そして無残に崩壊させた。
予期された通り、襄陽では劉表の後妻・蔡夫とその弟・蔡瑁、盟友・張允らの一派が、直ちに劉表の遺言を偽造。人徳厚い長男・劉琦を退け、幼く、自分たちの意のままになる次男・劉琮を後継者に立てると、北から、まるで大地を揺るがす地鳴りのように迫る曹操の大軍の威勢に、戦う前から完全に恐れをなし、荊州の民の誇りも、主君の遺志も全て踏みにじり、あっさりと城門を開け放ち降伏した。豊かな荊州北部は、こうして一滴の血も流れることなく、曹操の手に落ちた。
曹操は、荊州北部を手中に収めると、次に狙いを定めた。喉から手が出るほど欲しい、江陵の豊富な軍需物資。そして、目の上の瘤であり、その「仁徳」という、力では測れぬ不気味な存在感を放つ、新野に駐屯する劉備玄徳の完全なる排除であった。
「劉備が、荊州を降した我が軍門に下るとは思えぬ。ならば、奴が江陵に辿り着き、その物資を背景に抵抗勢力となる前に、叩き潰すのみ!」
曹操の厳命一下、数十万と号する大軍が、再び南へと進撃を開始した。その報は、絶望の知らせとなって、新野の劉備の元へともたらされた。軍議の間に集った諸将の顔には、焦りと緊張の色が濃く浮かんでいた。劉備は、衝撃に言葉を失った。しかし、彼がここで曹操に降伏するという選択肢は、もはや彼の心には存在しなかった。漢室の末裔として、そして何よりも、信じてくれる民を見捨てることが、彼にはできなかったのである。
「もはや、この新野は持ちこたえられませぬ。直ちに城を捨て、軍需物資の豊富な江陵を目指し、そこを新たな拠点として曹操軍を迎え撃つべきです!」
軍師・諸葛亮孔明が、地図を指し示しながら冷静に進言する。劉備もそれに頷き、すぐさま撤退の準備を開始した。
しかし、劉備が出立しようとすると、その動きを察知した新野の民衆が、まるで堰を切ったように城門へと殺到した。その数は、いつしか数万にも膨れ上がっていた。老人、女、そして幼子までが、なけなしの家財道具を背負い、あるいは荷車に積み、泣きながら劉備の馬前にひざまずいた。
「玄徳様! 我らをお見捨てなさらないでくだされ!」
「貴方様が行かれるところへ、我らも、我らも共に行かせてくだされ! 曹操の兵に殺されるくらいなら、貴方様と共に死んだ方がましでございます!」
その、あまりにも悲痛な、魂からの叫び。自分を信じ、慕ってくれる民の姿に、劉備の目からは、熱い涙が止めどなく溢れ出た。彼は、馬から降りると、ひざまずく老人の手を、自らの手で固く握りしめた。
「…分かった。皆の者、よく聞いてくれ。この劉備、決して、決してそなたたちを見捨てはせぬ!」
そして、傍らで苦渋の表情を浮かべる諸将に向かい、彼は毅然として言った。
「事を成すは、まず人を本となす。今、人が我に帰そうとしているのに、これを棄てるに忍びようか! この民なくして、我らの大義はない。我らは、この民と共に、南へ向かう!」
こうして、劉備の、そして十数万の民衆を巻き込んだ、世界史上でも類を見ない、あまりにも苦難に満ちた南への大撤退行が始まった。
それは、もはや軍隊の行軍と呼べるものではなかった。雨が降り続き、道はぬかるみ、重い荷車は泥に嵌って動かなくなる。食料は日に日に尽き、兵士たちは自らのわずかな食料を民に分け与え、飢えと疲労で道端に倒れる者が後を絶たなかった。親とはぐれた子供が、降りしきる冷たい雨の中、泥まみれになって泣き叫ぶ。その巨大な難民の群れは、一日にわずか十数里しか進むことができない。まさに、亀の歩みであった。
義兄弟である関羽雲長は、その美髯を濡らしながらも、殿軍として最後尾に控え、追撃してくる曹操軍の斥候を、その威風堂々たる姿と、青龍偃月刀の威圧感だけで追い払い、民衆に安心感を与え続けた。張飛翼徳は、先頭で、その剛勇をもって道を切り開き、ぬかるみに嵌った荷車を、その怪力で担ぎ上げては「何をぐずぐずしておるか! さっさと行かんか!」と怒鳴りつけながらも、民を必死に鼓舞した。そして、忠勇なる趙雲子龍は、馬を駆って、民衆の群れの中を何度も往復し、はぐれた子供を捜し出し、あるいは動けなくなった老人を自らの馬に乗せて運んだ。彼ら三人の英雄は、必死に、そして献身的に、この遅々として進まぬ、絶望的な撤退行を支え続けた。
「兄者、このままでは、曹操軍の精鋭騎馬隊に追いつかれてしまう! 民を一時、見捨てることも、今は致し方ないのでは!」
張飛が、歯噛みしながら進言するが、劉備は決して首を縦には振らなかった。
「ならぬ! 翼徳、二度と申すな! 民を見捨てて、何の天下か! わしは、民の命を犠牲にしてまで、生き延びようとは思わぬ!」
軍師・諸葛亮孔明は、その目を覆うばかりの惨状と、それでもなお劉備を信じ、彼に付き従おうとする民衆の想いに、劉備玄徳という人物の、計り知れない「徳」の力の大きさを改めて感じていた。しかし同時に、その「徳」がもたらす、あまりにも致命的な戦略的遅滞に、内心、言葉にできないほどの歯噛みをするしかなかった。彼の頭の中では、最短で江陵に至る道筋と、それに必要な日数が計算されている。しかし、目の前の現実は、その計算を嘲笑うかのように、あまりにも残酷であった。
そして、ついに斥候から、絶望的な報告がもたらされる。
「申し上げます! 曹操軍の精鋭騎馬隊『虎豹騎』、疾風の如き速さで南下中! もはや、我らの背後、わずか一日の距離にまで迫っております!」
地を揺るがす馬蹄の音が、もうすぐそこまで迫っている。劉備一行は、まさに絶望の淵に立たされていた。その行く手には、暗雲しか見えなかった。
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