第417話
塩水、焼き塩、そして塩釜焼き。塩を液体として、あるいは熱媒体として操る術を探求してきた俺たちの興味は、自然と次の次元へと向かっていた。それは、「塩と油」の関係性だ。
「油、ですか」
コーヒーを淹れる俺の手元を眺めながら、ソルトが静かに問い返した。彼の表情には、純粋な知的好奇心が浮かんでいる。
「ああ。塩が食材の水分をコントロールするのは、もう嫌というほど分かった。だが、旨味の多くは水分だけじゃなく、油分にも含まれている。その油に対して、塩がどう作用するのか。それを、徹底的に突き詰めてみたい」
「……なるほど。非常に興味深いテーマです。塩と油は、古来から密接な関係にあります。例えば、油の酸化を防ぐのも塩の重要な役割ですし、水と油のように混じり合わないものを繋ぐ『乳化』を助ける働きもあります」
乳化、という言葉に、俺の頭の中で新しい回路が繋がった。そうだ、ドレッシングやマヨネーズ。あれらは、酢と油という、本来混ざり合わないものを、卵や香辛料の力で結びつけている。そこに、塩がどう関わっているのか。
「試してみよう。まずは、一番シンプルなドレッシングからだ」
俺は万能生成スキルで、最高品質のオリーブオイルと、癖のない白ワインビネガーを用意した。そして、店の裏のハーブ園から、摘みたてのバジルとタイムを刻んで加える。
これを三つのボウルに分け、それぞれに、あの三種の塩――『洞窟の岩塩』、『火山の黒塩』、『海の幻の塩』を加えて、泡だて器で一気にかき混ぜる。
結果は、歴然としていた。
岩塩を加えたボウルでは、オイルとビネガーはすぐになめらかに乳化し、とろりとした安定したドレッシングができた。塩の純粋さが、乳化作用を素直に引き出したのだろう。味も、ハーブの香りとオイルの風味、ビネガーの酸味が、それぞれ際立った、クリーンなものだった。
次に、黒塩。こちらは、乳化するまでに少し時間がかかった。塩に含まれる豊富なミネラルが、油と水の結合を、ある意味で阻害しているのかもしれない。だが、一度乳化してしまえば、その味は圧巻だった。黒塩特有のスモーキーな風味がドレッシング全体を支配し、まるで熟成させたバルサミコ酢を使ったかのような、深みとコクを生み出していた。
「これは……グリルした肉や、温野菜にかければ、絶品でしょうね」
ソルトが唸る。
そして、幻の塩。これは、最も早く、そして最もクリーミーに乳化した。塩自体が持つ旨味成分が、強力な乳化剤として働いたようだ。出来上がったドレッシングは、驚くほどまろやかで、塩味よりも、むしろ甘みと旨みが前面に出ている。これは、繊細な魚介のカルパッチョや、フルーツを使ったサラダに合わせれば、素材の味を最大限に引き立てるだろう。
「塩が、油と水の『仲人』になるのか……。面白いな」
俺は記録帳に、それぞれの塩が乳化に与える影響と、その風味の変化を詳細に書き込んだ。
だが、俺たちの探求は、それで終わりではなかった。
「塩と油の関係を突き詰めるなら、避けては通れない道がある」
俺がそう言うと、ソルトは心得たように頷いた。
「……肉の脂を、塩で『熟成』させる、ということですね」
そうだ。パンチェッタやグアンチャーレ、あるいは生ハム。それらは、肉、特にその脂身が持つポテンシャルを、塩と時間と乾燥によって、極限まで引き出した芸術品だ。
俺は、村の肉屋から、最高級の豚のバラ肉と、頬肉の塊を手に入れてきた。その美しい脂肪の層を前に、俺とソルトは、どの塩を、どう使うべきか、真剣な議論を交わした。
「バラ肉(パンチェッタ)には、脂の甘みを引き立てつつ、腐敗を確実に防ぐ、力強い塩が必要でしょう。『洞窟の岩塩』をベースに、ほんの少しだけ『火山の黒塩』をブレンドし、風味に深みを加えるのはどうでしょう」
「頬肉(グアンチャーレ)は、脂の質がさらに繊細だ。ここは、あの『海の幻の塩』を贅沢に使うべきじゃないか。塩の持つ旨みが、熟成中に脂と一体化し、唯一無二の風味を生み出すはずだ」
俺たちは、それぞれの肉の塊に、選び抜いた塩と、黒胡椒、そして数種類のハーブを、丁寧に、そして力強く擦り込んでいく。それは、ただの味付けではない。これから始まる長い熟成の旅への、最初の洗礼だ。
塩漬けにした肉は、店の地下に新設した熟成庫へと運ばれる。温度と湿度が完璧に制御されたその場所で、肉はまず、塩の力によって、その内部の余分な水分を排出していく。
数日後、表面から滲み出た水分を丁寧に拭き取り、今度は風乾の工程に入る。熟成庫の中に、穏やかな空気の流れを作り出し、肉の表面をゆっくりと乾燥させていく。この工程で、肉の表面に保護膜が形成され、内部の旨味が凝縮されていくのだ。
「ここからは、時間との対話だ」
俺は、熟成庫の棚に吊るされた肉の塊を眺めながら、ソルトに言った。
「この肉が完成する頃には、俺たちの塩への理解も、全く違うものになっているだろうな」
「ええ。塩が、生命をどう変容させるのか。その答えを、私たちはこれから、この目で見届けることになるのです」
ソルトの目には、行商人として塩を売り歩いていただけの頃とは、明らかに違う光が宿っていた。それは、未知の真理を探求する、研究者の光だった。
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