第418話
生ベーコンの仕込みを終え、俺たちの厨房には静かだが満ち足りた時間が流れていた。地下の熟成庫に吊るされた肉の塊は、これから数ヶ月という長い時間をかけて、塩と微生物の力でゆっくりとその姿を変えていく。その長い熟成を待つ間、俺たちが何もしないわけにはいかなかった。職人という生き物は、常に手を動かし、思考を巡らせていなければ感覚が鈍ってしまうからだ。
「レンジさん、熟成を待つ間、次のテーマはどうなさいますか」
カウンターで俺の淹れたコーヒーを味わっていたソルトが、静かに口火を切った。彼の問いは、俺がまさに考えていたことそのものだった。
「……燻製だ。もう一度、燻製を根本から見直してみたい」
俺の答えに、ソルトはわずかに眉を上げた。
「燻製ですか。あなたの作る燻製は、すでに素晴らしい完成度だと思いますが」
「いや、まだだ。あれは『熱』と『煙』と『塩』を組み合わせた、いわば力技の燻製だ。もっと繊細な、素材の味を極限まで引き出す燻製があるはずなんだ」
俺が考えていたのは、『冷燻』だった。20度以下の低温で熱をほとんど加えず、純粋な煙の力だけで数日から数週間かけて食材を燻し上げる、最も古典的で繊細な燻製法。熱によるタンパク質の変性を最小限に抑えることで、素材は生の食感を保ったまま、煙の香りと凝縮された旨味だけをその身に纏う。
「冷燻……なるほど。それは塩の使い方も、これまでの温燻とは全く違ったアプローチが必要になりますね」
ソルトの目が、探求者のそれに変わった。
「その通りだ。冷燻の主役は煙と時間。塩は、その二つの働きを最大限に引き出すための精密な舞台装置でなければならない。そこで、お前の知識が必要になる。冷燻における最高の塩の使い方とは何だ?」
俺の問いに、ソルトは少しの間、思考を巡らせるように目を伏せた。そして顔を上げると、確信に満ちた声で答えた。
「『振り塩』でしょう。それも、ただ振るのではなく、塩の種類、粒子の大きさ、そして振る高さと角度、そのすべてを計算に入れた伝統的な技法です」
「振り塩か。詳しく聞かせろ」
「はい。素材に直接塩を擦り込む乾塩法や、塩水に漬けるソミュール法とは違い、振り塩は塩の浸透をより穏やかに、そして均一に進めることができます。特に魚のような繊細な素材の場合、この方法が最も身を傷めず、効果的に脱水を行えるのです」
ソルトは立ち上がると、カウンターの上に『洞窟の岩塩』の結晶をいくつか並べた。
「例えばこの岩塩。これを高い位置から、まるで雪を降らせるようにふわりと魚全体に纏わせる。そうすることで塩の粒子は魚の表面に均一に付着し、緩やかな浸透圧でじっくりと水分を抜き始めます。この時、塩の量が多すぎれば身が締まりすぎ、少なすぎれば脱水が不十分で腐敗の原因となる。まさに一振り一振りに、職人の経験が問われる技です」
彼の説明は、俺の頭の中に新しいイメージを焼き付けた。塩をまるで空気のように扱う技術。それは、俺がこれまで考えてもみなかった領域だった。
「……面白い。その振り塩、俺のスキルと組み合わせれば、さらに面白いことができそうだな」
俺はすぐに万能生成スキルを使い、冷燻に最適な環境を作り出すための準備を始めた。まず、既存の燻製器とは別に、全く新しい『冷燻専用庫』を設計する。煙を発生させる火元と食材を燻す庫を長い煙道で繋ぎ、その途中に煙を冷却するための装置を組み込む。煙の温度を常に15度から20度の間に保つための、精密な魔力制御システムだ。
数日後、店の裏手には黒い鉄と断熱効果のある石材で作られた、無骨だが機能美に溢れる冷燻庫が完成していた。
そして、実験台となる素材は、村の漁師が今朝釣り上げてきたばかりの見事なマス。銀色に輝く鱗、澄んだ瞳。これ以上ないほどの鮮度だ。
俺とソルトは、そのマスを前にして静かに対峙した。
「では、始めましょうか」
ソルトが、まるで儀式を執り行う神官のように厳かに言った。彼は乳鉢で岩塩を丁寧に、だが粗さを残すように砕いていく。
「冷燻の振り塩に使う塩は、完全にパウダー状にしてはいけません。ある程度の粒子の大きさを残すことで、塩が素材の表面に留まる時間が長くなり、より穏やかな脱水が可能になるのです」
俺は三枚におろしたマスのフィレを金網の上に並べる。そしてソルトがその横に立ち、砕いた岩塩を手に取った。
彼は腰を落として安定した姿勢を取ると、自身の胸ほどの高さから指先で塩の量を巧みに調整しながら、マスの身に塩を振っていく。サラサラと、乾いた雪が舞い落ちるような、静かで美しい光景だった。
「この高さから振ることで、塩は空気を含みながら落ち、身の上に均一な層を作ります。そして、この角度……。魚の厚みがある部分にはやや多く、薄い部分には少なく。塩の量を視覚ではなく、感覚で制御するのです」
ソルトの手から放たれる塩は、まるで生き物のようにマスの身に吸い寄せられていくようだった。その完璧な技術に、俺はただ息を呑んだ。
振り塩を終えたマスは、数時間冷蔵庫で寝かせ、余分な水分が排出されるのを待つ。その後、表面の塩を洗い流し、今度は風乾の工程に入る。冷燻庫の中にマスを吊るし、煙を焚かずにただ穏やかな風を送り続ける。表面がべたつかず、かといって乾きすぎない絶妙な状態になるまで。
そして、ついに煙を入れる時が来た。燻材には香りが穏やかで魚の繊細な風味を邪魔しない、リンゴのチップを選んだ。冷却装置を通った煙は、ひんやりとした霧のようになって庫内を満たしていく。
「ここからは最低でも三日。煙を絶やさず、温度を保ち続ける。あとは時間と煙に任せるだけだ」
俺たちは、静かに煙を吐き出す冷燻庫を前に、まるで我が子の成長を見守る親のような気持ちでその完成を待った。
三日後、冷燻庫の扉を静かに開けた。
中から、凝縮されたリンゴの燻香と魚の旨味が混じり合った、えもいわれぬ香りが溢れ出してきた。庫内に吊るされたマスのフィレは美しい飴色に染まり、その表面はまるで絹のように滑らかな光沢を放っている。
俺はそれを薄くスライスし、ソルトの前に差し出した。一口口に運んだ彼の目が、驚きに見開かれた。
「……これは……。信じられないほどの、ねっとりとした食感。そして噛むほどに溢れ出す、凝縮されたマスの旨味。燻香は決して主張しすぎず、ただ魚の味をどこまでも高めている……。完璧です、レンジさん」
「いや、お前の振り塩の技術があってこそだ。俺だけではこの味には辿り着けなかった」
俺たち二人の技術と知識が、完璧に融合した瞬間だった。冷燻という新たな扉を開いたことで、俺たちの探求はさらに深く、そして果てしないものになっていく。熟成中のベーコンも、この技術を応用すればきっと想像を超えるものになるだろう。そう確信しながら、俺は完成したばかりの冷燻マスを、ウイスキーではなく、俺が淹れたての浅煎りコーヒーと共に味わった。その意外な相性の良さに、俺たちはまた新しい発見の喜びを分かち合ったのだった。
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