第416話
塩水の探求から数日、俺とソルトはピクルスの実験で得た知見を元に、新たな挑戦へと駒を進めていた。水に溶かすことで塩の性質が変わるのなら、熱を加えた場合はどうなるのか。その単純な好奇心が、俺たちを次のテーマへと導いた。
「焼き塩、というものがあります」
店のカウンターで、ソルトが古い革張りの手帳を広げながら言った。それは彼が長年の旅で書き溜めた、塩に関するあらゆる知識の集大成だった。
「塩は、乾煎りすることで結晶内部の水分が飛び、角の取れた、まろやかな塩味に変化します。また、加熱によって一部のミネラルが酸化し、独特の香ばしい風味が生まれる。私の故郷では、繊細な魚料理や、吸い物に、この焼き塩を用いるのが伝統でした」
「ほう。焼くだけで、そんなに変わるものか」
「ええ。ですが、これもまた、塩の種類と加熱の方法によって、結果は千差万別です。どの塩を、どんな火で、どれくらいの時間焼くか。それを見極めるのが、職人の腕です」
俺は、彼の言葉に強く興味を引かれた。コーヒー豆の焙煎と同じだ。生豆に熱を加えることで、その香りや味を最大限に引き出す。塩もまた、熱によってその本性を現すというのか。
「面白い。試してみよう」
俺は作業台に、厚手の鉄板と、いくつかの陶器の皿を用意した。火元は、薪を使った調理用の窯だ。万能生成スキルで作ったもので、内部の温度を自在に制御できる。
まずは、基本となる『洞窟の岩塩』からだ。大粒の結晶を鉄板の上に広げ、窯の中へ入れる。温度は、中火に相当する200度前後。
じりじりと熱せられた岩塩は、しばらくすると、ぱち、ぱち、と小さな音を立てて爆ぜ始めた。結晶内部の水分が、水蒸気となって弾ける音だ。
「この爆ぜる音が、最初の変化の合図です。ここから、塩の性質が変わり始めます」
ソルトが、真剣な眼差しで窯の中を見つめている。
15分ほど焼いた後、鉄板を取り出す。岩塩の結晶は、以前の透明感を失い、わずかに白く濁っているように見えた。粗熱を取り、一粒、指でつまんで口に運ぶ。
「……!」
驚いた。あの力強く、ストレートだった塩味が、嘘のようにまろやかになっている。塩辛さの角が取れ、代わりに、ほのかな甘みが舌の上に残る。そして、後味には、焼けた鉱物のような、香ばしい香りがふわりと鼻を抜けた。
「……これが、焼き塩か。全くの別物だな」
「ええ。熱によって、塩化ナトリウムの結晶構造が変化し、味覚への刺激が穏やかになったのです。そして、微量に含まれていた他のミネラルが、この香ばしさを生み出している」
次に試したのは、『火山の黒塩』だ。これも同じように鉄板で焼いていく。すると、今度はさらに劇的な変化が起こった。あの強烈だった硫黄の香りが、熱によって和らぎ、代わりに、まるで燻製のような、スモーキーで深みのある香りが立ち上り始めたのだ。
味も、生の状態とは比べ物にならないほど複雑になっていた。力強い塩味とミネラル感はそのままに、そこに香ばしさと、どこか土を思わせるような深いコクが加わっている。
「……これは、そのまま振りかけるだけで、料理になりそうだ。焼いた肉や、根菜との相性は抜群だろう」
「黒塩が持つ潜在的な力が、熱によって完全に解放された、ということでしょう。素晴らしい……」
俺とソルトは、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように、次々と焼き塩の実験に没頭した。焼き時間を変え、温度を変え、陶器の皿で焼いたり、直火で軽く炙ったり。そのたびに、塩は違う表情を見せ、俺たちを驚かせた。
そして、焼き塩の探求は、やがて、さらにダイナミックな調理法へと行き着いた。
「塩で、素材を『包んで』焼いたらどうなるか」
塩釜焼き。塩の持つ、熱を均一に伝える性質と、素材の水分を閉じ込める性質を利用した、究極の蒸し焼き料理だ。
俺は早速、村の漁師から新鮮な白身魚を、養鶏場から丸鶏を一羽、手に入れてきた。
魚には、焼き塩にした『海の幻の塩』を使うことにした。幻の塩は、焼くことでその繊細な甘みと旨みが、さらに凝縮されていた。それを大量に、卵白と混ぜてペースト状にし、魚全体を隙間なく覆っていく。
「幻の塩で塩釜とは……。これほど贅沢な料理は、王侯貴族の食卓でもお目にかかれないでしょう」
ソルトが、興奮を隠しきれない様子で言った。
丸鶏には、力強い『火山の黒塩』の焼き塩を使った。腹には、店の裏で育てているハーブをたっぷりと詰め込み、鶏全体を黒塩のペーストでコーティングする。まるで、黒い鎧をまとったかのような、異様な見た目になった。
それらを、高温に熱した石窯の中へ入れる。塩の分厚い層が、内部の素材を、まるで完璧な圧力鍋のように、じっくりと、そして均一に加熱していく。
一時間後。窯から取り出した塩釜は、カチカチに硬くなっていた。木槌で、その塩の鎧を叩き割る。
パリン、という乾いた音と共に、中からもうもうと湯気が立ち上った。そして、その湯気と共に、信じられないほど芳醇な香りが、厨房いっぱいに広がった。
幻の塩で包まれた魚は、皮はパリパリに焼き上がっているにもかかわらず、その身は、驚くほどふっくらと、そしてジューシーだった。塩が、魚の旨味と水分を、一滴も逃さずに閉じ込めていたのだ。そして、身に染み込んだ幻の塩の、上品な甘みと旨みが、魚の味を、神々しいとすら言える領域へと高めていた。
黒塩の丸鶏も、圧巻だった。黒塩の力強い風味と、ハーブの爽やかな香りが、鶏肉の隅々にまで染み渡り、噛みしめるたびに、肉汁と共に、複雑で野性的な味わいが口の中で爆発する。
「……塩は、調味料であると同時に、最高の調理器具にもなり得る……」
俺とソルトは、その圧倒的な味の前に、ただ言葉もなく、互いに頷き合うだけだった。熱を加え、形を変えることで、塩は無限の可能性を見せてくれる。
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