1-4 紡がれた繋がり

窓の外では、陽の角度がわずかに変わっていた。診療所の小部屋に差し込む光も、どこか黄味を帯び、影の形が少しずつ長くなっている。


新は、浅い呼吸の合間に周囲を見回した。視界は穏やかに定まっており、もう幻視の残滓もない。だがその静けさの中で、代わりに自分自身の"異質さ"がくっきりと際立つのを感じていた。


「気分はどうでしょうか」


問いかけたのは医師――セレナだ。どこか安心させる声色で、しかしその目は観察者のそれだった。


「……まだ、現実の輪郭が揺れてる感じです。でも、はっきりしてきたこともあります」

「たとえば?」

「僕が……本当に、どこか別の世界に来てしまったんだって」


セレナは静かに頷いた。


「あなたの体内に適合しているマナの性質、そして腐熱ふねつの初期症状――いずれも、この大陸の環境とあなたが異質であることを示していました。身体は今、急速にこちらに順応しようとしています。あなた自身の意思とは関係なく、です」


セレナの語る理屈を、新はすべて理解できているわけではない。だが、彼女の語気や目線から、少なくとも"嘘ではない"ことは感じ取れた。


「……順応、ですか」

「ええ。ただし、その過程で言語や感覚の回路まで干渉されることは極めて稀なんです。あなたは例外的な症例だと言えるでしょうね」


言語が"聞こえる"。たしかに自分は、今ここで交わされる言葉を日本語のように理解している。


だがそれは翻訳でもなく、通訳でもない。


音が――意味が、そのまま


「この世界では、名がとても大切にされます」


ふと、話の方向が変わった。


「あなたのお名前――タカヤマアラタ。そのままでは、帝都の文書に登録するのが困難です。私たちの言語の音韻構造とは異なりますし、名前の形式も合いません。少なくとも、今後学院に移送される場合、便宜上の登録名が必要になるでしょう」


「……学院?」


新の問いに、セレナは頷いて続ける。


「この街の自治組織――学院区は、マナ適応症例の医療と研究を担っています。あなたの症状は、前例のない観測パターンを伴っており、学術的にも極めて重要なんですよ。無論、あなたの意思を最優先しますが、もし受け入れていただけるなら、今後は学院の庇護下で生活していただくことになるでしょう」


「研究対象……ってことですか?」

「より正確には、研究協力者です。診療と保護の代わりに、あなたの経過と記録を学院と共有する。公平な取り決めに基づく関係です」


新は少しだけ黙り、そしてゆっくりと頷いた。現状、この世界で安全に身を置ける選択肢など、他にないのだから。


「その場合、正式な記録を残す必要があります。名前は、その第一歩ですね」


「……なるほど」


たしかに、今後この世界で何かに所属するなら、"彼らに通じる名前"は必要だ。


「いくつか、候補はあります。帝国音韻に近い形に変換する方法もありますし、意味を訳して当て字にすることも」


セレナがそう言って数案を提示しかけたとき、リスが小さく咳払いした。


「セレナ先生。私が……その、考えてもよろしいでしょうか」


その声色は静かで、けれど芯を感じさせる響きを帯びていた。


セレナは少しだけ意外そうに彼女を見たが、すぐに穏やかな笑みで応じた。


「ええ、もちろん。あなたの視点は、私よりずっと近いでしょうから」


リスはしばらく、新の顔を見つめていた。その目には、軽やかさと真剣さが奇妙なバランスで共存していた。


そして――ぽつり、と、言った。


「フューズ」


その音は、あまりに自然だった。まるで最初から、彼の名がそうであるかのように。リス自身も、口にした瞬間に少し目を見開き、だがすぐにそれを肯定するように微笑んだ。


新は驚きと共に、その音を胸の内で何度も繰り返した。


フューズ――溶け合い、繋ぐもの。


リスはわずかに視線を落とし、何かを考えているようだった。表情からは読み取れない感情が、静かに揺れているように見えた。


「……フューズ」


新は、その音を自分でも確かめるように繰り返した。少し不思議な、けれど何か遠い記憶にあるような感覚が、その響きにはあった。


「フューズ……『溶着する』。『繋ぐ』という意味です」


リスの説明に、新はゆっくりと頷いた。


「それなら、名前の方は……そのまま『アラタ』でいいと思う」


リスの目が少し大きくなった。


「アラタ……そうでしたね。あなたが最初に告げてくれた名前」


「ええ。音として記憶していました」


セレナは医療記録簿の紙に、ゆっくりとその名を記した。アラタ・フューズ。


新は不思議な気持ちに満たされた。その名は自分自身ではなく、けれど完全に無関係でもない。むしろ――これから自分がなっていく姿の、一つの可能性のようだった。


セレナが記載を終えると、静かに顔を上げた。


「正式な登録は学院に着いてからですが、これを仮証明として持っておいてくださいね。道中では常に携帯するように」


セレナは小さな布袋から、封蝋のついた手のひらサイズの紙片を取り出した。そこには何かの印と、今記したばかりの文字が書かれている。


診断書にして身分証明のようなもの――この世界での、最初の公的書類だった。


「学院区では、リス主席補佐に引き続きお世話になることになるでしょう。明日朝一番で、馬車が迎えに来る手配をしておきます」


予定がどんどん進んでいく。新は自分がまるで水面を流れる葉のように、この世界の流れに身を任せていることを実感した。だが今はそれでいい。自分で方向性を決める以前に、まず目の前の現実を受け入れることが先決だ。


「ええ、わかりました。ありがとうございます」


新の言葉に、リスが軽く会釈した。その立ち居振る舞いには、先ほどまでとは少し違う、公式な雰囲気が漂っていた。


「学院ではマナ反応の検査と適性評価が行われます。私が主席補佐として、手続きをお手伝いします」


セレナは穏やかに肯定するように頷いた。


「リスは学院での研究にも深く関わっているんですよ。彼女の助けがあれば、あなたの症状の解明も進むでしょう」


リスはセレナの評価に少し照れるように視線を落とし、すぐに新に向き直った。


「記録申請や診断データの収集も、私が担当させていただきます」


その言葉には、純粋な期待が込められていた。彼女にとって新は、単なる研究対象以上の何かに見えているのだろうか。


窓の外では、影がさらに伸び、ほんのり朱色を帯びた夕暮れの光が部屋に差し込んでいた。


セレナは立ち上がり、寝台の横の小さな棚から水差しと小さなパンをひとつ取り出して、新の横に置いた。


「少し眠りなさい。明日は長い一日になりますから。リス、あなたも部屋に戻って休みましょう」


リスはセレナの言葉に一度頷いたが、すぐに首を横に振った。


「私、もうちょっとだけここに……」


セレナは少し考え、そして軽く肩をすくめた。


「わかったわ。でも、あまり長くならないようにね」


セレナが部屋を出て行くと、再び静寂が訪れた。


リスは窓際の小さな椅子に腰掛けていた。黄昏の光が彼女の横顔を照らし、影と輪郭を際立たせている。


「……大丈夫?」


リスの声は、さっきまでとはまた違う、より身近で柔らかな響きを持っていた。公式な場にいるときの彼女とは、まるで別人のようだった。


「ええ。驚きが大きすぎて、実感が追いついてないだけ、かも」


新はそう答えながら、改めて自分の置かれている状況を整理していた。


異世界。マナという力。学院。

そして――アラタ・フューズという名。


(本当に、これでいいのだろうか)


脳裏をよぎった問いに、今は答えようがなかった。ただ、目の前にいるリスが、不思議と安心感を与えてくれる存在であることは確かだった。


「あのね、タカヤマさん……いえ、アラタさん」


リスの呼びかけに、新は思わず顔を上げた。その名で呼ばれるのは、初めてだった。


「私、あなたのこと、ちゃんと案内するから。この世界のこと、学院のこと、マナのこと――わからないことがあったら、いつでも聞いてね」


その言葉には、単なる親切を超えた何かがあった。責任感や、使命感とも違う。もっと――個人的な、決意のようなものが。


「ありがとう。でも、なんで、そこまで……」


問いかけの後半は、言葉にならなかった。


リスは少し首を傾げ、微笑んだ。


「なんでって……」


彼女は一呼吸置いて、静かに言葉を紡いだ。


「あなた、この世界で一人だもの」


それだけだった。けれど、その言葉には重みがあった。


新は黙って頷いた。言葉の意味は分かるが、それ以上の何かがそこにあるのも感じていた。だが、今はその"何か"を問う気力も浮かばなかった。


その代わり、ふと思い出したように訊ねた。


「そういえば、僕はどうやってここに来たんだろう」


リスの表情が一瞬だけこわばった。


「……それは、学院に着いてから。ちゃんと調べることになると思います」


そこに何かあるのは確かだった。けれど新は追及せず、ただ頷いた。


リスは立ち上がり、寝台のそばに来た。そして、新の手にそっと自分の手を重ねた。その手は小さかったが、温かかった。


「おやすみ、アラタさん」


リスはそう言って、静かに部屋を出て行った。


残された新は、暗くなりつつある部屋で、天井を見上げていた。


アラタ・フューズ。


その響きが、この世界での自分を定義していく。


新は目を閉じた。


明日からは、また新たな非日常が始まるのだろう。

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