1-3 交わされた名
目が覚めた、と気づくまでにしばらくかかった。
天井の模様が、ぼんやりと視界に浮かんでいた。
光は穏やかで、視線を動かすこともできた。口は乾いていたが、喉の奥の焼けつくような感覚はもうなかった。肺が、きちんと息を受け入れていた。何より、耳の奥にまだ残る脈動が、生きていることを知らせてくる。
それでも、しばらくはただ、目を開けているだけだった。
体を動かすには、まだ何かが足りなかった。起き上がる意志も、声を出す余裕もない。ただ、壁の線や棚の陰影を追いながら、自分の名前や今が何年かを思い出そうとしていた。
——そして、聞こえた。
「……もう、大丈夫だと思う。熱は引いてるし、反応も安定してる」
はっきりと、意味を伴って。
頭の奥に、その言葉が届いたとき、新は初めて、自分の身体に走る異変に気づいた。
聞き取れた。
異国語のはずなのに。彼女たちが話している言語であるはずなのに。耳に届いたその音は、まるで日本語のように、意味を持った文章として脳に届いていた。
(……何だ、これ)
音じゃない。構造だ。……法則性がある。
耳で聞くよりも先に、脳の内側で情報が整理されてしまう。言葉としてではなく、何かの数式を解いたときのように、「ああ、そういうことか」と腑に落ちてしまう。
それはどこか、夢の中で数学を使って会話していたような、不安定な既視感に近いものだった。
(でもそれが、現実の会話で起きている……?)
情報が届くことと、それを分かると感じてしまうこととの間に、どうしようもない違和感があった。
新は、声を出そうとしてやめた。
代わりに、そっと目線を動かす。隣に、あの少女がいた。寝台の脇に座り、こちらをじっと見守っていた。
視線が合う。
少女が、小さく目を見開いた。
「……気づいた?」
今度は確信を持ってわかった。意味が“分かって”しまった。音が言葉として聞こえてくる。そのことに、恐怖と同時に、どうしようもない疑問が沸き上がる。
「あなた……聞こえるの? 私たちの言葉が」
少女がそう訊ねた瞬間、部屋の奥にいた女性がこちらへ近づいてきた。
「発症からちょうど八時間……変化が起きるには、まあ、自然なタイミングですね」
白髪混じりの長い髪をひとまとめにした治療師が、じっと新の顔を覗き込む。厳しい目元だったが、どこか柔らかな慈愛もあった。
「意識が戻ったなら、まずはお名前を聞きましょうか。そちらが先でしょう?」
少女がこちらを見て、そっと微笑んだ。
「……うん。そうだね」
そして、再びこちらに向き直る。
「私は、リス。リス・エーテリン。……あなたの名前は?」
新は喉を鳴らし、軽く咳き込んだ。まだ言葉を紡ぐには、わずかに息が足りなかった。それでも、目を伏せてから一拍おいて、ゆっくりと名を告げた。
「……高山……新。たかやま、あらた、です」
「……タカヤマ、アラタ」
リスが静かに復唱する。その響きに違和感はなかった。むしろ、その異国由来の音を、まるで昔から口にしていたかのように自然に発音してみせた。
「不思議な響きだね。でも、いい名前」
治療師が新の側に立ち、腕を軽く組んだ。
「記憶はしっかりしていますね。お名前を答えられるなら、意識の連続性は問題なさそうです。体の感覚はいかがでしょうか?」
「……息が、楽になりました。喉の痛みも……もう、ないです」
「それは良かった。では、少し確認させてくださいね。言葉が聞こえる、ということでしたが……」
新はゆっくり頷いた。けれど、その頷きにはまだ戸惑いが混じっていた。
「音が……直接意味になって、頭に届いてくる感じです。普通に聞こえる、というのと、ちょっと違って……」
治療師が優しく頷いた。
「そうですね。おそらくあなたが倒れた時、体の中のマナが少し乱れてしまったのでしょう。その影響で、脳が『言葉の意味』を普段とは違う形で取り込んでしまったようです。その結果、私たちの言葉が理解できるようになったのだと思いますよ。大変珍しいですが、身体が問題ないのであれば心配はいりませんからね」
新は黙って治療師を見た。
言っている意味は分かる。けれどその内容には、あまりに多くの“前提”が含まれている気がして、新はその一つひとつに引っかかりを覚えていた。
(マナが乱れる、ってどういうことなんだ……? そもそも、マナって何なんだ)
誰もが当然のように使っている語だ。リスも、治療師の女性も、説明の中でごく自然に織り交ぜてくる。
それなのに、その言葉に自分だけが意味を与えられていない。まるで、ある文化圏ではごく普通の身振りが、別の文化圏ではまったく意味を持たないのと同じように。
何かを理解した気になって、それでも中身が伴っていない——そんな空虚さだけが残る。
一方で、その説明の語り口はどこか淡々としていて、けれど優しさが滲んでいた。
新は、そこでようやく、自分が「異常」であることを、彼女たちが特に強調しようとしていないことに気づいた。
(マナ……? 意味を、取り込んだ……?)
言葉の一つひとつは理解できるのに、概念として繋がってこない。まるで、「何かの説明を聞いて理解した気にはなったが、そもそもその単語が存在していない」という矛盾を抱えたような感覚。
その沈黙に、隣にいた少女がそっと口を開いた。
「……ねえ、混乱してる?」
新は、かすかに頷いた。
少女は言葉を探すように、少しだけ間を置いてから続ける。
「マナっていうのは……そうだな、空気とか、水とか、そんなふうにどこにでもある力、みたいなものかな。わたしたちの身体にも流れてて、それを使って魔術とかもできる。うまく扱える人もいれば、そうじゃない人もいるけど……あなたの場合は、そのマナがちょっと、暴れちゃったんだと思う」
空気のような力。身体に流れる何か。
言われてみれば、それは「気」や「精」と呼ばれるようなものに、どこか似ていた。自分はそういう話を信じてきたわけではなかった。けれど——実際に“言葉が分かる”というありえない現象を経験してしまった今、もう、そうしたものを完全に否定することもできなかった。
ふと、目を横に向けると、窓から柔らかな光が差し込んでいた。
小さな窓枠には乾いた草の束が吊るされていて、香草のような、落ち着いた香りが空気に混じっていた。
棚には陶器の瓶と、紙片の詰まった木箱がいくつも並んでいる。どれも使い込まれてはいるが、整然と並べられていた。
足元には、薄い敷布の上に置かれた木の床。その板の節目には、繰り返し磨かれた艶がわずかに残っていた。
(この世界は、こんなふうに、ちゃんと手が入っているんだ……)
どこか懐かしい、けれど確かに知らない空気。
それでも、「ここは危険な場所ではない」と、身体のどこかが納得していた。
そのことに、新は少しだけ驚いていた。
新は、小さく息をついた。
「……僕は、ここで何が起きたのか、まだ全然分かっていないんです」
言いながら、自分でもその事実に改めて気づいた。
治療師と少女が視線を交わし、それから、治療師の方がふっと微笑んだ。
「そうでしょうね。ならば、自己紹介がまだでしたね。私はセレナ・アルマース。この診療所の医師をしています。あなたの状態を診たのは、私です」
セレナ、と名乗ったその女性の声は、ようやく少しだけ緊張を解いたような響きを帯びていた。
「そして、ここはエステルの南端にある小さな集落、レヴェア。リスがあなたを見つけた場所からは、少し離れていましたが、運ぶ間に大きな悪化がなかったのは幸いでした」
「……レヴェア」
新は、その音を反芻するように口の中で繰り返した。全く聞いたことのない名前。——もちろん、そんな名前は、自分のどんな地図の記憶にもなかった。
ここはもう、自分の知っている世界ではない。——その実感が、ようやく確かな重みを持って胸に降りてきた。
「……ありがとう」
自然と、声に出ていた。何に対するものか、自分でもよく分からなかった。
リスは、すこしだけ目を丸くしたが、それから、かすかに笑った。
「どういたしまして」
それだけのやり取りなのに、不思議と胸の奥が温かくなった。
(こんなふうに……通じ合えるって、本当にあるんだな)
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