<10・オモテムキ。>

 するり、と縁花のぐちゃぐちゃになった髪から簪が引き抜かれる。机の上に置かれたそれを見て、映子は眼を見開いた。彼女の差していた銀の簪、そして花の髪飾り。どちらも鉄部分が錆びて、ぼろぼろになっているではないか。明らかに、身分の高い妃が身に着けるような代物ではない。


「やはり、こんなことだと思った。髪が揺れた時にちらりと見えたのだ、不自然に枝部分が赤茶に染まっていたからな。角度的に、本人には見えなかったのだろう」


 蓮花は縁花を鏡台の前の椅子に座らせると、てきぱきと簪と髪飾りを全て取り外し、ぐちゃぐちゃになった髪を櫛で綺麗に整えておく。化粧がやや崩れてしまうほど泣いていた縁花も、今は多少落ち着いて紙で涙をぬぐっている状態だった。


「……ど、どういうことです?」


 ついていけないのは映子である。蓮花は秀花に同調して縁花を苛め、無理やり部屋に連れ込んだようにしか見えなかったのだが。実際こうして部屋に入ってみれば蓮花はこの様子。説教どころか、縁花の髪の毛を綺麗にしようと手ずから櫛を持って働いているわけで。


「妃が使うような簪などが、そんな粗末なものであるはずがないだろう。大抵は貴族や隣国からの貢物、もしくは帝が贈った最高級品であるぞ」


 蓮花は映子に目を向けることもせず、手を動かし続けている。


「にも拘らず、縁花は錆びたものを差していた。それも都合よく本人に見えないような角度でな。……つまり、縁花が知らず知らずに恥を掻くようにと仕向けた者がいるということ。そのような品と、簪を取り換えられたのだ」

「と、取り替えたって……」

「まあ、縁花の世話をしている女官が買収された可能性が高かろうな。妃の身の回りの世話をするのも、髪を整えるのも女官の仕事だろう……まあ、私みたいに自分で殆どやってしまう者もいるが、縁花殿はそうではないだろうしな。……あれは、女官の誰かが使う安い簪を、酢にでも漬けて錆させたといったところか。そんな小細、御付きの女官くらいにしかできまい」

「そんな……」

「ま、黒幕は言うまでもなく、秀花であろうな」


 それは、自分にも想像がついている。さっきの物言いからしても、秀花が前の花舞台で縁花の帯に細工をしたであろうことは明白なのだから。


「私の持っている簪の中の……一番地味なやつを持って来い、映子。そこの棚に入っているやつだな。私が自分のをやったというのがバレると、秀花から疑われよう。というか、またネチネチイヤミを言われるのが目に見えている。……そうそう、その小さな赤い球がついているやつがいい。それなら大半の妃も持っているし、私のものだとあやつにも分からないだろうさ」


 なるほど、と映子は引出から簪、髪飾りをいくつか取りだす。縁花の髪を治した蓮花は、彼女の髪を綺麗にくるくるとまとめ直すと、丁寧に簪を差していった。あっという間に、ぐっちゃぐちゃだった髪が最初よりも綺麗に直っている。櫛と油だけでよくぞ、と思わず映子は呻いた。確実に、自分がやるより上手い。本来自分の身の回りの世話など人任せでいいはずの妃だというのに。


「何でそんなに上手いんですか」

「あのな、私は花街の出身だぞ。最初は禿はげから始まるんだ、家事も雑用も自分の着替えも全部自分でやるんだぞ。人の世話だってやる立場だ。あれもこれもできなくてどうする」

「……はげ?」

「ああいった店の見習いのことだ。当時の私は右も左もわからぬ幼子だったからな、最初から客など取れるものか。まずは雑用係から始まるんだ、知らないのか」


 知るわけがない。が、なんとなくそれで納得がいってしまった。蓮花が自分の着替えや髪などを全部一人でできるのも、ようはそういう店にいた事情があってのことだったらしい。当たり前のように家に女中や御付きの者がいる貴族の家の人間からは、到底想像もつかない世界である。


「……待て、そのまま立ち上がるな」


 髪の毛が終わったと見て椅子から腰を持ち上げようとした縁花の肩を抑え、制する蓮花。


「帯も酷いことになってる。これでは時間が経てば落ちるだろうな。……まったく、前回の花舞台の時と同じやり口ではないか。一度解くぞ、いいな?」

「す、すみません」


 どうしたんだろう、と茶色の帯が解かれているのを見る映子。そして、すぐに気づいた。縁花本人から見えない背中部分、帯の布が不自然に千切られているということに。しかもそれを、あろうことかまち針で止めているのだ。時間が経てば針が抜けて、そのまま帯が完全にほどけて落ちてしまうようになっているのは明らかだった。もっと言えば、まち針は大きくて鋭いものだ。動き方次第では、着物を貫通して体に刺さる危険もあっただろう。

 まるで、縁花が怪我をしても構わないとでも言うような。ここまでするか、と愕然とさせられた。確かに縁花の背景を覚えば、恨みを買ってしまうのも仕方ないことなのかもしれないが――あくまで縁花を妃にすると決めたのは帝である。何も帝に賄賂を贈って嫁がせて貰ったわけでもあるまいに。


「よく似た帯があっただろう。蔓草の模様が入ったやつだ。あれを縁花にやろう。どうせ私は使ってない奴だからな」

「で、でも蓮花様。簪を頂いた上で、帯までなんて」

「無駄に物が大量にあって余っているのだ、箪笥で埃積もらせるんじゃ勿体なかろう。必要としてくれる者が使ってくれた方が、帯だってきっと喜ぶさ。違うか?」

「縁花様……」


 どこまでも蓮花の聲は優しい。それでなんとなく、映子にも想像がついた。

 何故、蓮花が縁花を苛めているなんて噂があるのに、縁花が蓮花を庇うようなことを口にしたのか。

 恐らく、表向き蓮花を縁花を苛めているような素振りを繰り返してきたということなのだろう。多分、秀花のいじめから間接的に縁花を守るために。実際こうして思い返してみると蓮花は縁花の髪の毛をぐちゃぐちゃにすることで簪を代える口実を作ったし、過去の花舞台に関する侮辱からも完全に話題を逸らしている。その上で、秀花も自分に味方してもらっていると思っているので、それ以上追及してこない、という具合だ。


「……何でそんなまどろっこしいことするんですか」


 映子は呆れてしまう。なんとなく意図はわかったが、それでもどうにも納得がいかない。これでは完全に、蓮花が悪者にされてしまうではないか。あの状況、何も知らない人間が見れば、秀花と蓮花の二人がかりで縁花を苛めているようにしか見えない。むしろ第一妃である蓮花の方が、強い立場をもってして苛めを主導しているようにも見えるだろう。


「縁花様を守りたいならば、普通に庇って差し上げればいいのに」

「貴様は何もわかってないのだな、映子」


 蓮花は呆れたようにこちらを見た。


「女ばかりの鬱屈した社会。立場が弱いもの、何らかの理由で気に食わないと見なされた者が苛められるのはどこでもありうること。かつて私がいた店でも当然のようあったことだ。……そんな中、一番立場が強い者が下手に庇い立てしたら、ますますその者は嫉妬を買う。そして、苛めが陰湿化していくだけというのがわからないのか。私に苛めの加害者を追い出すほどの権限があるならともかく、実際は帝の一声がいなければ罰の一つも与えられんのだぞ」

「あっ……」

「ならば、ああいう者の自尊心を表向きだけでも保つ工夫が必要だろう。実際、私が『秀花の意見に賛同はするが、縁花は私の獲物だ』と示すようになってから、縁花への苛めは明らかに減っている。去年花舞台で帯に細工された時は……気づくことができず、可哀相なことをしてしまったがな」

「いえ、その件については蓮花様は何も悪くありません!」


 慌てたように縁花が声を上げる。


「帯が解けて着物がはだけてしまい、素肌が見えてしまった私はその場で完全に凍り付いてしまっておりました。しかしその時、蓮花様がわざと御座敷で湯呑をひっくり返して騒いでくださったのです。それでうやむやになって、私もどうにか舞台を降りることができたのです……!」


 ああ、と映子は理解した。全て、筋が通った瞬間。蓮花という女性は、つまり。


「何それ……不器用すぎるでしょ……」


 思わず素直に零してしまうと、蓮花が「仕方ないだろう」と肩をすくめた。


「他にやり方など知らん。どうせ私は、卑しい身分で第一妃にいる時点で皆に嫌われているのだ。これ以上悪評が増えたからどうということはない。それよりも、私と同じように望まずして後宮入りした若い娘が……さらに地獄を見せつけられ、鬱屈した生活を続けなければならない方が腹立たしい」


 これが、蓮花という女性の本質なのだろう。ワガママで自分勝手で自由奔放、そう自分達に見せていたのもひょっとしたら演技だったのかもしれない。ワルモノになることで誰かを救うには、性格の悪い妃だと思われていた方が都合が良いゆえに。

 それは。いつか第一妃になって帝に寵愛され、とにかく宋家の名誉と権力をほしいままにしてやろうという野望を抱いていた映子には絶対出来ないことだった。やってもいない罪を着せられ、望まぬ悪評を受けてひそひそと陰口を叩かれる。そうまでして、誰かのことを救おうなんて――そのような正義が、自分に成し遂げられるだろうか。


「……映子さん」


 縁花は振り返り、小さく笑みを浮かべて言った。


「誤解を受けやすい方ですけど、私にとっては……蓮花様は、この場所における唯一無二の友なのです。ですから、できれば映子さん、貴女にもそうなってほしい。御付きの女官である貴女にしかできぬことが、きっとあると思いますから」

「……余計な事を言う必要はないぞ、縁花。私への気遣いなど無用だ、今は自分の身のことだけ考えていれば良い」

「何もかもありがとうございます、蓮花様。でもこれが、私の偽らざる本心ですから」


 そうやって話す二人は、妃同士という立場を越えた温かいもので結ばれているように見えた。映子はそれを見て、ほんの少し――胸に痛みのようなものを感じることになるのである。

 自分は、蓮花という人の本質も、この後宮で生きるということも、何一つ大切なことを分かっていなかったのかもしれない。


――身分よりも、心の美しさ……か。


 いつか自分も、そのような人間になれるのだろうか。そうすれば、本当に欲しいものが手に入るようになるのか。


――でも、私が一番欲しいものって、何だろう。


 十六歳。自立した一人の人間であるつもりだったのに。想像以上に知らないことが多すぎると気づいて、映子は唖然とさせられたのである。

 そして、それからほんの数日後のことだったのだ。

 第九妃である縁花が、後宮から忽然と姿を消したのは。

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