<11・イナクナル。>
それはとても奇妙な事件だった。
というのも、後宮から妃が脱走するなど、通常ならあり得ないことだったからである。
帝がおわす『北神邸』は、丁度山に面する形で鎮座している。細長い長方形のような形であり、最も町に近いのが入口付近の『前宮』。その中央が『中宮』であり、妃達が暮らす『後宮』はもっと出口から遠く、町からも遠い山の麓にある。要するに、妃たちの住まいは窓から脱走したところですぐ後ろは山であるし、何の装備もなしに歩き回れるような場所ではない。もっと言えば、兵士達も頻繁に巡回しているのでその眼をかいくぐって建物から抜け出すことが相当難しいのだ。
それに勿論、中宮の方から抜け出していくのも無理。後宮と中宮を繋ぐ渡り廊下は深夜には封鎖されるし、封鎖されていない時間は必ず見張りの兵士が立っている。そして、帝を除く男性は特別な時を除きまず後宮には立ち入れない仕組みだ。妃たちの居住区に囲まれる形で帝の寝室が存在している。後宮の守りを固めることは女性達の逃走を防ぐのみならず、帝の御身を守ることにも繋がるというわけだ。
つまり。
これだけ厳重に守られた場所。何の後ろ盾もなく、妃が逃げ出すなど本来不可能なのである。
縁花が前の晩の夕餉に出ていたこと、夜に女官たちに湯殿の世話をされていたことまでは確認が取れている。そして、朝の時間。朝餉の少し前に御付きの女官が彼女の部屋を訪れたところ、もぬけの殻になっていたというわけだった。そして、机の上には手紙が一筆。
『私のような愚かな者が此処にいては、帝にも妃の皆様方にも大層なご迷惑がかかってしまいます。
次の花舞台でも、高貴な皆様の前でご満足のいく舞が踊れる自信がまったくありません。
考えた末、自ら命を絶ってお詫びするしかないと考えました。
しかし、帝のおわすこの地を、私のような汚らわしい者の血で汚すわけには参りません。
山奥でひそかに命を断とうと思います。
皆さまに僅かでも慈悲がおありなのでしたら、どうか。どうか私の死体を、探さないで頂けますようお願い申し上げます。
醜い最期の姿を、誰かに晒すことの、どうか叶いませぬよう。
縁花』
本人の言を信じるのならば、真夜中に後宮を抜け出して山奥まで行き、そこで一人命を絶ったということになる。
実際彼女の姿はどこにも見つかっていない。念のため町の方をくまなく探したようだが、彼女らしい女性の姿は見つけられなかったという。まあ、帝の元から逃げ出してきた妃を匿えば、その者にも反逆罪が課せられることになる。見つかれば一発で死罪。そのような重荷を背負ってまでも、娘を匿おうとする奇特な者などそうそういないのが事実であろう。
勿論、帝の兵士達は彼女の家族を含め、彼女が慕っていたであろう商人のところもひっくり返して探したようだが。彼女が戻ってきた痕跡は、何処にも見つけられなかったという。となれば本当に山奥に逃げて自害したと考えるのが自然なのだろうか。しかし、後宮を後ろにのっぺりと聳え立つ
下手な捜索は、さらなる遭難者を出す結果になりかねない。
見つかったところで生きてはいないであろう女を探すために危険を冒すなど、愚の骨頂と言っても過言ではない。ゆえに、恐らくは縁妃は逃げ出して自殺したのだと見なされたまま、捜索が打ち切られるであろうことは想像に難くなかった。
「しかし、私は納得が行きません……!」
「何がだ」
今日も今日とて部屋で蓮花に舞を教わりつつ、映子は不満を漏らした。
「何がだ、じゃないでしょう!縁花様がいなくなったのですよ、悲しかったり心配だったりしないのですか!」
正直、練習に身が入るような状況ではなかった。自分と縁花の繋がりなど、蓮花を通した間接的なものでしかない。それでも、既に自分は縁花に一定の情が沸いてしまっているのも事実。追い詰められていた、そういう状況にあったのは事実だ。しかし、だからといって自ら死を選ぶなど、そんな悲しいことがあっていいはずがないではないか。
同時に。本当に縁花は自害したのか?という疑問も残る。確かに彼女の部屋からは、彼女が身に着けていたであろう着物や簪以外にも、護身用として部屋に用意されていた小太刀が一振り消えていたのも事実。それを使って山奥で果てたというのが本当ならば、確かに死体を見つけるのは困難を極めるだろう。
問題は、それよりも前。
どうやって見張りの眼を掻い潜り、後宮から逃げ出すことができたのかどうか、である。
「兵士の眼もあったでしょうし……そもそもこの北神邸は、地面よりもかなり高いところに柱を立ててあります。前宮から廊下を渡って来るならともかく、後宮の窓から普通に逃げることなど不可能です!あんな高さから森に飛び降りたら、一歩間違えればそれだけで死にます!」
もっと言えば、女官たちの動きやすい赤袴の姿とは違い、妃達は豪奢な着物を身に纏って部屋から出るのが一般的である。自分は着たことがないので想像するしかないが、何重もの布を重ねているあの着物が軽いものであろうはずがない。舞を踊るだけでも大変だろうに(だからこそ、軽々と息一つ乱さず舞ってみせた蓮花は身体能力が高いのだろうが)、それを着て高下駄を履いて、一体どうやってあんな歩くのも難しい山道を行くというのか。
登山に最も適した装備を身に着けた、精鋭の兵士達でさえ遭難する時は遭難するような魔の山なのである。この時期ならば、夜はかなり涼しくなるはず。山の上の方ともなればもっと冷え込むことだろう。そのような場所で、あのような格好で、女一人動き回るなど自殺行為だとしか思えない。いや、本当に死ぬ気であったというのならそれもそれ、なのかもしれないが――。
「少なくとも北神邸の周辺を兵士の皆様が探しても、縁花様らしき遺体は一切見つけられなかったといいます。つまり、生きてるにせよ死んでいるにせよ、兵士にすぐ見つけられないほど遠くまで逃げのびられたということ……!そんなこと、本当に可能だと思いますか?」
「だが実際、縁花の姿はどこにもなかったではないか。ならば生きてるにせよ死んでいるにせよ逃げた、それ以外の答えがどこにあるというのだ」
「蓮花様!」
あまりにも、物言いが冷たすぎる。思わず映子は声を荒げていた。
「縁花様は……蓮花様を、唯一の親友であると仰っていたではありませんか!」
『誤解を受けやすい方ですけど、私にとっては……蓮花様は、この場所における唯一無二の友なのです。ですから、できれば映子さん、貴女にもそうなってほしい。御付きの女官である貴女にしかできぬことが、きっとあると思いますから』
「それなのに……それなのに!生きていても死んでいてもいいみたいな、そんな物言い!あまりにも薄情なのではありませんか!」
いくら蓮花が寛大とはいえ、御付きの女官が妃に言うにはあまりにも過ぎた言葉だと分かっていた。それでも、縁花のことを想うとあまりにもやるせなくてならなかったのだ。
ひょっとしたら、友人と思っていたのは縁花の方だけだったのではないか。
蓮花の存在を、彼女にとって地獄に近いものであったであろうこの場所で――唯一のよりどころにしていたであろう縁花が。それではあまりにも浮かばれないのではないか、と。
「……映子」
やがて、蓮花は。ぽすり、と寝具に腰を下ろして言ったのである。
「貴様が縁花のことをそこまで想ってくれるのは、友として嬉しく思う。だが、貴様にはわかるまいさ」
「何がっ」
「人は時に、死をもってしか救われぬこともある。生きて辱めを受けるくらいなら、死してそこから逃れることだけが救いだと思う者もいるということ。……望んで後宮に来た貴様には、きっとわからないことであろうがな」
「!」
『これはどうか……どうか映子、貴女の胸にだけ留めて欲しいのですが。実は私には当時他に、お慕い申し上げている方がいたのです』
『羞恥心と同時に、安堵もしていました。これできっと、帝はこのようなみっともない娘は選ばないでくださると。……しかし、何故かその年の春舞台では、私一人だけが帝に見初められて後宮に入ることとなったのです。どれほど絶望したかなど、言うまでもありません……』
縁花には、ひそかに慕う男性がいた。しかし彼と添い遂げるには身分の差が大きな障害となり、しまいには帝との婚姻によって永遠に叶わなくなってしまったのである。
彼女は、望んで此処に来たわけでは、なかった。
その上で、実際に来て見れば名誉を得るどころか、第二妃をはじめとした妃達に冷遇され、苛められ続ける日々。どれほど追いつめられていたかは、言うまでもない。そして一度後宮に入ってしまったら最後、まともな手段でここから逃れることは不可能だということも。
「縁花には、ずっと恐れていたことがあった。……それはいつ、帝の閨に呼ばれてしまうかということ」
ふう、とため息をつく蓮花。
「今の帝は、私に執心だ。殆どの夜、私を部屋に呼ぶ。しかし、時には気まぐれに他の妃を呼ぶこともないわけではない。そして、春舞台のあととなると、高揚のまま複数の妃を交えて乱れた行いに及ぶこともあるのだ。……縁花はまだ呼ばれたことはなかったようだが、それも時間の問題だったろうさ。好いた男がいるというのに、別の男に抱かれなければならない。それが帝であるかどうかなど関係がない。……貴様も恋をすれば、それもかろうというものよ」
「だから、死んででも逃れたかった、と」
「それも一つの幸福なのだ。……少なくとも死ぬことで、確実に操を守り抜くことができるのだから」
「でも、それ、は」
「今はわからなくても、いい。貴様も、恋をすればきっとわかるであろうよ」
そう言われてしまえば、映子は何も言えなくなってしまう。好きな男が出来たことなど、自分は一度もない。いつか帝に見初められて妃になることができれば、宗家の栄誉も女としての最高権力も全てが手に入るのである。ならばそのために、帝と寝ることなど特になんとも思っていなかった。妃になればきっと、どれほど年上の男であろうと、帝を愛することができるようになるはずだからと。それが普通のことだからと。
だから、想像がつかない。
他に好きな人ができてしまったら。それ以外の男に、肌を許すことができるのか。それに嫌悪感を抱くようなことになるのかどうか、なんて。
同時に。
「もしや……蓮花様も、どなたかお慕いになられる方が?」
ここまでの理解を示すのだ。彼女は本当に縁花の行き先について知らないのだろうか。
好きな人がいて、その気持ちがわかるからこそ。蓮花は縁花を、ひそかに逃がす手引きをしたなんてことは。
「……余計な詮索は無用よ」
蓮花は、やや苦い笑みを浮かべて告げた。
「さて、休憩は終いだ。稽古に戻るぞ、映子」
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