第三話:獣人の騎士と邂逅

遠くで聞こえた金属音と話し声。それは明らかに、この森の生態系に属さない音だった。人間か? あるいは…。


俺は反射的に身を屈め、近くの茂みに体を滑り込ませた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。七年間、この森で誰とも遭遇せずに生きてきたのだ。油断は死に繋がる。


(誰だ? 何をしにこんな森の奥まで…?)


前世の知識と、この森での経験が警鐘を鳴らす。人間は時に、この森のどんな魔獣よりも危険で、予測不能な存在だ。


だが、同時に強い好奇心も感じていた。外の世界を知る手がかりになるかもしれない。


俺は呼吸を殺し、音のする方角へ慎重に移動を開始した。木の幹から幹へ、音を立てないように地面を選びながら進む。時折立ち止まっては耳を澄まし、風に乗って運ばれてくる匂いを嗅ぎ分ける。血の匂い…それと、汗と、鉄の匂い。そして、微かに獣のような匂いも混じっている。


(怪我をしているのか? それに、獣…?)


さらに近づくと、話し声の内容が断片的に聞き取れるようになってきた。


「…くそっ、あの『森狼(フォレストウルフ)』め…思ったより深手か…」


低い、男の声だ。苦痛を堪えるような響きがある。


(単独…いや、声は一つだけだ。戦闘があった後らしい)


茂みの隙間から、慎重に様子を窺う。


開けた場所に、大柄な男が一人、木の根元に座り込んでいた。年の頃は二十代前半だろうか。鍛えられた体躯に、使い込まれた革鎧と剣。間違いなく戦士系の人間だ。しかし、その姿は普通の人間とは少し違っていた。


ピンと立った獣の耳、そして顔や腕から覗く茶色の毛並み。腰の辺りからは、ふさふさとした狼のような尻尾が覗いている。


(獣人…族? 前世のファンタジー知識でしか知らない存在が、本当にいるのか…)


男――獣人の戦士は、左腕の鎧を外し、傷口を押さえていた。布には血が滲み、顔には苦痛の色が浮かんでいる。彼の足元には、大型の狼に似た魔獣…おそらく彼が言っていた『森狼』だろう、その亡骸が転がっていた。


状況はある程度把握できた。彼は魔物との戦闘で負傷し、ここで手当てをしているのだろう。単独行のようだし、敵意を剥き出しにしているわけでもなさそうだ。


(どうする…?)


声をかけるべきか? いや、危険すぎる。俺のような子供が一人で森の奥にいること自体が不自然だ。警戒されるに決まっている。


だが、彼の傷は無視できないほど深いように見えた。このまま放置すれば、化膿して命に関わるかもしれない。それに、彼が持っている装備、服装…どれも俺が知らない、外の世界のものだ。情報を得る絶好の機会でもある。


リスクとリターンを天秤にかける。前世の俺なら、迷わず無視して立ち去っただろう。関わらないのが一番合理的だ。


しかし…。


(…もし、俺が助けを求めている時に、誰かに見捨てられたら?)


母親がいなくなった時の、あの途方もない孤独感と絶望が脳裏をよぎる。


一瞬、彼の腕の傷に意識を集中する。『情報奔流』が脳を焼く。


――筋繊維の断裂。深部組織の損傷。出血量。細菌汚染の可能性…――


「…っ!」


短い接触でも、激しい頭痛が襲う。だが、必要な情報は得られた。思った以上に傷は深い。早急な処置が必要だ。


俺は覚悟を決めた。ゆっくりと茂みから姿を現す。


「…あの」


できるだけ警戒させないよう、か細い声で呼びかけた。


ビクッ、と獣人の戦士が肩を震わせ、素早く剣の柄に手をかける。鋭い視線が俺を捉えた。


「誰だ!?」


低い唸り声のような声色。警戒心が剥き出しだ。無理もない。


俺は両手をゆっくりと上げ、敵意がないことを示す。


「通りかかっただけだ。怪我、してるみたいだから…」

「…子供? なぜこんな森の奥に一人で…親はどうした?」


男はいぶかしげに俺を見た。俺のみすぼらしい格好や、自分でも気づかない異様な雰囲気に、何かを感じ取っているのかもしれない。


「親は…いない。ずっと、ここで一人で生きてる」

「一人で? この森で?」


男は信じられないというように目を見開いた。森狼を倒せるほどの戦士でも、この森の危険は熟知しているのだろう。


「嘘をつくんじゃない。攫われたのか、それとも迷子か?」

「嘘じゃない。…それより、その腕の傷、酷いぞ。ちゃんと処置しないと、腐るかもしれない」


俺は彼の傷を指差して言った。医学知識も、前世で多少はかじっている。


男は自分の傷に視線を落とし、顔を顰めた。


「…素人に応急処置はしたがな。まあ、見ての通りだ。だが、ガキのお前に何ができる?」

「少しなら、手伝えるかもしれない。薬になる草も知ってるし…それに、『これ』も使える」


俺は懐から、試しに錬成しておいた小さな石のナイフを取り出した。もちろん、これで外科手術をしようというわけではない。あくまで、俺が「何かを持っている」こと、そしてそれが「普通ではない」ことを示すためだ。


男の目が、俺の手の中のナイフに注がれる。石を削っただけにしては、妙に鋭く、滑らかな刃だ。普通の子供が持っているようなものではない。


「…お前、何者だ?」


警戒心は解けていない。だが、先ほどのような敵意は少し薄れたように見えた。


俺は答える代わりに、彼に近づこうと一歩踏み出した。


「傷を見せて。俺なら、もう少しマシな手当てができる」

「待て、近づくな」


男は制止する。しかし、その声には先程よりも力がなかった。出血と痛みで、体力が奪われているのだろう。


俺は足を止め、彼の目を見据えた。


「俺はアッシュ。あんたの名前は?」


名乗ることで、少しでも警戒を解こうという試みだ。


男はしばらく俺を睨みつけていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「…バルガスだ。しがない流れ者だよ」


バルガス、と名乗った獣人の戦士。それが、俺がこの世界で初めてまともに言葉を交わした人間(?)だった。


この出会いが、俺の孤独な森での生活を終わらせるきっかけになるのか、それとも新たな厄介事を呼び込むだけなのか。


まだ、俺には知る由もなかった。ただ、目の前の傷ついた獣人を助けなければ、という思いだけが強くあった。それは合理性からではなく、もっと別の…人間的な感情からくるものなのかもしれない。俺自身、その変化に少し戸惑いながら。

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